歌う鳥(3)
3
夏祭りが近づくにつれ、トグリーニ族の本営には、人びとが集まり始めた。馬に騎った遊牧民はもちろん、キイ帝国の商人や、駱駝を連れた隊商だ。
ミトラたちは早速みせをひろげ、商いの準備を始めた。男女に別れてユルテ(移動式住居)に泊っているオダと鳩も、一緒に働く。
「トグルに話したの?」
鳩は、細かい模様の描かれた色とりどりの皿を並べる手を止め、半ばおびえたように訊いた。オダは首を横に振った。
「族長には、まだ会えていないんだ。鷲さんと鷹にだよ。鳶を連れて来てくれるって。タオにも声をかけてくれるって、言ってたよ」
「鷲お兄ちゃんに言ったら、トグルに報せてしまうわ……」
鳩は両手で頬をおおった。オダは困って眉根を寄せた。
「報せないわけにはいかないだろ? 隼さんにだって」
「それはそうだけど」
「……イヤ?」
オダは、ふと真顔になった。訊ねる口調は辛抱づよく、優しい。
「ねえ、鳩。無理しなくていいんだよ? 俺は鳩といたら楽しいから、一緒にいられたらいいなと思うけれど」
「無理なんかしていないわ。そういうのじゃないのよ。ただ……何て言うか、」
「今年でなくてもいいんだ。気持ちの整理がつかなければ、いつまでだって」
言葉を探す鳩に、青年は肩をすくめてみせた。
「あら。駄目よ、二人とも。こういうのは勢いなんだから」
二人の会話を微笑ましく聴いていたミトラが、口を挿んだ。
「どうしたの? 鳩ちゃん。何か困りごと?」
鳩が口ごもっていると、朗らかな声が飛び込んで来た。鷹が、隼とタオと〈草原の民〉の男性を一人連れてやってきたのだ。場が一気に華やいで感じられた。
ミトラは息を呑み、仲間の女たちと急いで片方の膝を着いた。
「族長妃、タオ様……!」
「こんにちは、ミトラさん。鳩ちゃん、オダ」
にこにこと微笑む鷹は、いたって気さくだ。隼は、落ち着いて挨拶を返した。
「話は聞いたよ。おめでとう、鳩、オダ」
「ねえ、鳩ちゃん。わたしたちに手伝えることってない?」
鷹は二人の結婚式に関わりたくて仕方がないらしい。鳩はオダと顔を見合わせ、おずおずと応えた。
「婚礼の衣装は、もう出来ているの。皆に手伝ってもらって……自分で縫ったから」
「そうなの?」
隼はオダに向き直り、さらりと告げた。
「オダ。あとで、ジョルメ(若長老)のところへ顔を出してくれ。調教の終わった二歳馬のなかから好きなのを二頭選ぶようにって、トグルが」
「はい。……え?」
「馬?」
鳩の眼がまるくなった。隼は平然とうなずいた。
「花嫁を乗せる車を牽く馬が必要だろう。ナーダムが終わったら、連れて行くがいい」
「衣装が出来ているのなら、あとは装身具だな」
タオがしたり顔で言い、連れて来た男を紹介した。細工職人の男はタオの隣に並んで立ち、丁寧に一礼した。
「ニーナイ国では、花嫁は金目の物を身に着けると聞いた。腕輪、指輪、首飾り、額飾りに『邪眼避け』の胸飾りと背飾り、だったか? 寸法を測らせてくれ、ハト殿。ナーダムの間に仕上げておこう」
「でも……タオお姉ちゃん」
銀や真鍮に紅玉髄を象嵌した装身具は、花嫁の婚資にあたる。〈草原の民〉の職人は黄金細工で名高く、彼らの作る繊細できらびやかな工芸品は、若い女性の憧れの的だ。承諾すべきか否かが分からず、鳩はミトラとオダ、隼とタオを順に見上げた。鷹は優しくうなずき、隼は微笑んだ。
「祝わせてやってくれないか、鳩。あたしたちにとっても、トグルとタオにとっても、お前は大事な妹だ」
「…………」
ミトラに背を押され、鳩はうなずいた。オダが感情をこめて礼を言う。寸法を測ろうと進みでた職人に片腕をさしだしながら、鳩は遂に泣きだした。
*
「もう十年が経つのか。早いなあ」
盟主の天幕の周囲には、長老たちと氏族長たちが集まり始めていた。祭りの気分に浮き立つ草原の片隅で、鳶とラディースレンとエイルを含む子ども達は、花を摘んだり革製の毬を蹴ったりして遊んでいた。
その様子を眺めながら、雉はしみじみと呟いた。シルカス氏族の本営から戻って来た彼は、鳩とオダの結婚話を聞いたばかりだ。
今は天人と呼ばれる彼らがニーナイ国の神官の息子に出会ったのは、オダが十四歳になる頃だった。かの国では成人に達する年齢とはいえ、世慣れない少年の言動はいかにも危なっかしかった。トグリーニ族の侵攻に怯えていたオダが、その盟主の信頼を得て二国を結び、他の国々からも一目置かれる存在になると、誰が予想しただろう。
鷲は、椅子に腰かけて口琴の振動を確かめながら、うすく笑った。
「ああ、早いぞ。お前は独り身だから感じないかもしれないが、子持ちだと、毎日があっと言う間だ」
「そんなもんかねえ」
雉は肩をすくめた。
