三途の川
目の前には川が流れている。おそらく——三途の川だ。渡れば死。しかし今の僕は、たぶんまだ生きている。そう思いたいだけかもしれない。確かめる術はない。周囲には濃い霧が立ち込め、足元さえ曖昧だ。
僕はすでに渡り切ったのだろうか? それとも、まだこちら側にいるのか? いや、そもそも “あちら側” へは、どうやって行くのだろう。停滞することは、生きることのようにも思えるけれど、人間の本能は、先へ進もうとする。僕も行ってみたいと思う。……船か? 徒歩か? それとも、泳ぐしかないのか?
三途の川を泳いで渡る途中で溺れたら、どうなるんだろう? 到着前に死んだら、それは“死”なのか?
そもそも、今の僕は何者なんだ? これは夢か? 現実か? 今、この世界で僕はどうなっている?
——きっと、病院のベッドで眠っているんだと思う。体は生きていて、家族が傍で見守ってくれている。そうであってほしい。でも、もしかすると通勤電車に轢かれたのかもしれない。あの毎朝乗っていた、混雑した電車で…。
そういえば、家族に言われたことがあった。
「自殺するなら、人に迷惑をかけずに死んでほしい」と。
電車で死ねば、家族が賠償金を背負う。それだけは絶対にやめろと、何度も言われていた。
「うわっ!」
思わず声を上げた。いや、夢の中だから、そう思っただけかもしれない。けれど、そこに——あちら側に、やせ細った女の人が立っていた。手招きしている。
「くるしい……」
やせ細った女の人の声だろう。
「たすけて……」
助けなきゃ、と思った。ここがどこだろうと、人を助けるのに理由なんていらない。
僕は川を渡ろうとした。泳ぐのは苦手だけど、そんなこと言ってる場合じゃない。僕は川に入った。冷たい水が肌を刺す。がむしゃらに泳ぐ。きつい。苦しい。僕は体力もないし、あちら側に辿りつけるかどうかさえわからない。
ふと、あちら側の女の人を見た。すると——
彼女は、笑った。
僕の泳ぎが下手すぎて笑ったのか。それとも、僕が“あちら側”へ来ようとしていることを喜んでいるのか。
そのとき、急に——
息が、できなくなった。
やはり、泳ぐのは苦手だ、、、
次の瞬間、僕は目を覚ました。家のベッドの上だった。
起き上がろうとすると、めまいがした。喉がカラカラに乾いている。水が飲みたい。一階へ降りようとしたそのとき——階段の途中で、意識が遠のいた。
再び目が覚めると、そこは病院のベッドだった。
どこからが夢で、どこからが現実だったのか、わからない。
医師が言うには、僕は熱中症で倒れていたらしい。
……生きてて、よかった。
水分補給って、本当に大事だ。