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1. 事件前日

 もうかれこれ二十年以上も前の話。


 ある日、私は「北アメリカ大陸世界遺産絶景ツアー」に里美と参加することにした。ツアーの内容は、ナイアガラの滝、グランドキャニオン、ヨセミテ国立公園といった北米大陸の各地にある世界遺産を巡るというものだった。ツアーに参加するのは九月で、ツアー二日目に私は二十九歳の誕生日を迎える予定だった。バースデー・ナイトはラスベガスに泊まる予定で、カジノでもやって大いに楽しもうと里美と話していた。


 ツアー初日はナイアガラの滝を訪れた。成田からカナダのトロント空港まで飛び、そこから現地の送迎車でオンタリオ州のナイアガラの町まで二時間弱かけて移動した。


 ナイアガラの滝はカナダとアメリカの国境沿いにあった。私たちはカナダ滝から少し離れた乗り場から遊覧船に乗り込んだ。世界中からやって来た他の数十人の観光客と同じように、水よけの青いビニールポンチョを頭からかぶった。ほどなくして遊覧船が出発した。


 遊覧船は徐々に馬蹄型の大瀑布に近づいていった。分厚いカーテンのような水の帯が、抗うことを許さない運命に似た圧倒的な力をもって、流れ落ちていた。滝で発生する大量の水煙のせいで視界が悪かった。爆撃された街みたいに煙が延々と空に立ち上っている。


 滝つぼに接近するにつれて猛々しい轟音が腹にこたえた。頭上から水しぶきが、永遠に終わらない罰ゲームのように降り注がれた。目も開けられない。息もできない。


 落水で発生する強風のせいで、着ていたビニールポンチョがやかましい音を立てながら滝の反対側になびいた。辺りの流れは大荒れで、船が激しく揺れた。その度にびしょ濡れの手すりにしがみついた。

 滝つぼから離れるにつれて、川面は穏やかになった。魚があちこちで跳ねていた。どこからともなくカモメが四羽やってきて、辺りを鋭く飛び交い始めた。ナイアガラ川の魚たちはこの不穏な気配に気づいているだろうか? カモメは突撃のタイミングを狙うかのように、強風の中でホバリングを始めた。



 私たちの申し込んだツアーは添乗員が同行しないプランだった。航空券とホテル、それから現地送迎だけがついているシンプルなツアーだ。その分旅費が安く済んだ。


 そんなツアーだから、一般的なツアーのような細かいタイムスケジュールに縛られていない。飛行機や送迎の時間にだけ気をつけていれば、あとは好き勝手に動ける。それがこのツアーのいい所だった。


「アメリカ側からも滝が見られるらしいよ。行かない? もっと滝に近づけるみたい」と里美に提案した。


 ガイドブックによると、アメリカ側に位置するゴート島の「風の洞窟」が有名なのだという。ナイアガラの滝の一つである「ブライダルベール」という滝の真下まで接近できるらしい。


「行こう!」と里美が同意した。


 そのまま二人でナイアガラ川にかかるレインボー橋を渡って、アメリカのニューヨーク州に入った。ただ、ニューヨーク州といっても、「風の洞窟」からマンハッタンまでは車で七、八時間はかかるという。同じ州だというのに東京から青森くらい離れているそうだ。なんとまあ、アメリカは広い!


 実を言うと、本当はラスベガスではなく、ニューヨークに行きたかった。

 学生の頃からマンハッタンにある百十階建てのワールドトレードセンターに興味があった。そのアメリカ資本主義の栄華の象徴とされるビルを、この目で一度は見たいと思っていた。この年の春の終わりに、里美がブエノスアイレスから帰国した。久しぶりに九月に一緒に旅行しようと話をしていた。そこでニューヨークに行くのはどうか、と里美に打診してみた。


「今度行く海外旅行の行先のことなんだけど、ニューヨークはどうかな? すごい昔だけど、『ゴースト』の映画が好きとか言ってたよね。あれ、舞台がニューヨークなんだよね、確か」


「ええ? そんなこと言った?」と里美。


「言ったよー。でさ、マンハッタンのワールドトレードセンターの展望台で食事とかさ、よくない? おいしくてもマズくても、話のタネになりそうだし」


 里美は首を右に少し傾けて唇を尖らした。


「マンハッタンね……興味ないなぁ」


 里美の目からは光が失われ、長い髪のつやまでくすんでいった。


「最近はもうなんというか、大都会とかイヤなの。人ばっかりで疲れるから」


 里美は絶え間ない雨のしずくが流れ落ちる窓の方に顔を向けた。


「癒されたいのよね、最近。自然がいっぱいの所がいいなぁ」


 どこに焦点を合わせているのか分からないような遠い目をしている。幽体離脱しているのかと思うくらいこの場に心がない。里美は思ったことがそのまま顔や態度に表れる人だ。よくも悪くもウソがつけない。一旦興味がないとなると、いくら説得しようと試みても、もうダメだ。


 里美は人の気持ちを変に汲み取らない。それはもう、学生の頃から全然変わらない。そして私は彼女のそんなところがけっして嫌いじゃない。


 結局夢の大都会への旅行はあきらめて、大自然が満喫できる「北アメリカ大陸世界遺産絶景ツアー」に参加することになった。


 まさかあんなことが起きるとは、夢にも思わずに。


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