バレンタインのあの日、下駄箱に映画の予約席のチケットが入っていたが、贈り主の名前はなかった。その映画に行ってみると……
「明日はバレンタインだな」
「どう? チョコとかもらっている?」
「全然だよ。コロナで義理チョコの風習が止まった。それ以後、復活の兆しはない」
「ウチもだ」
「でもお返しが大変だったからかえってよかった」
「奥さんからはないのかい」
「ないね。我が家では存在自体無視されている」
「浮いた話の一つくらい」
「無いよ。この歳になれば、誰も相手にしてくれないし、第一もう卒業したよ」
「ふーん。なんだか寂しいな」
恭一は行きつけの飲み屋で常連客の山さんと世間話をしていた。
「でも、学生時代はモテたんじゃないか。髪の毛がもっとあれば恭さんはモテるタイプだからな」
「おい、髪の毛の話は余計だろう。だが高校生の時には確かにチョコをもらったことがある」
「オレは男子校だったからさっぱりだ。聞かせてくれよ。どうだったんだい」
カウンターの向こうの女将まで身を乗り出して来た。
「恭さんの青春、私も聞いてみたいわ」
「下駄箱に入っていたんだ。うちの学校は土禁で、登校すると玄関で内履きに履き替えるんだ。その下駄箱にバレンタインの日にチョコが入っていた」
「誰からなんだよ」
「それがわからないんだ。カードも手紙もついてなかった」
「なあんだ」
「でも封筒が一緒に置いてあり映画のチケットが一枚入っていた」
「映画のチケット?」
「それも指定席で、日時と劇場が決まっているやつだ」
「それって……」
「その映画を見にゆけば、その贈り主に会えるっていう話?」
山さんと女将が勝手に盛り上がりはじめた。
「映画は何だったの?」
「当時流行っていた『私をスキーに連れてって』だ」
「懐かしいな」
「私も観たわ」
「それで、行ったのか」
「ああ、迷ったが、ちょうど評判になっている映画なので観てみたかったのと、好奇心から行ってみた」
「で、どうだったどんな子が来た?」
「それが……」
恭一は時計を見た。
「そろそろ帰らないと」
「まってよ、ここで終わり? 最後まで話してよ。なんか一杯おごるからさ」
「しょうがないな」
恭一が話を続けた。
「結局、現れなかったんだ」
「じゃあ、誰だか分からないままなのかい」
「映画は最後まで観た。だが隣の席は空席のままだった」
「からかわれたのかしら?」
「最初は僕もそう思った。けれどもロードショーの指定席のチケット代は当時の高校生の小遣いにしてみれば結構な金額だ。単なるいたずら目的でそれだけの金を使うのだろうかと思った」
「それで?」
「もしかしたら、彼女の身に何かあって当日来ることができなくなったんじゃないかと考えたんだ」
「でも、全くどこの誰だか分からない相手だろ、何があったかなんて知りようがないじゃないか」
「ウチの高校は周囲は高いフェンスで囲まれている。入口には守衛もいる。校舎の中の下駄箱まで部外者は入ってこれない。それに僕にチョコとチケットを贈ったのなら、僕をよく知っている人だ。必ず身近にいるはずだ」
「まあ……そうだな」
「そこで、映画を観に行った日の前に、同じ高校で病気や怪我をして動けなくなった人がいないかを調べたんだ」
「どうだったの?」
「そうしたら、いたんだよ。ズバリ該当者が」
「えー。どんな子だったの?」
「隣のクラスの女子だ。彼女は陸上部で、僕は野球部だったので放課後はグランドでよく顔を合わせていた。そして映画は日曜日だったけど、その前日の土曜日に河川敷をランニングしていて、季節外れの落雷に打たれて入院をしていたんだ」
「それからどうしたの」
「迷ったけど、真実を確かめたいと思い、お見舞いに行った。病院に行くと彼女は絶対安静の状態で面会できないと彼女の母親に言われた。何でも冬の落雷の方が夏よりタチが悪いらしい。かろうじて一命はとりとめたが、落雷のショックで一部記憶が欠損していると彼女の母親は言った。彼女から真相を聞けなくて落胆して帰ろうとする僕を、彼女の母親は何か誤解して『今日は会わせることができなくてごめんなさい。また来てね』と僕に言った」
「また行ったの?」
「真相が知りたいのと、何となくそのままにしておくのも気不味いような気がして、面会できるようになると、僕は学校のノートのコピーなどを持って、面会に行った。だが、彼女はバレンタインのことや僕のことはすべて記憶障害で思い出せないようだった」
「ふーん。なんだか切ないわね。その彼女はいまも元気なのかしら」
「元気だ」
「年賀状とかをやりとしているの?」
「いいや」
恭一は首を振った。
「彼女は僕の妻になった」
「まあ」
女将が思春期の少女のように頬を赤らめて笑顔を見せた。
