5.事件当日
ツアー二日目は朝五時に起きた。
今日は九月十一日、私の二十九回目の誕生日。
三月五日も、九月十一日も、十一月二十八日も、本当はなんの違いもない。
二十九年前のこの日、てんやわんやのこの娑婆に、頼みもしないのに放り込まれた。ただそれだけ。
いつも里美は中々起きない。旅行に来るたびに朝起こすのが一苦労だ。それが今回は私より先に起きていて、カロリーメイト(フルーツ味)を食べながら、「おはよー」と声をかけてきた。珍しいことだ。
まだ空に星が残るうちにナイアガラのホテルを出発し、太陽がその輝かしい黄金の顔を見せ始めた頃にトロント空港へ到着した。トロントの空は清々しく晴れていて、気持ちのいい一日になりそうだった。風もほとんどなく、フライトも定刻通りに出発するようだ。スムーズに搭乗手続きが終わり、飛行機に無事乗り込んだ。
「どれくらい飛行機に乗るの」と里美がリクライニングを倒しながら聞いた。
「ミネアポリスまでは二時間半位かかるみたい」と行程表を見ながら答えた。
「二時間半もあれば、相当寝られるね」
「そうだね」と私。
「今日、グランドキャニオンに行くんだっけ」と里美がカロリーメイト(フルーツ味)をかじりながら言った。水もないのによくそんなに食べられるなと感心した。
「ううん、今日は行かない。今夜ラスベガスで一泊して、明日バスでグランドキャニオンに行く予定」と里美に伝えた。
「そうっか」
飛行機がゆっくりと空港内の移動を始めた。
「飛行機事故ってさ、離陸した後の三分か、着陸する時の八分の間によく起きているんだって」と里美が言い出した。
「へえー」と私。
「『魔の十一分』っていうらしいよ」
やがて航空機は猛スピードで加速すると滑走路から飛び立った。そのまま一気に機体は上昇していく。機窓の景色が斜めに傾くせいで、平衡感覚が狂って目が回る。離陸してから巡航高度に達するまでが毎回つらかった。海外旅行に来ておいて今さらだが、飛行機がものすごく苦手だ。高い所は好きじゃない。「事故りませんように。落ちませんように」と手を固く組んで祈った。
「魔の十一分」という言葉が呪詛のように耳に張り付いて取れない。危険なのは離陸後三分……。動悸が激しくなり、呼吸が浅くなるのがわかった。ああ、胸がむかむかしてきた。酔いそうでこわい。
でも、酔っちゃいけないと思えば思うほど、余計酔いそうになった。何とかして別のことに気をそらさなくてはいけない。そこでとっさに三分という時間に集中しようと考えついた。三分が過ぎれば、とりあえずは安全なはずだ。だから腕時計の秒針が回るのをずっと注視して、三分が過ぎ去るのを待つのだ。意識を内側でなく外側にある何かに向けるのが、酔い止めにはいいに違いない。
「早く三分が過ぎますように、過ぎますように、過ぎますように…!」とマントラのように心の中で唱える。すがるような思いで、時計の秒針をじっと見つめた。そう、気持ちを外にそらすんだ。一秒、また一秒と動いていく針に意識を集中させた。虫眼鏡で太陽光を一点に集めるみたいに。
すると、にわかに異変が起きた。
後ろから布でも被せられたかのように、突如目の前が真っ暗になった。と同時に、フリーフォールに乗ったみたいに強烈なGが全身にのしかかった。世界から音が蒸発して消え失せた。時が溶けていき、飴のように変幻自在に形を変えていく。伸びたり、縮んだり、ねじれたり、とても活発に運動している。体がしびれるほど重くて、自由に動かせない。腕時計が光を発したのがわかったので目玉を動かしてみると、秒針が止まっていた。けれどもよく見ると、秒針は止まっているのではなく、ものすごくゆっくりと動いていた。
首が少し動いたのでやっとのことで横を向くと、天井に顔を向けた里美が口を軽く開けたまま、すでに夢の世界へとテイクオフしていた。うらやましい。里美はいつもこうだ。いつでもどこでも平気で寝られる。私は飛行機では一睡もできない。里美の突き抜けたマイペースさは私にはないものだ。彼女のそういう気質は私の憧れであり、癒しであり、そしてたまに頭痛の種でもある。
里美が大きなくしゃみをした。そしたら、水中深くから頭を出した時みたいに、急にすべての音が耳に飛び込んできて、Gの圧迫感もなくなった。金縛りがとけたみたいだった。エンジンの低い排気音が機内に響いていた。里美は目を閉じたまま鼻水をすすると、今度は銃で処されたみたいに頭を前に落として、眠り続けた。
腕時計を見ると三分以上が過ぎていた。秒針も今では通常通りにちゃんと動いている。世界が再起動したようだった。
今のは一体何だったんだろう? 金縛りって結局のところ、疲れている時の脳の誤作動なんだって聞いたことがある。そうだとすると、旅の疲れが出たんだろうか。
飛行機はまだ上昇を続けていた。しばらくすると水平飛行に入ったようで、ポーンと音がしてシートベルトサインが消えた。
客室乗務員がドリンクとナッツを配り始めた。「コーヒーを飲んで軽く眠ると、スッキリと目覚めることが出来る」と人に聞いたのを思い出して、あえてホットコーヒーをお願いした。里美はぐっすり寝ていたので起こさないでおいた。
胸のむかつきはもうすっかり消えていて、私はのんびりとコーヒーを味わおうとした。けれど、出されたコーヒーは何の香りも味もない、ただの茶色い白湯だった。これはどうしたことだろう? 私はこの旅行に来てまだ一度もまともなコーヒーを飲んでいない。
まあ、仕方ない。この世は思うようにならないもの。腹を立てても時間のムダである。いちいち気にしていたら生きていけない。いちいち気にしていたら。
とりあえず到着地に着くまでの間、目を閉じてまどろみの時を楽しむことにした。
しかしとても残念なことに、安寧の時はそう長くは続かなかった。
突然機長のアナウンスが入った。
『飛行機は約二十分後に……に着陸します』
どこの空港かは聞き取れなかったが、そのアナウンスはかなり奇妙に響いた。
離陸してまだ大して時間がたっていないのに、もう着陸するなんて、おかしくないか?
腕時計を見て嫌な予感がした。