66.転変
陸軍大尉、山寺弘毅は感動に震えていた。
山寺はヘリコプターのパイロットである。陸上自衛隊時代にウイングマークを取得した彼は、いま総理大臣専用機パイロットとして、安藤太郎永世総理とその妻、公設秘書2名と忠実なSPを運んでいた。不埒なテロリストどもが暗躍する未曾有の国難の中で、彼の腕に偉大な帝国の命運が握られているのだ。
総理閣下から直接、「お言葉」を賜った。「みぞうゆうの危機に、君の格別の働きを願っていません」という、実に含蓄のあるお言葉だった。山寺の如き無学者にはとうてい理解できない深いニュアンスに、彼は恐懼した。
シコルスキー社製の大型ヘリは、南アルプス山脈のある場所を目指していた。甲府盆地を眼下に見下ろす最短の航路をとっていた。大菩薩峠付近で左手に見える川の先に天目山という古戦場がありますとガイドしたところ、SPに白い目で睨まれ、ついでに低い声で「黙れ」といわれた。幸い総理夫妻は由来を御存じないようだった。
SPの長から指示された座標は、山脈の中の登山道から大きく外れた場所である。なんでこんなところに・・・・・・という当然の疑問を、山寺は危うく飲み込んだ。いま、この状況下で、首相が逃げ・・・・・・もとい転進する場所は一つしかない。とすると、SPの一人が持っているブリーフケース型の何かは、やっぱりアレなのだろう。
ヘリは南アルプスの上空に到達した。こんな見渡す限りの森林の中に、ヘリが降りられる場所があるのだろうか。燃料は充分にあるが、パイロットとしての本能が、常に不時着に最適な場所を目視で探してしまう。いまのところ、そんな都合のいい場所は見当たらなかった。
どうにも不安で居心地の悪い山寺に、SPの長がおもむろに語り掛けた。
「ここから白根山の山頂を目指せ。その手前に、ヘリが降りられる駐機スペースがある。そこに降ろせ。真上からしか見えんから、いったん通過しても構わん。とにかく見逃すなよ」
山寺はそうした。鬱蒼と生い茂る樹木の間に、確かに人の手でくりぬかれ平坦にされた箇所があった。舗装はご丁寧にも緑色の迷彩塗装が施されている。これでは衛星写真でも見逃しかねない。
ぴったりと真上に位置し、ゆっくりと慎重に降下を始める。幸い天候はよく、風もほとんどない。山寺の腕なら特に問題のない着陸だった。
到着と同時に、またしても永世総理御自ら、山寺にお言葉を賜った。それどころか、山寺の手を両手で握り、満面の笑顔でお褒めの言葉を下すった。山寺は感涙にむせぶ。この国に生まれ、帝国軍人になってよかったと、心から思った。
SPの長が指示した。このまますぐに飛び立って、諏訪湖上を通過して松本駐屯地を目指せ、と。松本の帝国軍はまだ健在であるから、あそこに留まって後日に備えろ。
山寺はそうした。英明なる総理閣下が帝国全土に再び号令し、悪辣なパヨク分子を殲滅する姿を思い浮かべて、ひとりニタニタ笑った。前方に諏訪湖が見えてくる。天気が良く、実に素晴らしい眺望だ。パイロット冥利に尽きる、本当に素晴らしい眺めだった。
湖上の中程で爆発音が聞こえた。真後ろからである。少し遅れて熱風が山寺を包み、彼から酸素を奪い、その身を焦がした。ヘリはそのまま岡谷の岸から100メートル手前の湖面に墜落した。




