前編
病弱だった母が死んだ。
父は深く悲しんだが、数年もすれば継母が来た。私にとっての母は、私を産んでくれた一人だけだ。けれど継母は感じの良い人であったし、家族だと呼べる程度には彼女のことが好きだった。
彼女は、うちに来た頃にはもう身籠っていた。異母とはいえ妹か弟ができるかもしれないことに嬉しくなったが、話を聞けば父の子ではないらしかった。それでも父は彼女とその腹の子を我が家の一員だと認めた。私も特に異存はなかった。母を失った寂しさを、新しい命で埋めたかったのかもしれない。
そして義弟の誕生日となる日、継母が死んだ。義弟の命と引き換えだった。
残されたのは私と父と義弟だけ。父はまた深く悲しんだ。私や義弟の世話は雇った他人に任せきりで、会話もろくにしなかった。生きる気力を失ったらしい彼は日を追うごとにやせ衰え、今にも二人の妻の後を追いそうなほどだった。
無理もないと思った。
私は懸命に父に寄り添い、励ました。私がしっかりしなければ。今は顧みられずとも、父を繋ぎとめておかなければ。きっとそんなことを考えていたように思う。当時の私はそれが父への愛着ゆえだと信じていたが、今思えば憐憫と打算も含まれていたのだろう。ここで父の恩恵が受けられなくなれば、今まで通り生きてはいかれないと分かっていたのだ。
そんな状況で十余年を過ごした。健気に父を愛する娘を演じた甲斐あってか、父は私を置いて死にゆくことはできないと思い直したらしい。それから父は、唯一血の繫がった私を一層宝物のように扱った。私の見た目が母に似ていたこともその理由かもしれない。
一方で義弟への扱いは酷いものだった。義弟には父に嫌忌される原因が十分にあったのだから。
確かに彼は、彼の誕生日まで我が家の一員だったのだ。父と継母とで、悠という名前まで決めていた。広い心と縁を持ち、長く生きてほしいのだと二人して笑っていたのに。
けれども継母が死んでしまった今となっては過去のことだ。父にとって義弟は、愛する妻を殺した血の繋がらない男でしかない。それが例え幼く、腹の中にいた彼を一度家族に迎えていても、憎まずにはいられないらしい。
命と引き換えに生んだ継母の面影を残しているのは健康的な肌の色ぐらいなもので、薄い唇、眠たげな瞳、垂れ気味の眉、どれをとっても義弟の父を彷彿とさせるらしい。父はことあるごとに文句を溢していた。義弟の実父に会ったことはないし、義弟も久しく見ていないので、真偽のほどは分からないが。
おまけに彼は"器欠け"だった。
「なんだ、器欠けか」
義弟が生まれてすぐ、父が吐き捨てるように言っていたのを覚えている。いっそ器無しなら良かったと、私や産婆がいることも憚らず泣いていた。
幼い私はその馴染みない単語の意味を知らなかったが、何か喜ばしくないことだというのは直感的に分かった。
「人が生き続けるためにはね、特別な……なんていうのかな、熱が必要なんだ」
なんだか悪いことのような気がして父に尋ねるのは躊躇われ、他の大人にもすぐには聞けなかった。結局昔からの世話係に教えてもらったのは、随分後になってからのことだ。
彼女は自身の首筋に私の手を当てさせると、確かめるように微笑んでいた。生温くて柔らかい感触だった。
「お嬢様ほどではないけど、私もあったかいでしょ? これを留めて逃がさないようにしておくのが、器」
私の体温は人より少しだけ高いらしく、器が大きいと褒められたこともある。父はそれで喜んでいた。生きているから温かいのか、温かいから生きていられるのかは分からない。けれど確かに死んだ母と継母は冷たかった。熱と器が健康でいるのに必要なのだということは、幼いながらもなんとなく理解ができた。
しかし肝心の器はというと、残念ながら見たことも感じたこともない。一体どこにあるのだろう。そんな疑問を見透かしたかのように、彼女はより強く私の手を包んだ。
「器がどこにあるのかはね、誰も知らないんだ。熱はこうして感じられるけど、器は見えないし触れない。心と一緒だよ。泣いたり怒鳴ったり、笑っているのは分かるけど、心は見えないし触れない。でも、あるって皆が信じてるでしょ?」
私は頷いた。私たちには熱があるから、きっと器もあるのかもしれない。その時はそう思った。
