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8.ラビュリントス  

 やがて警察犬の体のラインに異常が生じた。なにやら妖怪じみた動きで波打っているのだ。黒い背中が異様に膨張したり、縮まったりしていた。私たちの前を通過したFBI一行のうしろ姿を見て、ようやくその異常の原因が分かった。単純なことだった。二匹の黒い警察犬が並んで歩いていたのだ。合体して一匹に見えたので、変な動きをしていると勘違いしたのだった。二匹は本体と影のようにくっついて前進していた。右側の犬が左側の犬に体の側面をこすりつけながら歩いていて、やたらとちょっかいを出しているようだった。なんだかふざけているみたいで、とても職務中の警察犬には見えなかった。リードを持つ捜査官の不動明王みたいな険しい表情とはあまりに対照的で、やっぱりヘンな感じがした。


 そういえば、今頃日本は夜中だっけ、と思った。当然、旅行会社は閉まっている。添乗員がいないツアーだから、自分達ですべてのトラブルに対応しなくてはならない。面倒なことになった。


「こんなことになるなら、添乗員がいるツアーにすればよかったかな。なんかごめんね」と里美に言った。


「添乗員は別にいてもいなくても、あんま変わんないんじゃない? 現地のコーディネーターとかがいれば、また違うんだろうけど」と里美。こういう時には里美の冷静さがなんとも心強い。


 ようやく自分たちが搭乗した航空会社のカウンターを見つけた。どこの航空会社にも長蛇の列ができていた。公衆電話の一角にもすごい行列が伸びている。


 航空会社の列の最後尾に並ぼうとした時、ちょうど別の角度から来たダークブラウンの髪をした背の高い男性と鉢合わせしてしまった。反射的にその場から一歩退りながら相手をよく見てみると、黄褐色の肌をした男性で、薄いラベンダーカラーのシャツに黒いベストを羽織って細身の黒いパンツを履いていた。男性はギターの名手のような長い指を揃えて前に差し出して『お先にどうぞ』と私たちに言った。驚いたはずみで、私はパスポートをフロアに落としてしまった。男性はすぐに長い体を曲げてパスポートを拾い上げると、私に手渡してくれた。少しだけ伸ばしている爪がピカピカに磨かれていた。


『ありがとうございます』とお礼を言って前に並ばせてもらった。無造作な髪をした男性は面長で、下がり眉の印象的な顔立ちだった。


「ねえ、めちゃくちゃカッコいいね、後ろの人。それに親切!」と里美に言った。


「うん……」と里美の反応は鈍かった。


「あれ? 里美の好きそうなタイプじゃない?」と私。


「さあ、どうだろ」と里美は冷たい。まあ、確かに今の私たちはそれどころではなかった。


 列は中々進まなかった。まさか自分の誕生日に訪れた国で、緊急着陸レベルの大事件が起きるなんて、思ってもみなかった。今日中にラスベガスまで行けるんだろうか。だんだん心配になってきた。とにかく情報があまりにも少なすぎる。



 人ごみの中から何か黒いものが近づいてきた。小刻みに震えている、黒くて大きい何か。それは耳をピンと立てて、長く白っぽい舌を出してこちらに向かってくる。



 さっきのFBIの警察犬だった。辺りに捜査員やもう一匹の姿はなかった。アメリカの空港では警察犬を放し飼いにしているのだろうか? 警察犬は里美にまとわりついていた。


「ちょっと、こわいよ。何なの、この犬」と私は犬の大きさに圧倒されて、列から少し離れた。周りの人も何事かと見ていた。犬を飼ったことがない私と違って、里美は実家でドーベルマンやいろんな犬種を飼っていたらしく、犬には慣れていた。


 警察犬は里美のショルダーバッグのにおいを執拗に嗅いでいた。まるでバッグの中に麻薬か何か、違法物でも入っているかのように。


 里美は物怖じもせず巨大な犬を軽くあしらいながら、黄色い箱をショルダーバッグから取り出した。カロリーメイト(フルーツ味)だ。そのまま封を開けると、スティック状の中身を警察犬の前に出してみせた。そうすると警察犬は何の躊躇もなくカロリーメイト(フルーツ味)を食べ始めた。


「ええ、食べさせていいの?」と私は驚いた。見知らぬ人からものを食べるなんて信じられなかった。警察犬としてアウトなのは、私みたいな素人でも分かる。


「イヤなら食べないでしょ」と里美。


「いや、そういうことじゃなくて……」と私。


 警察犬は狂ったメトロノームばりに激しく尻尾を振っている。ハッハッハッと息づかい荒く、里美に愛嬌を振りまいていた。この犬は何なんだ、本当に警察犬なのだろうか? 


