一
血の匂いが、湿った空気に混ざって漂っていた。
リックは右腕を押さえながら、倒木に寄りかかった。先ほどの戦いで受けた傷は深く、応急処置だけでは追いつかない。携帯していた治癒薬は使い切り、このままでは森から出られない。冒険者ギルドの初級ランクとして、単独での依頼は慎重に選んでいたはずだったが、今回は読みが甘かった。
「くんくん…」
突然、低い位置から匂いを嗅ぐような音が聞こえた。リックは反射的に短剣を構えたが、その動作で傷が更に痛み、顔をしかめる。茂みの向こうから姿を現したのは、予想外の存在だった。
ゴブリンだ。それも幼い個体。だが、普段見かけるゴブリンとは様子が違った。全身を覆う薄汚れた布のようなローブの上から、奇妙な形のポーチや小瓶をぶら下げている。その手には、透明な液体の入った小さな容器を持っていた。
「…血の成分、良さそう」
予想外の言葉に、リックは目を見開いた。ゴブリンが人語を話すこと自体珍しくはないが、その声には幼さと知性が奇妙に混ざり合っていた。
「近寄るな」リックは警戒しながら言った。
ゴブリンの子供は首を傾げ、「治してあげられるよ」と言って、ベルトから別の小瓶を取り出した。中には淡い緑色の液体が入っている。
「俺の血が欲しいのか?」リックは状況を理解し始めていた。ゴブリンの培養技術については、ギルドの講習で教わっていた。彼らは傷の治療と引き換えに、生体サンプルを要求する。だが、群れで行動するはずのゴブリンが、なぜ一人でここにいるのか。
「うん。でも、先に治療。それが、手順」
その言葉には妙な几帳面さがあった。リックは選択肢を考えた。このまま放置すれば傷は確実に悪化する。かといって、ゴブリンを信用していいものか。
「お前、群れは?」
「...僕は、違う道。培養だけ。戦いはしない」
ゴブリンの子供は、自分の持つ培養器具を見せるように広げた。確かにそれらは粗雑ながらも研究器具のように見える。その仕草には、どこか誇らしげな様子すら感じられた。
リックは深いため息をついた。「わかった。治療を頼む。だが、変なことをすれば―」
「しない。約束。僕は、イビットって言うんだ」
ゴブリンの少年―イビットは、リックに近づくと、まず傷口を注意深く観察し始めた。その仕草は、まるで熟練の医術師のようだった。
「深いけど、大丈夫。再生、速い血だから」
イビットは緑色の液体を傷口に垂らし始めた。痛みはなく、むしろ心地よい温かさが広がる。目の前で傷が少しずつ塞がっていく様子は、まるで魔法のようだった。だが、これは魔法ではない。ゴブリンたちが代々継承してきた、細胞培養の技術なのだ。
「これで、大丈夫」イビットが作業を終えると、今度は小さな採血キットを取り出した。「約束の、サンプル」
リックは黙って腕を差し出した。イビットは手慣れた様子で血液を採取し、それを丁寧に保存容器に移し替えた。その一連の動作には、どこか研究者のような正確さがあった。
「なあ、イビット。お前、なぜ群れを離れた?」
採血を終えたイビットは、質問に少し躊躇した様子を見せた。「みんな、戦いたがる。でも僕は、これが好き。だから、違う道」
その言葉には寂しさと、同時に強い意志が感じられた。リックは自分の腕を見つめた。傷跡は既にかすかなピンク色の線になっていた。
「俺は、リックだ。また会えるか?」
イビットは小さく頷いた。「森の、この辺りにいる。血、面白いから、また観察したい」
それは奇妙な出会いだった。冒険者とはぐれゴブリン。血液と治癒を交換しながら、二人の間で何かが始まろうとしていた。それが友情と呼べるものなのか、まだ誰にも分からない。
イビットは自分の器具を丁寧に片付けると、来た時と同じように静かに茂みの中へと消えていった。残されたリックは、完治した腕を見つめながら、この不思議な出会いの意味を考えていた。