遊牧民も定住民も、季節を基準に生活している。雉は薬師として、草原だけでなくニーナイ国やキイ帝国、時には〈黒の山〉を訪問する生活を続けている。本営に戻るたびに子ども達が成長しているのは分かるが、我が身に引き比べて考えたことはない。しかし、仲間うちで一番幼かった鳩が結婚するとなると、流石に感慨深いものがあった。
トグルが二人のところへやってきた。同盟氏族の長たちを歓迎するため、鮮やかな青の外套を着ている。
「ワシ、何とかなりそうか?」
「おう、これならな」
鷲は口琴と長い縦笛を手に笑いかえした。トグルは片手に馬頭琴を提げている。
「タオが月琴を演奏する。いま、太鼓と馬頭琴の弾き手を探している」
「何の話だ?」
雉が問うと、トグルの代わりに鷲が答えた。
「結婚式の余興で、歌と踊りをするんだと。折角だから、演奏してやろうと」
「演奏? お前がか?」
鷲は、ぽりぽり頬を掻いた。
「難しくてなあ。俺は歌と口琴にした」
「そんなに難しいのか?」
トグルは雉に馬頭琴を差し出した。
「弾いてみるか」
「いいのか?」
興に乗って雉がかまえると、トグルは身振りで弾き方を示してみせた。雉は弓を動かしたが、わずかに擦過音がしただけだった。
「あれ?」
「……絃硬があるゆえ、しっかり押さえぬと鳴らぬぞ」
冷静に指南するトグルの傍らで、鷲は苦笑いしていた。
「弾けたもんじゃないだろう、雉」
「本当だ。簡単そうに見えたのになあ」
「トグルが弾くからだよ」
楽器を抱えて四苦八苦する雉を後目に、トグルは鷲に話しかけた。
「自ら芸を披露しようとは、珍しい。どうした?」
「俺より鷹が乗り気なんだよ。もしかして、盛大にして欲しかったのかなあ、と」
「…………?」
トグルは首を傾げた。鷲は、やや神妙に説明した。
「俺たちは、〈黒の山〉にいた頃にルツとマナの介添えで式を挙げた。真似事みたいな、ささやかなもんだ。……レイ王女のときにどうだったかは知らないが、自分の出来なかった分も盛大に祝ってやりたいのかもしれない」
「鷹ちゃんが? まさか」
雉は音の出ない絃に苦労しつつ、言下に否定した。鷲は、考え込んでいるトグルに質問を返した。
「俺はお前らの結婚式を観ていない。挙げたのか?」
トグルは黙って首を横に振った。雉はいったん弓を置き、手首をほぐしながら二人の会話に耳を傾けた。
「〈草原の民〉の結婚式って、どうするんだ?」
「……まず、親同士が話し合う。貴族階級では、ということだが。話がまとまれば、婚資を贈り合う。羊や馬や、家具、毛皮などを……身分と財力に応じて。一部は新婚夫婦のものとなる」
なるほど、と鷲は相槌を打った。トグルは言いにくそうに地平線を見遣った。
「新しいユルテ(移動式住居)は新郎側が用意する。それから嫁を迎えに行く……。新婦側は、行列を仕立てて待っている。合流したら、賑やかに囃しながら新居へ向かうのだが……ユルテの敷居をまたぐ前に、新婦は逃げる」
「逃げる?」
鷲と雉の声が重なった。トグルは、さらに言いにくそうに口を覆った。
「馬に騎って逃げる……それを、新郎が追いかける。大抵は良い加減なところで追いつくが、稀に本気の競走になって、新婦が実家へ帰り着いてしまうことがある。そうなると、最初からやり直しだ」
鷲と雉は、この話の内容について考えた。そして、ほぼ同時に笑い出した。
「つまり、新婦は拒否できるわけだ」
「……互いの顔も知らずに縁談が進められていた場合、時々起こる」
「お前ら、地でそれをやったんじゃないか?」
鷲がからかい、トグルは哂った。
「ハヤブサにも、そう言われた……。いまさら式など不要だと」
「ああ。あいつなら、そう言うだろうな」
鷲はうなずき、雉も納得した。――鷹や鵙(隼の姉)と違い、隼は女性らしくあることを避けているところがある。ろくに化粧をせず、着飾ることもない。狩りや戦闘の際に邪魔になるという理由だったが、一児の母となった今も変わらない。注目を浴びるのが苦手な彼女のことだ、部族をあげての婚礼など裸足で逃げ出すだろう。
トグルとタオにとっては、また見方が異なる。――〈草原の民〉ではなく有力な氏族の後ろ盾もない隼は、盟主のトグルには願ってもない相手だ。富や権力に関心がなく、豪華な宝飾品にも興味を示さないので、賄賂を危惧する必要がない。
鷲やオダ、ミトラたちへの支援は、トグルにとっても益になる。問題はない。
『盛大な祝いに、か……』 トグルは考えた。鷲の言うように、隼の望みもそこに投影されているのだろうか。
雉が馬頭琴の練習を再開し、ギギ、ギ、ギィーッと耳障りな音が辺りに響いた。子ども達が毬を放り出して耳をおさえ、鷲が舌打ちする。トグルも片頬をひきつらせた。
雉は、申し訳なさげに首をすくめた。
「ごめん……。これ、一ヶ月で何とかなるかな?」
大いに問題だった。男達は、誰からともなく嘆息した。
*「馬を贈る」:現代の感覚なら、新車をプレゼント、くらいでしょうか。
「花嫁の装身具」:いざとなれば売って生活費にするのです。