その3 おい、お前
「おい、お前、面倒な客が来たと思ったな?」
山代の来店から一時間後、受付に姿を現した猿顔の老人は、柊の顔を見るや否や、無表情でそう告げた。
気まずさで表情を引きつらせる柊だが、隣で受付に対応している八犬の方は、特に謝りはしない。
サトリの化け物……人間の心をサトっては言い当てるこのあやかしについては、子供の頃に読んだ絵本で知っていた。山中で遭遇した人間の心を次々とサトり、最後には人間を食べようとするのだが、サトる事のできない偶然の事故のお陰で、サトリが退散する話である。
八犬曰く、本物のサトリは人間を食べたりしないそうだが、人の心は本当に見透かすらしい。その結果として、失礼な思考はいくらでも読み取ってきた為、いちいち怒ったりしないそうなのだが、柊としては落ち着かなかった。個人的には気分が良いものじゃないし、サトリと山代が鉢合わせでもしたら、という不安はますます大きくなる一方なのだ。
「おい、お前、人間客と鉢合わせしたら危険だと思ったな?」
そぉら、きた。
「あ、いや、あはは……まあ、できれば避けて頂ければ……」
「断る」
「そ、それじゃあ、心を読み取らないで頂けければ……」
「断る」
一体、何を考えて断っているのか、まったく見当が付かない。
自分もサトれたら良いのだけれど……なんて事を考えたところで、またその心境を見抜かれてしまった。柊は口元を歪めながらも、サトリを客室へと案内した。
「ほほう。良い部屋だな。ほう」
「私も、初めて入った時はそう思いました」
「ここなら存分に寛げそうだ。一日、世話になる」
「いえいえ。……でも、あやかしのお客様って、宿に来てどうするんですか? 別に観光に来たわけでもないですよね」
「寛ぐ。ただそれだけだ」
「会話に手応えがないなあ……」
「おい、お前、さっきから思った事を全部口にしているな?」
「黙っていてもバレちゃいますからね」
この方が、ちょっとは気分が落ち着く。
一方のサトリも、柊の意図を聞くと、なぜか機嫌が良さそうに頷いてくれた。
「さて、夕食は時間になりましたらお持ちします」
「宴会場で食いたいのだが」
「はい、もちろんそれでも構いませんよ。で、料理の方なんですけど……」
「……おい、お前、味覚がないのか?」
サトリが先に言ってくれた。こういう時は、事情を説明する手間が省けて良いかもしれない。
「はい。でも、ご満足頂けるように頑張りますので!」
「そうか。任せる」
「承知しました。それでは、ごゆっくりお寛ぎ下さい」
「分かった。人間客をサトるのを楽しみにしているぞ」
「勘弁してくださいよ……」
どうやら、彼はサトりたくて仕方がないようだ。
このまま、サトリを放っておいたら、どうなるか分かったものではないが、自分には料理の仕事がある。それに「手が空いている者に周辺を見張らせる」と八犬が言っていたので、多分、みんながなんとかしてくれるだろう。
柊は、後ろ髪を引かれるような思いをしつつも、足早に一階へ降りて台所へ入った。
調理の補助として割り当てられている眷属は、まだ姿を見せていないが問題ない。大人数を捌くのならばだしも、今日の客は二人だけだ。それに、本当に助けが欲しいのは、最後の味の調整の方である。
「さーって、どうしようかなあ」
冷蔵庫を開けた柊は、にまり、と締まりのない笑みを浮かべた。
整然と並んだ食材群は、今日も美しい。特に整っているのは野菜室だ。丸みを帯びた食材が多い為、本来は雑然としがちなのだが、我ながら効率よく詰めたものだ。
しばしの間、みとれるが、食材の鮮度が気になって閉める。
それから献立を考えるが、どんな食材があったかどうか気になって、冷蔵庫を開けては、またみとれる。
そんな不毛なループに突入しかけたところで、室外から足音が聞こえてきた。何事か出入口を見ていると、ほどなくして羊子が駆けこんできた。
「ひ、柊ちゃん、もうダメじゃあ……!」
「駄目って、急にどーしたの?」
「あたしは、もうダメなんじゃ。大事な秘密が……秘密が……」
「え、えっ? 秘密? どーいうこと?」
うろたえつつも、泣きだしそうな羊子の頭を撫でる。それで少し落ち着いたのか、彼女は口をへの字に曲げながらも、小声で説明を始めた。
「あ……あのね、説明はするけど、内緒にしてほしいんよ」
「大丈夫。言いふらしたりしないから。……もしかして、サトリ絡み?」
「ん。……あたし仲居じゃけえ、他の仲居と一緒に、挨拶するフリしてサトリを見張りに行ったんよ」
「その目的、サトられなかったの?」
「サトられてしもうたし、皆の前で、秘密もバラされてしもうたんじゃ……今日の夕飯、余り物が出たらつまみ食いするつもりじゃと……」
なんとも、かわいらしい秘密もあったものである。
