第一話 白い壁
白は、何も描いていないという意味ではない。
描く前に、すべてを拒んでいる色だ。
不知火 灯は、アトリエ代わりのワンルームで、何も描かれていないキャンバスを眺めていた。
正確には、眺めているふりをしていた。
壁に立てかけられたキャンバスは三枚。すべて白。
床に転がる画材は、使われた形跡があるのに、完成した絵は一枚もない。
描けないわけではない。
むしろ逆だ。
描いてしまうから、描かない。
灯は、指先についた鉛筆の粉を、無意識にこすり落とした。
洗っても、なかなか取れない。
絵を描く人間の指は、いつも少し汚れている。
スマートフォンが震えた。
バイト先からのメッセージだった。
『今日も入れる?』
短い文面。
灯は、少し考えてから「入れます」とだけ返した。
画家を名乗るには、生活が現実すぎた。
コンビニの深夜帯。週に三回。
それで家賃と最低限の画材費が払える。
美大を出た肩書きは、履歴書の端で静かに死んでいる。
コートを羽織り、部屋を出る。
夜の空気は、湿っていた。
駅までの道は、いつも同じだ。
街灯、閉店した花屋、シャッターの落ちた居酒屋。
変わらない風景は、人を安心させる。
未来が同じであるように錯覚させてくれるからだ。
ホームに上がると、電車はすでに来ていた。
人はまばらで、互いの存在を気にしない距離が保たれている。
灯は、何気なく、向かいのベンチに座る男を見た。
それだけだった。
視線が触れた瞬間、胸の奥が、ひどく静かになった。
音が消え、時間が薄くなる。
慣れた感覚だ。
——あ、来る。
灯は、慌ててスケッチブックを取り出した。
描こうと思ったわけではない。
描かないという選択肢が、すでになくなっていた。
鉛筆が走る。
雨。
濡れた路地。
倒れている人影。
赤ではない、黒に近い液体。
壁に設置された監視カメラ。その死角。
男の顔は、描かれなかった。
息を整えたとき、絵は完成していた。
数十秒。
それだけで、未来は紙の上に落ちている。
灯は、スケッチブックを閉じた。
心臓の鼓動が、少し遅れて戻ってくる。
——まだ、起きていない。
そう分かっていても、喉が乾いた。
描いてしまった以上、この絵は「可能性」ではない。
どこかで、現実と繋がってしまっている。
男は立ち上がり、電車に乗った。
何事もなかったように。
灯は、その背中を見送った。
通報すべきか。
しないべきか。
答えは、いつも同じだ。
見なかったことにできないなら、知らせるしかない。
駅を出て、公衆電話を探す。
スマートフォンではなく、公衆電話。
理由は自分でも説明できなかったが、そうするようになっていた。
「……もしもし。事件じゃないかもしれません。でも……」
説明は、うまくできなかった。
絵のことは言わない。
言えば、そこで終わる。
電話を切ったあと、灯は少しだけ震えた。
寒さではない。
また、点けてしまった。
自分が、何かを照らしてしまった感覚だけが、残っていた。
電車が通り過ぎ、風が吹き抜ける。
白いキャンバスのような夜の中で、
不知火 灯は、立ち尽くしていた。




