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 北の元寇に続く動乱を経て北海道の住人達はどうなったのでしょうか?


 幕末期、アイヌの人口は二万四千人程度だったと推測されます。

 これは恐らく戸籍の登録数から類推されたものでしょう。


 明治から昭和戦後にかけて、樺太、千島列島は、ロシアと日本との間で、まるで物のようにやり取りされ、樺太アイヌや二ヴフ等、その地に住まう民族も翻弄され続けました。


 中世から幕末まで、これらの地域と隣接する北海道に住む人々は、いくつかの地域集団に分かれていました。


 墓の埋葬方法の違いなどから17世紀頃には、大別すると5つ位の集団に分かれていたことがわかっています。


 道南、現在の函館辺りは、鎌倉時代くらいから渡党(わたりとう)と呼ばれる東北北部から北海道に渡った集団が居住し始め、後に松前藩の領地となります。


 その松前藩の近く、渡島半島東部には、比較的和人と友好的な「内浦アイヌ」と呼ばれる人達がいました。


 昔は「シコツ」と呼ばれた千歳川流域に住む人々は「サルンクル」と呼ばれていました。

 彼等は元々本州に住み、奥州藤原氏滅亡とともに北海道まで逃げ延びた奥州蝦夷の末裔であると考えられています。


 川で(さけ)を捕りまくった、サーモン大好き集団「イシカルンクル」は、神居古潭(カムイコタン)に発する石狩川流域に暮らしていました。


 北海道最北端の稚内から留萌あたりにかけては、樺太アイヌと関係の深い「余市アイヌ」がいました。

 樺太アイヌの居残り組と、彼らと混血した蝦夷(エミシ)の末裔と思われます。


 道東にはオホーツク海沿海部に栄えた海洋漁猟民族の影響が色濃い「メナシクル」と呼ばれる集団がいました。


 これら諸民族集団を総じて「アイヌ」と呼んで良いのかは判りませんが、明治の日本人は「土人」として一括りにしたようです。


 この北海道の住人達は残念ながら平和に仲良く暮らしていた訳ではなく、頻繁に小競り合いがあったようで、17世紀、和人への大規模な武力蜂起に発展する「シャクシャインの戦い」も、シャクシャインが首長だった「メナシクル」と「サルンクル」との武力抗争が発端であったと伝えられています。


 アイヌ民族は遂に、鍛冶技術を持つに至りませんでした。

 北方のアイヌは、恐らく樺太の間宮海峡を渡った先、歴代の大陸王朝との交易で、北海道のアイヌは道南の松前藩との交易によってしか、武具にしろ農具や漁具にしろ、鉄器を入手することができなかったのです。


 武具の供給元である松前藩に敵う術もなく、北海道アイヌが瞬間的にまとまって起こす武装蜂起は、首謀者の死とともに霧散し、鎮圧されてしまいました。


 結果として、北海道内のアイヌが統一されることは遂にありませんでした。

 意外かと思われるでしょうが、歴史上、蝦夷地を統一したアイヌ勢力は存在しないのです。


 恐らく各氏族の言語も、似ているかもしれませんが、共通したものではなかったであろうと思われます。


 アイヌの民話、特に民話集として編纂された物を読んでいると、何かチグハグな印象を受けることがあります。


『チャランケ』と呼ばれる談判で、集落間の決定的な対立を回避する平和的な面が有る一方、夜襲で村を襲うエピソードが頻出し、同じアイヌの集落同士で戦争のような抗争が多数あったことを暗に示している記述もあります。

 

 アイヌの事を調べていき、これらの違和感が民話を残したアイヌ民族集団の違いだったのではないかと、わたくしは思うようになりました。


 良質な民話集には「○○地方のアイヌに伝わる話」等の説明がありますが、特に最近出版されるアイヌの書籍は、アイヌが統一された民族であるかのような印象を受けるものが多いです。


 北海道に住んでいれば否が応でも感じますが、現在アイヌを利用した国家の切り崩しとも呼べる運動が起こっています。

 

 わたくしはアイヌ人では有りませんが、アイヌ民族に興味を持ちアイヌの事を長年調べて参りました。

 しかし、アイヌの事を調べれば調べるほど、この民族がもつ様々な側面が見えてきて、それは前述の通り個々の民族集団の違いなのでしょうが、それらを覆い隠し北海道の先住民族として、まるで北海道に、古代からアイヌ民族の国家があり、それが野蛮な日本人の、詐欺まがいの奸計でかすめ取られてゆき、被害者のアイヌは虐げられて奴隷のような扱いを受けてきたと主張する人達がいるのです。

  

 文化保護。

 民族独立。

 そんな文脈で北海道の歴史を語る時、北海道の住民達に対立軸が立ち現れるのです。


 確かに松前藩とアイヌの間で、緊張が高まった時期も有りました。

 しかし松前藩に戦いを挑むのは、松前藩と隣接していない地域のアイヌでした。

 

 1669年に起こった「寛文蝦夷蜂起(かんぶんえぞほうき)」とも呼ばれるメナシクルの首長シャクシャイン蜂起の際にも、松前藩に近い「内浦アイヌ」は、シャクシャインと対立こそしませんでしたが、その蜂起には呼応しませんでした。


 蝦夷(エゾ)の民は一枚岩ではなかったのです。


 本州では、稲作文化の流入により、縄文時代から弥生時代に人々は移行しました。

 米を育てられなかった北海道では、縄文時代に続き、続縄文時代という短い期間を経て、擦文文化なる、謎の時代に至りました。

 北方縄文文化の首都であった亀ヶ岡遺跡周辺まで弥生文化が浸透し、日本列島でいよいよ少数派となった縄文人の残党達。

 ファッションリーダーを失った田舎者のように、ダイナミックな縄文式土器に比べて明らかに手抜きでダサい、木片で擦って紋様を付けた「擦文式土器」なるションボリアイテムで果敢に稲作文明に立ち向かいましたが、それも長続きはせず、わたくしの個人的予想ですが、千島列島や樺太から入り込んだ、好戦的な異民族に蹂躙されて、混血し、アイヌ文化は産声を上げたのです。



※三話で終わる予定でしたが、後一話続きます。

 現在のアイヌを巡る諸問題について触れます。

 ツイッター等で書き込むと噛みつかれる内容になると思います。


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