「バ……バレちゃったら、仕方ないね。元気だしてよ。食べたいなら、羊子ちゃんの分は別に作ってあげるからさ」
「え、ええんか? 別にあたし達、食べなくても大丈夫なのに」
「いーよ、それくらい大丈夫。口に合う保証はないけどね」
「柊ちゃん、ありがとう!」
ようやく機嫌を直した羊子は、はちきれんばかりの笑顔を浮かべた。
だが、それで落着したと思ったのも束の間、またすぐに廊下が踏み鳴らされる音が聞こえる。
続いて台所に顔を覗かせたのは、樹だった。
「おい、柊! 八犬はどこだ!?」
「大きい声出して、どーしちゃったんですか。受付にいると思いますよ」
「いねーから聞いてるんだよ。サトリに気を付けるよう指示したのに、なにをしてやがるんだ、アイツは!」
「……樹さんも、サトリの被害ですか」
「そーなんだよ。俺がチラッと顔を出してやったら、仲居がいる前で、深夜に琵琶の稽……お、おい、何を聞きだしてるんだよ!」
「樹さんが勝手に喋っただけじゃないですか……」
これは、思ったより面倒な事態かもしれない。
樹に呆れるよりも、サトリの危険性を再認識し、様子を見に行こうと思ったが、その前に三度の目足音が廊下から聞こえてくる。今度はどの従業員かと思いきや、現れたのは……山代であった。
「お、お客様……!?」
「やーやー、これは柊さん。ちょっとお話がありましてな」
「も、もしかしてサト……いや、他のお客様と、何かありましたか?」
「特には。あやかしについて少々話があったのですが、取り込み中ですかな」
「あ……でしたら私の勘違いみたいです。晩御飯の準備には時間がありますし、少しでしたらお話しできますよ。どうぞ、お掛けください」
そう告げて台所用の座椅子を指し示し、着座してもらう。
客の顔を見て退散するのも気まずいのか、樹と羊も同じように座ったところで、山代は待ち構えていたように話を切りだした。
「さて、実はこの民宿、あやかし宿という噂があるのはご存知でしょうか?」
「う、噂には……」
「では、改めて問います。勤務中にあやかしを見た経験はありませんか? 別にあやかしそのものでなく、超自然現象だったり、ラップ音であったり、そんな変わった出来事でも構いません」
答えは決まっている。今、そこにいる少女が変身しました、なんて言うわけにはいかないのだ。
「いやー、ないですねえ。全然ないです。ごくごく普通の宿ですよ」
「本当に?」
「あ、えっと……」
「誓って、ぜーったいに、何も見ていませんか?」
もしもこの男がサトリだったら、大変な事になっていた。
それでも首を横に振ると、山代は露骨に肩を落とした。
「はあ、そうですか。大変失礼致しました」
「お気になさらずに。……でも山代さん、なんでそんなにあやかしが好きなんですか?」
「や……実は少々恥ずかしい話なのですが、私の故郷、佐賀にある河童伝説がすべての始まりでして」
「良かったら、聞いてもいいですか」
「ええ、もちろんですとも」
山代の顔が、ぱっと明るくなる。まるで子供のような、無邪気な表情だった。
「有名な話ではありますが、佐賀の某家には、河童のミイラが現存しているのです。目と目が大きく離れて頭はくぼみ、指の間には水かきがついている、河童以外の何物でもないミイラです。私が小学生の頃に、クラスメート達と見に行った事がありましてな」
「それに惹かれちゃったんですか」
「いや、その時はなんとも思いませんでした。ただ、みんなが作り物だと言うので、私も合わせて笑い飛ばしましたな。……恥ずかしながら、昔からドンくさいところがあって虐められていたので、媚を売っていたわけです。時には青アザ作って帰る日もあったので、母には随分と心配を掛けましたよ」
「あらら」
「その後は、みんなで川へ泳ぎに行ったのですが、水泳は苦手でした。でもみんなが泳げ泳げとはやし立てるので、川に飛び込んだら、案の定、溺れてしまいましてな。浮き沈みしながら水をたくさん飲んで、激流に流され、もう駄目だと思いました……ですが、不意に私の腕を、猛烈な勢いで引っ張って泳ぐ者が現れたのですよ」
「それ、もしかして……」
「ええ、砂利に引き上げられて顔を見たら、ビックリでした。河童だったのです。しかも人間くさい河童でして『カナヅチの癖に泳ぐな』と怒るのです。恐れつつも事情を話したら、今度は『虐められたらやり返せ』と、また怒られましてな。しまいには、相撲まで教えてもらいました」
だんだんと、山代の語りがゆったりとしたものになる。
昔を思いだしながら、しみじみと語る彼を見ていると、何故か柊まで心が和んできた。
「……そのお陰で、友達からは虐められなくなりました。その代わり、河童とは二度と出会う事はありませんでしたがな。……それでも、あやかしは存在する。そして彼らは、私達の友である。そんな芯が私の中に生まれまして、今日に至るまで、あやかしの存在を証明するべく活動しているのです」
