3.この家族、なんかヘンだ
アメリカ側の『風の洞窟』の入口で、今度は黄色いポンチョをもらった。それを被って専用のサンダルに履き替えると、エレベータで下に移動した。
ブライダルベール滝が見えてきた。岩場に組まれた木製のトレイルを歩いていき、さらに滝へと近づく階段を上っていくと、やがて最奥部の『ハリケーンデッキ』にたどり着いた。そこは、まさにその名の通り、ハリケーン並みの凄まじい突風と滝しぶきが吹き荒れる場所だった。
空中分解後に落下したジェットエンジンみたいな巨岩が滝つぼに横たわっていた。その巨岩に落ちた飛瀑は流れる角度を変えて、デッキにいる観光客をびしょ濡れにした。観光客は荒々しい滝を背に、歓声や悲鳴をあげながら記念撮影をしていた。私たちも写真を撮りたかったが、デジタルカメラが防水じゃなかったので、あきらめた。
デッキの端に、五歳位の女の子が一人でいるのが見えた。鮮やかな青色のワンビースを着た女の子だった。見た目から南アジア系の子供かもしれないと思った。
女の子は濡れネズミ状態で、だけどかなりご機嫌な様子で、ウッドデッキの上をちょこまかと歩いていた。デッキは滑りやすく危険で、幼児が一人で歩くような場所じゃない。一体親はどこにいるんだろうと気になった。はぐれたんだろうか?
『写真を撮ってもらえませんか?』
不意に恰幅のいい男性が英語で話しかけてきた。なぜか一目で女の子の家族のように感じた。男性の後ろには、グリーンのボタニカル柄のワンピースを着た配偶者らしい女性と、低学年くらいの男の子が一人いた。
『いいですよ』と返事をした。
急に里美が、「わたし、もう濡れたくないから、川の方に下りてるね」と階段を下りていってしまった。
「あんまり遠くに行かないでね!」と自由気ままな里美の背中に向かって言った。里美の軽い足取りを見ながら、最近里美から廃屋感が消えたことにふと気づいて、安堵した。やはり傷心を癒すのは時なのかもしれない。
そしてカメラをもらおうと男性の方に向き直ろうとして、思わず息を飲んだ。お兄ちゃんのすぐ隣に、先程の青いワンピースの女の子が立っていたのだ。
……なんでそこにいるの?
この子、つい一分前までデッキの端の方にいたはずなのに。デッキの端からここまで五メートルは離れている。こんなに濡れているデッキを走ってこられるものだろうか。それともさっきの子とは別の子?
女の子はデッキに流れ込んでくる滝水を蹴って遊んでいる。両耳に小さな蝶のピアスをして、眉間にルビー色のビンディをしていた。ずいぶんおしゃれな子どもだ。
お母さんからデジカメのシャッターの位置や操作の仕方を簡単にきいた。家族でインドから旅行に来たという。
家族四人は激しい滝しぶきが直撃するデッキ端まで移動した。左から右にお父さん、お母さん、お兄ちゃんの三人が一列に並んだ。そのなのに女の子は三人の前を行ったり来たりしてちっとも並ぼうとしない。父親も母親もそんな女の子を放置して好き勝手にさせている。
お兄ちゃんだけが女の子の姿を目で追って気にかけていた。父親が手をあげて、写真を撮ってと合図を送ってきた。しかし、女の子は私にお尻を向けてお母さんに抱きついている。
滝の轟音のせいで私の声など通らない。ジェスチャーで女の子を指さして、顔をこっちに向けさせて! と伝えようとしたが、全然理解してもらえなかった。
なんで伝わらないんだ、困ったな、と思っていると、お兄ちゃんが察したようで、女の子の肩にそっと触れて、自分の前にくるように手招きした。女の子は大人しくお兄ちゃんの前に立って正面を向いた。
よく見ると兄妹は太い眉やアーモンド形の目などの造作が、双子みたいに似ていた。
でも雰囲気はまったく違っていた。
女の子は表情豊かであどけない感じなのに対して、お兄ちゃんは内気なのか、まぶたを途中まで下げて伏し目がちだった。ただ井戸の遠い底を見つめているような、妙に肝の据わったような、複雑な色をした瞳がまぶたの奥に隠れているようだった。