「FBIの犬だよね、それ?」と私。結局犬はカロリーメイト(フルーツ味)一箱分をすべて食べてしまった。


「さあ」と里美。


「麻薬探知犬かな。お腹が空いて脱走したのかな」


「爆弾探知犬とか? 知らないけど」と里美。


 体がずっと細かく揺れ続けていて、落ち着きのない犬だった。ただ、むやみに人を襲いそうには見えなかったので、私はおそるおそる列に戻った。


 今度は公衆電話の方から真っ赤なリップの女性が近づいてきた。黒いサングラスをかけ、オレンジ色のワンピースを肉付きのいい体にまとっていた。ロングの黒髪と肌色から一瞬日本人かなと思った。女性は何語か分からない言葉で話しながら私たちの方にやって来た。あまりの剣幕に何事かと身構えていると、女性は私たちの横を通り過ぎてすぐ真後ろに並んだ。レディーファーストの彼の連れだったようだ。女性は興奮しながら彼にずっと何かを訴えていた。彼女のおしゃべりは止まらなかった。プロのラッパーかと思うくらいのリズム感で言葉を連射している。すごいな、どこで息継ぎしているんだろうと思った。気がつくと、食い意地の張った警察犬はいなくなっていた。


「後ろの女の人。オレンジの服の」と里美が言った。


「事件について、何か情報を仕入れてきたみたい。早口で、ところどころ分かんないけど……」


「何語?」と私 


「スペイン語。……メキシコシティのいとこがどーのこーの言ってるから、メキシコ人かも」と里美は小さい声で言いながら、さらに背後に耳を傾けていた。アルゼンチンはスペイン語圏だったかとふと思い至った。しばらくしてから里美が口を開いた。


「ワールドトレードセンターがふたつとも崩れ落ちたって言ってる」


「崩れ落ちた? 崩れ落ちたって……どういうこと?」と私は聞き返した。里美の言っている意味がいまいちピンとこなかった。崩れ落ちたってどういうことだろう? 言葉が脳内で意味を結ばなかった。


「あとペンタゴンにも飛行機が突っ込んだって。……テロリストの犯行だって、テレビで言ってるらしい」と里美。


「テロリスト……」


 オレンジの女性は自分の声を聞きながらさらに興奮したように、大きな身振り手振りを交えながら話を続けていた。決壊したダムの奔騰した水の流れが、ふもとの林や畑や町を濡らしていくように、緊張が辺りに広がった。


「十三機の飛行機がハイジャックされたとか、爆弾を積んだ飛行機がこの空港に向かってきている、とか言ってる」と里美。


 オレンジの服の女性は嗚咽しながら鼻をかんでいた。


 なんだって? 爆弾を積んだ飛行機がこの空港に突っ込んでくるだって? 


 にわかには信じがたかった。機上から見ても、この一帯は緑と湖ののどかな町に見えた。わざわざテロリストがこの空港を標的になどするだろうか? ふつう大都市の空港を狙うだろう。犯人にとっても、地方の国際空港を攻撃するなんて、ちっとも効率的じゃない。それとも私が知らないだけで、実はここは犯人と因縁のある町で、狙われる理由があったりするのだろうか。もう訳が分からない。


「トイレに行ってくるわ。ついでに何か情報がないか探してくる」と里美に言った。ずっと緊張していてトイレに行くのも忘れていた。


 後ろの男性がパニックを起こした女性の肩を優しく抱いて宥めている姿を横目に、その場から離れた。


 もし女性の情報が本当なら、当然空港内でも何らかの動きがあるはずだ。避難場所とか何か有益な情報を提供している所がないか見て回った。人ごみをかき分けて警備員をつかまえた。