笑っているからと言って楽しいわけではないように、本当は器なんて、そんなもの無いのかもしれないのに。私が捻くれて育ってしまったから、そう考えてしまうだけなのだろうか。
「だからその器が欠けていると、元気でいるための熱を溜めておけない。溜めておけないから、側にいる人から絶えず足りない分を奪っていくんだ。たとえ本人がそんなことしたくないって思っていてもね。そうしないと自分が死んでしまうから」
そこまで聞いて、ああそうか、と思い至った。
私はほとんど義弟に会ったことがない。いたずらに彼の口元へやった指を思いのほか強く吸われた。義弟との思い出は、まだ彼が目もろくに見えていない頃の、たったそれだけだ。
父は私が義弟に会うことを許さなかった。当然疑問には思っていたが、深くは考えなかった。私は自分のことだけで精一杯だったし、何より義弟に無関心だった。
義弟に会わせようとしないのは、父が私を守ろうとしているからだったのか。おかげで私は器欠けと同じ屋敷に住んでいながら、熱を奪われたことは一度もなかった。それどころか、世話係に教えてもらうまで何も知らずにいられたのだ。
器欠けの近くにいれば、熱を奪われて気分が悪くなる。そんな人間の近くにはいられないし、大切な人の側にはおけない。そういうことだろう。はじめて義弟を哀れに思った。彼は疎まれ、虐げられ、挙げ句惨めに死ぬ運命にあるのだ。
それでも義弟は生き永らえているらしかった。誰かから奪わずとも、辛うじて死なない程度の熱くらいは金で買えるようだと知ったのは最近のことだ。それが父の良心からなのか、世間体を気にしてなのかは分からなかったが、私はなんだかそれが嬉しかった。
夏も終わる頃である。日も落ちかけて風が気持ちよかったので、庭に出てぼんやりと涼むことにした。というのは建前で、本当は義弟が気になって仕方がなかったのだ。庭にあるひょうたん池の近くまで寄れば義弟の居る離れが見える。ここに座って可哀そうな義弟のことを思うのが、最近の私は気に入っていた。父はあまり良い顔をしなかったがこの眺めが好きなのだと言えば渋々許してくれた。
風が吹いて水面に浮いた葉を揺らす。言い訳のために手にしていた本はまるで役目をはたせていなかった。けれどそれを咎める者はおらず、それどころか世話係まで私と一緒になってぼんやりとしている始末で、穏やかな時間だった。もう少し暗くなったら彼女たちもはっとして私を母屋に戻すのだろう。それまでは昨日と同じように、義弟のいるという場所を眺めていたい。
不意に、不思議な感覚が体を駆け巡った。体の内側から何かが抜き取られていくような、眼前の景色が遠ざかっていくような、そんな感覚だ。寒気がした。
後ろで世話係の悲鳴が小さく聞こえたかと思えば、すぐにぱったりと途絶えた。もう風は弱くなってしまったのに、池の葉がまた揺れた。それが沈んでいくのを見守る。それから土と肌の擦れる音がして、やっと私は何があったのかを考え始めた。
「ねえさま」
聞いたことのない、掠れたアルトボイスに背が跳ねた。椅子の縁に片手を置いて振り返る。自分の髪が視界を薄く遮った。鬱陶しい。耳にかけた。地面を見れば、橙色の遠い明かりが人の影を作っている。顔を上げた。薄い唇、眠たげな瞳、垂れ気味の眉。すべてが聞いていた通りだった。
確か今年で十五になるはずだが、年齢よりもずっと幼く見えた。柔らかそうな色をした髪は艶を失い、継母と同じだと父が唯一褒めた肌は所々青くなっていた。けれどそれは、今まで見た中でも一番美しい眺めだったように思う。
「姉さま、姉さま」
何度も同じ単語を紡ぐ唇が、ふたふたと開閉するたびに震えている。彼は私から目を逸らさなかった。助けてと請われた気がした。助けてやらねばと思った。
立ち上がって彼に手を伸ばせば絡まる指と、体から熱が奪われていく感覚。冷たい。目が回る。気分が悪い。人生ではじめてのそれに戸惑いながらなんとか腕を動かし抱きしめてやれば、服の裾が掴まれた。これは私の義弟だ。私を姉さまと呼んだ悠を、また可哀そうに思った。
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