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中編

 頼りない体を潰さないように抱きしめてやって、その硬い感触に戸惑った。自分より低い位置にある頭が微動だにしない。丁寧に撫でてやれば彼の全身が増々強張るのが分かった。


「姉さま、姉さま。姉、さま」


 途切れ途切れ、(はるか)はそれ以外の言葉を知らないかのように繰り返す。私は返事をしなかった。悠に熱を奪われていくのと一緒に、じりじりと意識が削れてくる。口を開くのが億劫だ。悠の髪に滑らせていた手も気付けば止まっていた。

 ジジジ、と虫の羽が擦れる音がする。目だけで音源を探ったが、当然見つけられはしなかった。控えていたはずの世話係もいつの間にかいなくなっている。手足が冷えてきた。


 どれくらいそうしていただろうか。かける言葉をようやく探し始めた私が体を離そうとした途端、悠は弾かれたように私を突き飛ばした。

 とん、と軽く触れただけの力だった。けれど、突き飛ばされるなんて露ほども考えていなかった私をよろめかせるには十分だ。二、三後ろへたたらを踏んで、下腿が椅子の角に触れた。そのまますとんと着席する。打った腰が骨に響いて痛い。


「何をしている」


 怒号が轟いた。声の方を見ずともわかる。父だ。悠が震えた。

 そろりと這うように目だけを動かして地面を探せば、硬質で乾いた靴が土を踏みしめている。周囲には世話係が何人かいるようだ。戻って父を呼んだのはこの人たちなのかもしれない。

 父を見上げた。


「これに何をされた?」


 父が足早に私の方へ近づいた。至極心配そうに私の手を取る父の後ろで悠が青ざめている。何も、と(かぶり)を振って取り繕うように口角を上げた。けれども父は厳しい目で悠を一瞥すると語調を強める。


「そんなわけがないだろう。私はおまえがこれに肩を打たれるのを見ていたのだ。こんな出来損ないを庇立てするのはやめなさい。ああ、こんなに冷えてしまって。だから迂闊に母屋から離れるなと言ったのだ」

「いいえ、父さま。本当に何も」

「おまえは優しいな。それとも、これに脅されたか? 安心しなさい。無理をして隠さずとも、父さまはきっとおまえを守るよ」


 父はそう言うと、ぐるりと振り返って悠をまた睨みつける。そしてツカツカと悠の目の前に歩み寄ると、腕を振り上げた。反射的に頭を守るようにして悠が屈もうとする。しかしそれよりも早く父の掌は悠の蟀谷(こめかみ)を叩いた。ご、と鈍い音がして悠が地に倒れ伏す。どきりと心臓が跳ねた。


「誰が倒れることを許した。早くこの場から、娘の側から離れなさい。二度と娘に寄るな、穀潰しの器欠けが」


 父がそう言うと、悠は懸命に四肢を曲げて立ち上がろうとする。こひゅ、と彼の喉が鳴った。ずるりと体を引きずる姿は痛々しい。


「いつまでそうしている気だ」


 気に入らなかったのか、父は軽く片膝を曲げて引く。父の蹴りが悠の腹に入った。苦しげに吐かれた息も音にならなかったようで、悠は惨めにまた転がった。それでも悠に反抗的な色は見えず、ただ起き上がって離れに戻ろうとする。それを見ても気が済まない様子の父は、再度彼を痛めつけようと足を引いた。


「父さま!」


 見ていられなくなって思わず声をあげる。父はぴたりと動きを止めた。振り返ったその顔はいつもの優しい父そのもので恐ろしい。もうやめて、と言いそうになって躊躇する。頼んだところで止めてくれる保証はない。それどころかこれ以上私が悠の味方をすれば事態は悪化するかもしれない。何より私は父の機嫌を損ねるのが嫌だった。


「……なんだか寒いの。部屋に帰りたいわ、父さま」


 口をついて出たのは自分のための懇願だ。いかにも心細げに父を見やった。立ち上がって父の側に寄る。その腕に甘えるようにして指を添えれば、ほのかに温かい。父で暖をとろうとする私の肩を抱いて、彼は仕方がないといった風に息を吐いた。


 それから私たちは世話係を引き連れて母屋に帰った。這いつくばって呻く悠を置いて。死んでしまわないかと気がかりだったが、帰り際に盗み見た悠の顔は安堵の色を浮かべていた。

 父には少しだけ怒られた。もう夕方のひょうたん池にはしばらく行けないだろう。父は日中仕事で家を出ているはずだが、世話係たちに私と悠を近づけないよう一層きつく言い含めるはずだ。そんな状況で池や離れに足を向けようとすれば、世話係たちはきっとうるさく止めて告げ口をするだろう。

説教を聞き流し反省したように目を伏せ、しおらしく謝る。昔の母がしていたように。そうすれば、それ以上のお叱りがないことを私は知っていた。父は父で、娘に嫌われはしないかと気を使っているのかもしれない。


 悠は今頃どうしているだろうか。夕食ですっかり温まったはずの身体がしんと冷えて軋む。庭での出来事を反芻した。どきり。心拍数が上がったのが分かる。私は小さく笑った。初めて見た暴力に恐怖する反面、傷ついていく悠に高揚したのは気のせいではなかったらしい。痛みで歪んだ悠のあの顔が、しばらく焼き付いて離れなかった。