『爆弾を積んだ飛行機がこの空港を攻撃するって、本当ですか』と質問した。


『そんな話は知らない』と警備員は疲れた様子で答えた。


 周りに避難している様子の人もいない。やっぱり女性の話はデマなのかもしれない……。


『ペンタゴンに飛行機が突っ込んだのは本当ですか』と私。


『攻撃を受けたと聞いている』と警備員。


『誰が攻撃したんですか』


『分からない』


『十三機の飛行機がハイジャックされているっていう話はどうですか?』と私。


『分からない』


 三十人位の団体客がやって来て、私から警備員を奪った。団体の代表らしい男性がドイツ語みたいな言語で警備員に詰め寄っていた。私はその場を離れてトイレに向かうことにした。


 軍事の中心部が攻撃されたとなれば、それはもう非常事態だろう。もしまだハイジャックが続行中ならば、被害はさらに拡大するかもしれない。一体どこまで交通に影響が出るのか、まったく予測がつかなかった。飛行機の運航は復活するのだろうか。


 トイレから出てきて、はたと気づいた。さっきまで並んでいた航空会社のカウンターはどこだろう? どの方向から私はここまで来たんだっけ? 上ばかり見て歩いてきたせいで、いつの間にか迷子になっていた。警備員にたずねようと思ったけれど、団体客に二重三重にとぐろを巻かれていて、もはや入り込む余地はなくなっていた。


空港内には、ショック、怒り、悲しみ、絶望の声が多重に飛び交っていた。


『誰が何のためにこんなひどいことを……』


『国家の危機だ!』


『とんでもないことが起きてしまった。信じられない……』


『カタストロフィーだ!』


 携帯電話を耳に押し付けながら泣いている男の人がいた。床にしゃがみ込んでいる家族連れがいた。チェックインカウンターはすべて「CLOSED」と表示されていた。


 空港内をさまよっていると、旅行者の人いきれの熱風にひるみ、バベルの言語の破片が耳に刺さり、人々のあふれ出る感情の波に足元をすくわれそうになった。


 私はどこにも辿り着くことが出来なかった。そしてとうとう大きな柱の下で動けなくなってしまった。どうやって列に戻ろうかと考えていると、目の前に再びさっきの警察犬が現れた。水平線に沈んでいく夕陽のような色の目を丸くしながら近づいてきて、私のにおいをかいだ。それから、「ついてこい」と言わんばかりに顔をちょっとだけ後ろに残しながら歩き出した。黒い犬は見えない糸を手繰っていくように、フロアに鼻をくっ付けながらにおいのかけらを拾いつつ、おもむろに人波をかき分けていった。少し先を歩いては立ち止まり、混雑の中で私がついてくるのを待った。賢くて思いやりのある犬だった。ただの食いしん坊ではなかったようだ。


 程なくして、オレンジのワンピースが遠目に見えてきた。その前には里美が並んでいた。列に戻ったら、お礼にカロリーメイト(フルーツ味)をこっそりあげてしまおうかと、悪いことを考えた。


 その時、緑と黄色のお揃いのTシャツを着た大柄な五人組の男性が私と犬の間に割り込んできた。アメフト選手のような分厚い体と大型のスーツケースが貨物列車のように私たちの間を横断した。彼らが通過すると、二メートル位先にいたはずの犬がいなくなっていた。四方八方見渡してみたけれど、どこかに消えてしまっていた。ミノタウロスのめくるめく混沌の迷宮にまよい込んでしまったかのように。


 列に戻ろうとすると、オレンジの女性が顔をそむけて苦し気な悲鳴をあげた。女性は頭をイヤイヤと左右に振りながら、グーに握りしめた両手を棒みたいに突っ張った姿勢で、男性に何か言っていた。女性が男性の方に突き出している右肩には大きめのテントウムシが留まっていた。色味の強い赤地にちぐはぐな黒い斑点のあるテントウムシで、やけに長い脚が左右に三本ずつ生えていた。きっと女性は虫が苦手で、男性に取ってくれと頼んでいるんだろうと思った。


 男性は黙ったままテントウムシを長い指でそっとつまみ上げた。それから腕をだらりと下げると、指先を鳴らすようにテントウムシをひねり潰した。そして黒いパンツの端で指先を入念にぬぐった。


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