四
古い倉庫の扉が開くと、埃が舞い上がった。天井からは細い光が差し込み、広い空間を薄明るく照らしている。
「ここが、研究所に?」イビットは不安そうに周囲を見回した。
「ああ」リックは大きく頷いた。「掃除と修繕は必要だが、十分な広さはある。あそこに培養設備を置いて、こちらを実験スペースにして...」
話している間にも、イビットは既に研究者としての目で空間を査定し始めていた。「光、重要。あと、温度管理も」
二人が設備の配置を考えていると、扉口に人影が現れた。
「おや、これは珍しい組み合わせだね」
振り返ると、鍛冶屋のグレイムが立っていた。がっしりとした体躯の熟練工は、イビットを見ても特に驚いた様子を見せない。
「ヴァイスから聞いていたよ。研究所の改装を手伝えと」グレイムは作業用の革エプロンを叩きながら言った。「培養設備には安定した温度が必要なんだろう?ちょうどいい暖房システムを考えていたところさ」
イビットは最初こそ身を縮めていたが、グレイムが具体的な設備の話を始めると、少しずつ興味を示し始めた。
その時、外で騒がしい声が聞こえ始めた。
「あれが噂のゴブリンの研究所か?」
「町の中に魔物を入れるなんて」
「ギルドは何を考えているんだ」
リックは眉をひそめた。予想はしていたが、やはり反発は強そうだ。
「気にするな」グレイムは淡々と言った。「昔は私の工房にドワーフが来た時も、同じような反応だったよ。今じゃあ、誰も気にしちゃいない」
その言葉に少し救われる思いがしたが、突如、甲高い叫び声が響き渡った。
「イビット!」
倉庫の入り口に、一団のゴブリンが現れた。その中心にいる年長のゴブリンは、イビットより一回り大きく、首から様々な骨のアクセサリーを下げている。
「まさか、本当に人間の町に...」年長のゴブリンは悔しそうに歯を噛みしめた。「お前は氏族の恥だ」
「兄さん...」イビットの声が震えた。
リックは前に出ようとしたが、グレイムが腕を伸ばして止めた。「待て。これは彼らで決着をつけるべきことかもしれない」
「でも...」
「見守れ」
イビットの兄は、一歩前に出た。「戻るんだ、イビット。お前の場所はあくまで群れの中だ。この歪んだ研究は、もう十分だ」
「歪んでない」イビットの声は小さいが、芯が通っていた。「僕の研究は、みんなを救える。兄さんこそ、見て」
イビットはベルトから小瓶を取り出した。「これ、兄さんの、昔の傷の記録。あの時、もし僕の技術があれば...」
「黙れ!」兄は叫んだ。「お前は氏族の戦士になるべき存在だった。それなのに、こんな...」
「違う!」
イビットの声が、これまでにない強さで響いた。
「僕は戦士じゃない。でも、僕には僕の戦い方がある。細胞を育て、傷を治し、命を救う。それが、僕の選んだ道」
イビットは自分の培養器具を大切そうに抱きしめた。「兄さんは、氏族の誇りは戦いにあると言うけど、僕は違う道で誇りを見つけた。もう、戻らない」
周囲が静まり返る中、イビットの兄は長い間、弟を見つめていた。やがて、深いため息をついた。
「...勝手にしろ」
そう言い残して、兄は踵を返した。他のゴブリンたちも、それに続いて去っていく。最後に兄は振り返り、
「氏族には、お前は既に死んだと伝える。もう、関わりは持たない」
その言葉には、痛みと、かすかな祈りのような何かが混ざっていた。
イビットは、兄の背中が見えなくなるまで見送っていた。その小さな肩が震えているのを、リックは黙って見守った。
「さて」しばらくしてグレイムが声を上げた。「暖房の話の続きをしようか。あと、培養器具の設置台も作らないとね」
イビットは目を拭いながら、小さく頷いた。新しい一歩を踏み出すための、静かな決意がそこにはあった。