私は指でスリー、ツー、ワンとカウントダウンして写真を撮った。オッケーのサインを出すと、四人は滝に押し出されたように前へ飛び出した。お母さんにデジカメを返して画像の確認をしてもらった。
女の子が母親の隣に来て、足を踏み鳴らして水が跳ねるのを楽しんでいた。金の蝶のピアスがあまりにも愛らしかったので、『そのピアス、とても可愛いね』と女の子に声をかけた。
過敏な猫みたいに瞬時に肩を震わせると、女の子は母親の後ろに隠れてしまった。思ったより人見知りだったみたいだ。
何だか視線を感じて顔を向けると、お兄ちゃんと目が合った。瞳孔が開き切っているのか、目が真っ黒でいっぱいになっていた。
『写真が撮れていないわ』と母親が言った。見せてもらうと、確かに撮影した画像が真っ黒になっている。もう一度撮影してみたが、やはり真っ黒で何も写っていない。お母さんが撮影をしても同じことだった。
『どうやらカメラがおかしくなったみたい。時々調子が悪くなるの、これ。ごめんなさいね。ありがとう』とお母さんが言った。女の子が母親のポンチョの裾を持ち上げたり下げたりして遊んでいた。女の子は私の方をちっとも見てくれなかった。
『あなたは一人で旅行しているの?』とお母さんが私に言った。
『あ、友達と一緒です』と答えた。
『これからどこ行く予定なの?』とお母さん。
『明日はラスベガスに行く予定です』と私。
『おー! ラスベガスはエキサイティングな街だよね。カジノはするの?』と濃い眉のお父さんがノリノリで聞いてきた。
『もちろん!』と私。
『家族で海外旅行なんて、いいですね』と四人を一瞥しながら言った。
『昨日はケベックに行ったんだ。夕方にはニューヨークに向かう予定でね』とお父さんはご機嫌な笑顔を見せた。
里美が反対しなければ、明日の誕生日には私もニューヨークにいるはずだったんだけどなぁ、と一瞬脳裏をよぎった。
『ニューヨークに行ったことある?』とお父さんが私に聞いた。
『まだないんですよ。うらやましいなぁ。ニューヨークのどこに行くんですか?』と私。
『自分は仕事で何回か行ってるんだけど、家族が初めてでね。有名な所をあちこち観光しようと思っているよ。自由の女神とかね』
突然女の子が何か言いたげな様子で父親のポンチョを強く引っ張った。しかし父親は、注意を引こうとする娘の相手をしようとしなかった。さっきから母親も父親もずっと子供をないがしろにしているように見えた。女の子は今にも癇癪を起しそうな様子だ。たぶんトイレに行きたいんじゃないのかなと思ったが、父親も母親も知らぬふりをしている。
もしかして子供嫌いの親なのだろうか。全然かまってもらえない女の子が、段々かわいそうになってきた。なぜだか、泣きそうな気持になる。必要以上に胸が締め付けられた。
『だから、行かないでって、言ってるでしょ!』と女の子は地団太踏んで怒っていた。おそらく何か事情があるのだろう。何か言おうかと一瞬思ったが、人の家庭の問題には口を出さない方がいいと考え直した。私だって人にとやかく言われたのは、とてもいやだったから。
女の子はさらに父親のポンチョを何度も引っ張った。ぐいぐい引っ張るたびに、時化の海みたいに、女の子の表情がはげしく荒れていった。次第に海は大時化となってうねり逆巻くと、落ちて来るいかずちを呑み込むような苦悶の面相を見せた。
そんな異様な娘の様子にも父親は動じない。ニューヨークとラスベガスに行った時の昔の思い出話を楽し気に話していた。
……この家族、なんかヘンだ。
そう思った。
インド人家族と挨拶をして別れた。階段を下りようとしたお兄ちゃんが私のところに戻って来た。
『やっぱり……』とお兄ちゃんは真黒な目を大きく見開いて私を見つめた。
『彼らのこと、見えてますよね?』
言っている意味が分からなくて瞬時に返答できずにいると、お母さんがお兄ちゃんを呼んだ。
『ルドラ、どうしたの?』
ルドラ兄ちゃんはさらに何か言おうとしたが、ぐっと言葉を飲み込んでそのまま階段を下りて行った。