第十話 二つの未来
非常灯の赤い光は、影を歪めた。
展示室に並んでいた絵は、暗闇の中で輪郭だけを残し、意味を失っていく。
灯は、そのことに、奇妙な安堵を覚えていた。
——見えなければ、固定されない。
「動くな」
東堂の声が、低く響いた。
足音が、二つ。
展示室の奥から、入口の方へ。
観測者たちは、逃げるつもりはないらしい。
むしろ、こちらの反応を測っている。
「追いません」
灯が、囁くように言った。
「……理由は」
「ここで捕まえても、
展示は止まりません」
東堂は、舌打ちを飲み込んだ。
照明が復旧したのは、それから数分後だった。
展示室は、すでに空になっている。
絵だけが残されていた。
壁一面に、未来の断片。
「持ち帰れる証拠は?」
東堂が問う。
灯は、首を振った。
「これは、証拠じゃない」
「じゃあ、何だ」
「思想です」
思想は、押収できない。
署へ戻る車の中で、灯は一言も喋らなかった。
スケッチブックを、膝の上に置いたまま。
——まだ描かれていない。
その事実が、頭から離れない。
部屋に戻り、ドアを閉めた瞬間、
灯は、その場に座り込んだ。
指が、勝手にスケッチブックを開く。
「……だめ」
声に出しても、止まらなかった。
ページの中央に、線が生まれる。
白い部屋。
並べられた絵。
そして——二人の自分。
一人は、スケッチブックを抱えて立っている。
もう一人は、手ぶらで、背を向けている。
背景が、違った。
前者の背後には、展示室。
後者の背後には、何もない白。
二つの未来。
灯は、息を止めた。
——選べる。
初めて、そう思った。
今までは、描いたものが“来る”だけだった。
だが、この絵は、選択を含んでいる。
描き続ける未来。
描かない未来。
スケッチブックを閉じる手が、震えた。
スマートフォンが鳴る。
『東堂です』
「……はい」
『展示室の件、上には報告しました。
正式な捜査になります』
灯は、少し間を置いた。
「東堂さん」
『はい』
「もし、私が——」
言葉が、詰まる。
「描くのを、やめたら」
電話の向こうで、東堂はすぐには答えなかった。
『それでも、描こうとする人間は現れる』
現実的な答え。
『でも……』
続く言葉が、少し柔らかくなる。
『あなたが、どう生きるかは、
あなたが決めていい』
灯は、目を閉じた。
展示室の白。
自分の部屋の白。
同じ色なのに、意味が違う。
「ありがとうございます」
電話を切り、灯は窓を開けた。
夜の空気が、流れ込む。
遠くで、街の灯りが瞬いている。
スケッチブックを、机の引き出しにしまう。
鍵は、かけなかった。
——まだ、決めていない。
だが、確かに、
未来は二つに分かれている。
そのどちらにも、
不知火 灯は、立っていた。




