②
中世、ユーラシア大陸に巨大な帝国が誕生しました。
「元」モンゴル帝国です。
その版図は広大で、西はウラル山脈を越えて東ヨーロッパに手がかかり、東は朝鮮半島の高麗を下し、日本海を望むところまで拡大しました。
当時朝鮮半島の北、満州の地には女真族の国「金」がありましたがこれも元に滅ぼされています。
満州の東、黒竜江河口部に元は「東征元帥府」を置きました。
これはモンゴルが来る以前、金王朝時代に女真人が建立したヌルガン城が前身とされています。
樺太は目と鼻の先です。
金朝、樺太に住まう人々は、このヌルガン城の女真人と交易していました。
金朝が滅び、入れ替わりにモンゴル人が満州を治めるようになると、樺太北部は瞬く間に元が席巻し、交易は支配へと変わりました。
当時樺太には、ニヴフ人(ロシアではギリヤークと呼ばれる)や樺太アイヌが住んでいました。
黒龍江河口や樺太北部など、元の東征元帥府の近くに住んでいたニヴフ人は、割と早くモンゴルに服従したようですが、樺太南部に住み、「骨嵬」と呼ばれていた樺太アイヌは長く反抗しました。
樺太アイヌはモンゴルに服従しないばかりか、同じ樺太に住まうニヴフ人を度々襲撃したようです。
襲われたニヴフ人は、東征元帥府のモンゴル人にアイヌの害を訴えました。
この訴えに応える形で、モンゴル軍による樺太への侵攻が開始されます。
時は西暦1264年。
朝鮮半島を経由し、対馬や博多湾に攻め入る、いわゆる「元寇」に先立つこと十年。
元寇に比べて知名度は低いが、「北からの蒙古襲来」と呼ばれることもあります。
この樺太侵攻は、南の元寇で一時は中断され、20年ほどかかりましたが、間宮海峡を渡り樺太の北から南進したモンゴル軍により、樺太アイヌは駆逐され、彼らは北海道に逃げ込みました。
モンゴル軍は樺太南端に前線基地を建て、宗谷海峡でアイヌ人の北進を阻みました。
この前線砦は果夥城と呼ばれ、跡地からは中華技法で建てられた遺構が発掘されています。
どうもモンゴル人は積極的に樺太アイヌを屈服させる気はなかったらしく、クオフオ城で彼らの散発的な反攻を防ぐだけで、それ以上南進はしませんでした。
その後、元朝は分裂し、モンゴル人は黒竜江河口部を含む満州から退くことになります。
北海道に逃げていた樺太アイヌは、モンゴル人衰微の機に乗じ、北上して再び樺太に進出していきました。
1264年から約20年間に渡る「北の元寇」で、アイヌが樺太から駆逐されてから、1368年明朝成立を機に行われたモンゴル人の満州撤退の報を受けて、アイヌ人が樺太に復帰するまで約百年間、樺太アイヌは北海道や千島列島に退避していました。
ここです。
文献等が無いので、推論で推し量るしかないのですが、この百年間北海道で何が起こったのか?
日本側の文献である程度、北海道アイヌの動向が判るのは遡っても17世紀以降である。
そこから更に300年~400年昔のこの時期、北海道には既に「北海道アイヌ」と呼ばれる人々がいたのでしょうか?
樺太アイヌが北海道にいた期間に、日本(本州)では何が起こったのか?
後に「蝦夷大乱」とも呼ばれる「安藤氏の乱」の発端となる津軽でのアイヌ蜂起は1268年に起きました。
北の元寇の開始が1264年。
それから四年後に起こった津軽でのアイヌ蜂起。
この二つの出来事に関連性が無いと云うのは難しいでしょう。
この蜂起したアイヌとは、津軽や北海道南部に暮らしていた人々の事を指すのでしょうか?
ここでわたくしは推論を申し上げたい。
北の元寇以前、北海道にはアイヌ民族は居なかった。
居たのは蝦夷。
つまり、寒冷地なので稲作が出来ず、狩猟採集を生業としていた古代日本人。
三内丸山遺跡に代表される北日本縄文文化圏の生き残り、続縄文文化圏の人々が暮らしていた。
そこに北からモンゴル軍に追われた「骨嵬」樺太アイヌが流入した。
同じ島に住むニヴフを襲い、世界帝国「元」に歯向かう血の気の多い集団である。
そんな人たちが100年間居座り続けたのである。
遺骨に残る傷を受けた痕跡の割合などから、暴力による死亡率は1.8%と大学の研究チームにより算出されるほど(他の国や他の時代と比較すると暴力による死亡率は5分の1以下となるらしい)平和な縄文人の末裔である。
北海道のエミシ達は樺太から南下したアイヌに蹂躙されたと思われます。
モンゴル軍が樺太を去った後、生粋の樺太アイヌは樺太に戻ったのかも知れません。
しかし北海道にもアイヌが残りました。
「骨嵬」と「蝦夷」の混血児、蝦夷アイヌが。
※二話で終わる予定でしたが、加筆部が肥大化し、三話に続きます。