「やるじゃないか」
山さんが恭一の脇腹を突っついた。
「何度も彼女のお見舞いに僕が行くので、彼女のお母さんに『ウチの娘をそこまで思ってくれて――』って誤解されて気に入られちゃって、そのまま付き合い始めて結婚した」
「なんだかいい話ね」
「じゃあ、改めてお2人の幸せに乾杯!」
恭一はよい気分で家路についた。
毎年この時期は、この話で盛り上がる。
この話をすると自分がドラマの主人公にでもなったかのように思えて気分が高揚した。
家に着くと、リビングで妻がソファに横になりスマホをいじっていた。
その姿はまるでトドかラッコだ。
「ただいま」
返事はない。
スマホに夢中だ。
実は妻が落雷事故から回復してから、バレンタインのことを訊いた。妻ではなかった。落雷の記憶障害と言っても一時的なもので、しかも事故直後のことを覚えていないだけで、いわゆる記憶喪失になったわけではない。
だが、その後、何となく付き合い始め、最初から親公認の付き合いだったので引っ込みが付かなくなり、就職と同時に結婚した。
思えば、若い頃もっといろんな人と付き合って、遊んでいればよかったとつくづく後悔する。
スマホをたるんだ腹の上にのせているトドにはもはや愛情の欠片も感じることは無かった。
ただ遠い過去のミステリアスなロマンスの思い出を語る時だけ恭一は、自分が自分の人生の主人公であることを実感できるのであった。
酒場では言っていなかったが恭一は婿養子だ。
彼女の母方の親族が経営する会社で働いていた。
つまりはトド劇場の脇役の人生を送っていたのであった。
◇◆◇◆
小伝馬町にある店の女将をしているアキは恭一たちが帰ると、ため息をついた。
(まさかね。私のいたずらみたいなものが、そんな風に人の人生を変えてしまうなんて)
映画のチケットを下駄箱に入れたのはアキだった。
いや、正確に言えば、アキもその1人だった。
アキは初めて恭一が自分の店に入って来た時、息を飲んだ。
髪はだいぶ薄くなっていたが、間違いなくクラスメートの志村君だった。
(私の店と知って来たのかしら)
それは無いはずだった。アキは高校時代の同級生とは誰とも連絡を取り合っていなかった。SNSにも学歴や過去のつながりは一切のせていない。
「初めてですか」
とりあえずポーカーフェイスで訊いてみた。
「はい」
世間話をしながら、さりげなく高校の部活の話をし、学生時代のことを訊いた。
間違いなく志村恭一君だった。
そして彼はアキのことに気が付いていないようだった。
アキは高校生の時に両親が離婚し、それから色々あった。
高校生の時はメガネをかけて地味な髪型と服装で、クラスでは目立たない存在だった。
だが、高校を中退し社会に出てからは整形をして、クラブのホステスをして、愛人をして、ストーカーに狙われ、結婚や離婚も繰り返した。
そして、今は小伝馬町の小さい店の女将として落ち着いていた。
当時、都市伝説のようなものが女子高生の間で流行っていた。
それは『私をスキーに連れてって』の予約席のチケットを男の子の下駄箱に入れ、その男の子が映画を観に来るかどうかを賭け、その男の子が来るか来ないかの予想が当たった子は幸せになれるというものだった。
そんなことに意味が無いのは分かりきっているが、手軽なゲームとして当時の女子高生にウケていた。
20人集まれば、1人100円程度の出費だ。縁結びの神社のおみくじより安いくらいだ。
アキもそれに参加していた。
だが、バレンタインデーの前日に、父のDVと借金取りに耐えかねた母に連れられて夜逃げをし、誰にそのチケットが渡り、映画に来たかどうかの結果は聞くことができないままだった。
アキは来ない方に賭けていた。
細長い煙草を取り出して火をつけた。
紫煙を吐き出した。
「結局、都市伝説は当たったのね」
アキは自分の半生を振り返り、そうつぶやいた。
◇◆◇◆
山ちゃんこと山崎はあせっていた。
(まさか、バレてないよな)
偶然、店で客として一緒になったが、志村恭一は山崎とは高校時代、隣同士のクラスで同窓だった。
とは言っても同じ高校に通ったのは一年だけだ。
父親の仕事の都合でそれまでの地方の男子校から首都圏の共学に転校してきたのだ。
山崎は志村のことにすぐに気が付いたが、志村は山崎のことに気が付いていないようだった。
転校して共学なので女子がいると喜んだのもつかの間のことだった。
言い寄ってきた女子はいたが、それは、タラコ唇のネアンデルタール人という容姿だった。山崎の女子の定義にはないホモサピエンスだった。
「山崎くうん〜」
イントネーションが変で、語尾を甘ったるく上げてくる声を聞くとゾッとした。
振っても、振ってもゾンビのように追いかけてきた。