 一週間ばかりが過ぎた。当然ながら、あれから悠には会えていない。せめて彼の様子を聞きたいと父や世話係に話を振ってもはぐらかされるばかりだ。死んだことが噂になっていないので、相変わらず離れで生かされているのだろう。

 どうにかして会いたいが、日中に周囲の目を掻い潜ってあの離れに行くのは無謀だ。まして悠がこちらへ来ることは更に難しい。早く私が助けてやらなければ。姉さん、と救いを求めるような声を思い出した。


 昼間に行くことができないなら、夜中にこっそり抜け出すしかない。幸い就寝前からは私一人の時間だ。屋敷で働くたいていの人間はそれぞれの家へと帰っていくし、二人しかいない住み込みの世話係は遠くの部屋を宛がわれている。私が深夜出かけたところで気づきはしないだろう。父の寝床も近くはない。要は、庭に出てさえしまえば良いのだ。離れの近くに居たがる人はいないので、そこからはどうとでもなる。


 物は試しだ。日付の変わった頃、そろりと廊下に素足を這わせた。みしりと床のあげる小さな悲鳴ですら忌まわしい。周囲を警戒するも、誰かの気配どころかラップ音のひとつも捉えられなかった。

 この時期、縁側のガラス戸は開けっ放しだ。網こそ張ってはあるが、そんなものは虫程度しか阻めない。するりと抜けて庭へ降りる。足音が響くと困るので素足のまま進もうと思ったが、汚れるのも傷つくのも嫌なのでやめた。適当に置きっぱなしにしてある外履きを取り出して履く。身を屈めて抜き足差し足離れに向かえばあっさりと到着した。拍子抜けだ。思った通り離れの側には誰も居ないし、入り口は丁度母屋から隠れた位置にある。


 入り口の薄い戸に口を寄せ、悠を呼ぶ。起きて来てはくれないだろうか。二、三度囁いたところで中から物音がする。じっと待っていれば、戸の向こうに誰かが立つ気配を感じた。


「ね、姉さま? どうして」


 狼狽した様子の声が届いた。起きて返事をしてくれたことに嬉しくなって胸が弾む。


「開けてちょうだい、悠。あなたに会いたくて、こっそり来たの」

「本当? 嬉しい」


 僅かに上ずった声と共に、がたがたと建て付けの悪い戸が開く。悠が笑みを浮かべていた。途端、ふらりと熱が去っていく。寝不足で起こるような軽い眩暈がする。


「あ……だっ、だめだよ姉さま。僕と居たら、また、僕のせいで姉さまが。ごめんなさい、あの時もそんなつもりじゃ、なくて。だから姉さま、はやく」


 私の様子に気が付いたのか、悠は慌てて私を帰そうとする。動揺しているらしく話し方もしどろもどろだ。

 せっかく来たのだ。ここで戻るのも惜しい。戸は開いている。悠の横をすり抜けて中へ入った。あっ、と悠が声を漏らした。


「私の体調を気にしているなら、少しくらい大丈夫よ。あなたには皮肉でしょうけど、私の器は人よりちょっとだけ大きいの」


 悠の方を見ずに言う。離れの中は寂しく、悠の寝ていたらしい布団と本棚があるだけだ。今は灯りを点けられないが、代わりに窓から月明かりが差し込んでいた。振り返る。悠はしばらく躊躇(ためら)っていたが、やがて覚悟を決めたのか戸を閉めて部屋の隅に座った。

 私は無遠慮に悠の側へ寄る。彼は困ったように身じろぎしたが、拒もうとはしなかった。傷の具合はどうか聞こうとしてやめた。私たちは他愛のない会話をぽつりぽつりと続けた。今までの埋め合わせがしたかった。悠の側はすこし冷たくてくらくらする。けれど私はそれ以上に、自分の熱を悠へ与えているという征服感に酔っていた。


「姉さまの側は、温かくて気持ちが良い。本当は離れていなきゃいけないのに、ごめんなさい、僕は弱いね」


 悠が肩へ寄りかかった。畳に投げ出された足には暗闇でも分かる程に打撲痕が目立つ。目を細めてこつんと私も頭を寄せた。


「僕ね、姉さまが池の辺からこっちを見ていたの、知ってるんだ。あれ、嬉しかった。僕の姉さまが、僕を思ってくれているみたいで」


 私は黙って頷いた。


「優しい姉さまは、僕なんかも見捨てずにいてくれるんだなって、すごく嬉しかった。今も、嬉しい。だからね、あの日、蔵から戻る途中で姉さまを見つけて、気が付いたら姉さまに触れていて……姉さま、ごめんなさい。僕はそんなつもりじゃ、姉さまの、熱を奪うつもりじゃなくて」


 蔵に何の用があったのだろう。尋ねようと思ったが、できなかった。聞きたくない事実が悠の口から洩れるのが嫌だったし、そろそろ喋り疲れてきていた。

 ちらりと窓越しに月を探したが、見える範囲から逃げおおせたらしい。そろそろ戻らなければいけない時間だろう。大きく呼吸をして目を閉じた。

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