「恩人、なんですね」
「というより、恩カッパ?」
「あははっ。……そっか、そんな事情でしたか。私も、なんだかあやかしが存在するような気がしてきました」
「はは、こりゃどーも。みんな、そう言ってくれると嬉しいのですが」
「分かってもらえますよ。ご家族だって、応援してくれてるんじゃないんですか?」
「……ま、それはともかく、私はそろそろ調査に戻ります。……それと、夕食。洋食でお願いします。郷土料理の類は苦手でして」
「あ、はい。時間になったらお持ちしますね」
「離れの宴会場で頂けますかな? あそこは風情があって良い」
「あ、宴会場はちょっと……」
「それでは!」
山代は柊の返答を聞かずに立ち上がり、室外へと出て行ってしまった。
取り残された柊に、ずっと話を聞いていた羊子が声を掛けてくる。
「宴会場、ちょっとダメなん?」
「実は、サトリさんも宴会場で食べたがってて」
「うわ、最悪の組み合わせじゃ!」
羊子が顔をしかめながら言う。
が、彼女の表情には、すぐに驚きの色が混じりだした。視線も自分の方へは向いていない。何事かと彼女の視線を追えば……いつの間に現れたのか、サトリが扉の隙間から中を覗き込んでいた。
「サトリ、さん……」
「最悪で悪かったな。良い事を教えに来たのだが」
「あ、いや、あはは……羊子が失礼しました……。で、良い事とは?」
「人間客が郷土料理を食べたがっていたぞ」
「サトったんですか、それ……」
「すれ違った時にな。声を掛けそびれたので、代わりにお前に教えておく」
それだけ告げると、サトリはヒョイと顔を引っ込ませて、外へと立ち去っていった。
苦手なのに食べたいとは、どういうつもりなのか。
いや、そもそもサトリの話を信じて良いものだろうか。樹も羊子も彼に秘密をサトられてしまったし、他の従業員も彼への警戒で振り回されているのだ。
「……なんなんですかね、今の」
「そりゃ、助言だろうよ」
自問のつもりで呟いたが、樹が淡々とした声で反応してくれた。
「助言、ですか? 信じられないなあ。山代さんご本人が、郷土料理は苦手って言ったんですよ。サトリさんってあやかしだし、私達を陥れようとしているんじゃないかな」
「お前、あやかしを厄介者だと思ってるな」
「サトリさんの真似ですか、それ。似てませんよ」
「違うよ、本気で言ってんだ。確かに民話のあやかしは人間に害を成す者が多いから、そう思い込むのも無理はないか」
樹は静かにそう語ると、椅子に座り直した。
「民話のサトリというと、山に迷い込んだ人を食べようとした話ですね」
「それが有名だな。だけど、本物のあいつはそんな事しねえだろ。確かに振り回されてはいるが、それには理由があるんだよ。そもそもお前、あやかしには真理があるって知ってるか?」
「いえ……なんだか、難しそうな話ですね」
「でもねえよ。前にも軽く話したとは思うが、そもそもあやかしってもんは、負の感情から生まれるんだ。妬んで、僻んで、死んだあとは、はい恨めしや。この流れは分かるよな」
「ええ」
「だが、負の感情は、必ずしも相手に害を成すものじゃない。他にも様々な想いを含んでいる。うまいものを食いたいとか、人に愛されたいとか。この感情は、今も昔も変わらない。だからあやかしには真理があるってわけよ」
「……つまり、樹さんはこう言いたいんですか? サトリさんも負の感情によって生まれた。そしてそれは、人を陥れる類のものじゃない、って」
「加えて言えば、それが、サトりたがる理由にも繋がっているはずだ。……いいか? あいつは迷惑を掛ける為にサトってるんじゃない。何か理由があってサトってるんだ。そこを、しっかりと考えてみろ」
そんなの、思いもしなかった。
あやかしは……サトリは、厄介な存在とばかり考えていた。
「ふぁーあ……んじゃ、俺はこれで」
樹が話を終わらせて腰を上げた。
だが、今彼を帰すわけにはいかない。慌てて柊も立ち上がり、彼に駆け寄った。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! まだ話は途中ですよ?」
「そうか?」
「そうです! サトリさんがサトる理由、教えてください!」
「眠くなったから、また今度な。飯の準備に差し支えるってんなら、とりあえず、あいつが嘘つきじゃない事は確実、とだけ教えとく」
「い、樹さんっ!」
樹は面倒くさそうに袖を振って柊を遠ざけ、台所から出て行ってしまった。
取り残されてしまった柊だが、今の話を羊子も聞いていたのを思い出し、彼女の方に向き直る。
羊子は、きょとんとした表情で柊の方を見ていた。
「……羊子ちゃんは、サトる理由って分かる?」
「何の話か、さっぱりじゃ」