そしてバレンタインという運命の日がやってきた。
奴は早朝になんと自宅の前にいた。
そして、チョコレートと映画のチケットを山崎に渡した。
「この映画、すっごい評判なの。一緒に観にゆこう」
亜人のようなサピエンス(いや亜人に失礼だろう)が、デレデレして言った。
悪寒が背筋を駆け上がった。
その時、山崎の灰色の脳細胞に閃きが走った。
(そうだ。今日はバレンタインだから、このチョコとチケットを誰か別の奴の下駄箱に放り込んでおこう。誤解した奴が当日映画に行って、このサピエンスと修羅場を演じればいい。そうなれば流石にこいつも、オレが嫌っているということを自覚するだろう)
山崎は登校すると、どの下駄箱に入れるかを考えた。
(そうだ。隣のクラスの野球部のいけ好かない奴にしよう。確か名前は志村恭一だったな)
隣のクラスとは体育だけは合同だった。男女別に分かれるからだ。だから運動は万能な野球部の副キャプテンの志村の名前は覚えていたのだ。
志村恭一の下駄箱にたらこ唇のサピエンスの愛が込められたチョコとチケットを入れた。
その後のことは知らない。
卒業までサピエンスから逃げまくり、卒業後は一切コンタクトしていない。
(志村の奴、オレと気が付いていてあんな話をしたのだろうか)
山崎は首を振った。
(あの様子では、オレのこともそもそも知らないようだ。一年間、体育の授業で一緒だっただけだし、高校時代オレは目立たないモブだった。すべてはただの偶然だ)
自分のしたことで志村の人生が変わってしまったのだと思った。
(でも、まあ、幸せになったのだからいいのだろう。もしかして、オレって愛のキューピットだったのか)
そう思うとなんとなく笑みがこぼれてしまう山崎であった。
◇◆◇◆
(恭一は決まって、バレンタインデーの前後は酒を外で飲んできて帰りが遅い)
またあの話を飲み屋でしているのだろうと思った。
恭一と付き合うようになったきっかけは、バレンタインデーに恭一の下駄箱に映画のチケットが入っていたということからだ。
最初は私が片思いをしていて、下駄箱にチケットを入れたけど、落雷の事故に遭い入院したので予約していた当日に行けなかったのだと思っていたようだ。
事実とは違うので私はそれを否定した。
だが、私に片思いされていると誤解して入院している間、何度もお見舞いに来てくれたことで母親が恭一のことをいたく気に入ってしまった。
ウチは祖父が一代で製薬会社を立ち上げ大きくした。だが、跡継ぎの男子が生まれなかった。祖父は会社のオーナーとしての株式を相続させ、家名と事業を残すために母に婿養子をとらせた。そして、母も娘の私しか子供ができなかった。
だから、早くから婿養子の選定にやっきだったのだ。
有能な経営者は、金で雇える。
だけどバカでも賢すぎもせず、後継ぎを生むことに協力してくれて家業を守ってくれる婿は金で簡単に買えるものではない。
その母のおめがねにかなったのが恭一だった。
私は上機嫌で帰って来た恭一を無視した。
実を言うと恭一の下駄箱にチョコとチケットを入れたのは私だ。
同じクラスの花子がバレンタインの日の朝に、女子トイレで泣いていたので、事情を訊くと、朝、山崎にチョコと映画のチケットを手渡ししたのだが、学校に着くなり、別の生徒の下駄箱に入れていたので、山崎がいなくなってから、それを取り戻したのだが、悲しくてしょうがないのだという。
「ねえ、奈津、これ誰かと行って」
見ると評判になっている『私をスキーに連れてって』のペアチケットだった。
予約席になっていて日時も指定されている。
「いいの?」
「山崎君と行く予定だったの。でも、もう……」
そこから先は言葉にならなかった。
また泣き崩れた。
私は当時付き合っていたタケシと行くことにした。
タケシに廊下で会ったら、下駄箱に入れておいてと言われた。
だが、うっかりした。
タケシの下駄箱に入れたつもりで、隣の志村君の下駄箱に入れてしまったのだ。
それを知ったのは入院中だ。
だが、タケシは私の入院中に見舞いに来るどころか、私の親友と浮気をしていたことが後から発覚した。
結局、母が勧めた恭一と私は結婚した。
今でも、私が下駄箱を間違えていなければどうなったのだろうと思うことはある。
でも幸い跡継ぎの男子にも恵まれた。
長男は祖父の製薬会社に入社し順調に出世している。
我が家は安泰だ。
来年のバレンタインあたりには、そろそろ彼を会社と我が家からリストラする時期に来たと思った。
そのため腕のいい弁護士を雇おうとスマホで法律事務所の記事を読んでいたところだった。
『ハッピーバレンタイン!』
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