その1 ご近所トラブル
離れの六畳部屋は、意外にも過ごしやすかった。
築四十年は経っているそうだが、壁の造りはしっかりとしているのか、隣室の物音は聞こえてこないし、畳も新品のように良質である。ただ、エアコンはないので、夏になれば涼を取る方法を考えなくてはならない。
部屋に備わっていたのは、文机と薄っぺらい布団、後は貫禄のあるドレッサーだけである。収納棚と衣服、その他必要な小物を実家から持ってくると、もう部屋は窮屈になってしまった。だが、自分だけの城に違いはない。
十二支屋の客は、話に聞いていたとおり週に一人、二人である。板場が手ぶらな時は他の人の仕事を手伝っているが、それでも時間を持てあましたら、自室で調理師資格の勉強をして過ごした。
今日もノートに向き合っていると、部屋の隅に置いているスマートフォンの電子音が鳴った。見てみると、SNSにメッセージが届いている。送信者は、老人ホームで暮らす祖母のコノエだった。
『宮島の生活は慣れたかい? 困ったら、いつでもお婆ちゃんに話していいんだからね◎』
スマートフォンの使い方を教えた事は一度もないのに、祖母はSNSを完全に使いこなすのである。昔から、明るくて何事にも興味を持つ、社交的な人だ。そんな祖母にも十二支屋の事情を隠して「宮島の宿に転職した」としか伝えないのは心苦しかったが、祖母は細かい事情を聞き出そうとせず、大いに喜んでくれた。味覚障害の件は祖母も知っているだけに『いい気分転換になる』と考えてくれているのかもしれない。
お礼を返信した後、一言、二言雑談してやりとりを終えたが、勉強も切りあげる事にした。なにか仕事はないかと母屋に出ると、下足場の方から羊子が小走りで近づいてきた。
「あ、柊ちゃん、柊ちゃん。大変なんよ」
そういう割には、相変わらず間延びした喋り方である。
「どしたの。あまり大変そうじゃないけれど」
「ううん、一大事よ。外にいる八犬さんが大変なんよ」
「八犬さんが、どーかしたの?」
「したんよ」
よく分からないので、直接見に行くしかない。
外に出ると、表の通りから怒鳴り声が聞こえた。石段を駆け下りて行ってみれば、八犬が、知らない男性からわめかれているようだった。
「いい加減にしてくれよ、あんた!」
「は。しかし……」
「いらないって言ってるんだよ、見張りなんか!」
わめいている男は、八犬と大差ない歳に見えた。身長も八犬ほどではないが高く、そんな二人が路上で揉めているのだから、周りを行く観光客は距離を取って歩いている。まだ事情は分からないが、羊の言うとおり、何かしらのトラブルが起こっているのは間違いないようだ。
「は、八犬さん、何事ですかっ!?」
「こっちが言いたいよ、そりゃあ! あんたも、民宿の人かい?」
返事をしたのは、八犬ではなく相手の方だった。
「は、はあ……一応。福間柊と言います。あの、どちら様で……」
「毛利だよ。そこの土産物屋の息子だ。あんたの宿の店員に迷惑かけられてる土産物屋の、な」
つまりは、八犬が何かやらかしたのだろうか。
だが、樹ならともかく、生真面目な八犬がトラブルを起こすとは思えない。
答えを求めるように八犬を見たが、彼は何も言わずに顔を伏せた。
「え、えっと……私で良かったら、事情を伺いますが、もうちょっと小さい声で……ほら、周りのみんなが驚いちゃいますし」
「……おう。怒鳴ったのは悪かった。けどな、客にケチをつけるような真似はやめてくれ」
「はあ」
「その男、今朝からずっと、この通りで番犬みたいに立って、うちの客を睨んでるんだよ。何のつもりか尋ねたら、最近この辺でスリや万引きが起こってるんで、それを見張っているんだそうだ」
「あー、昨日、警察の方が注意喚起してましたね」
「とはいえ、客を疑ってどうなる。嫌な思いをさせるだけじゃないか。こっちは有難迷惑なんだよ」
「……八犬さん、本当ですか?」
もう一度八犬を見ると、彼は小さく頷いた。まだ腑に落ちない反応だが、とりあえずここは謝って矛を収めてもらうしかない。
「それは、大変申し訳ありませんでした。以後、気を付けますので……」
「気を付ける、じゃなく、二度とやらないでくれ」
「は、はいっ! で、では今日はこれで。……八犬さん、行きましょう」
そう告げて八犬の腕を引っ張り、逃げるようにして十二支屋の前まで戻る。
周囲に人がいないのを確認してから、柊は大きく嘆息を零した。
「はぁー……一体どうしちゃったんですか、八犬さん」
「いえ、ちょっと。悪いのは私ですので」
どうにも、歯切れが悪い。
そういえば、初めて十二支屋に来た日にも、今みたく自分の責任を主張していた記憶がある。確か、あの時は……、
「分かった。樹さん絡みでしょう」
「そういう事になります、ね」
「事情、ちゃんと話してもらえませんか? 樹さんに義理立てるのは素晴らしいですけど……」
「……かないませんね。柊さんには」
八犬は、諦めたように首を小さく左右に振った。
「警察の方が注意喚起して回っていたのを知った樹様が、ご近所の平和を守るべく、私に表通りでの歩哨を命じた次第です」
「警察の仕事ですよね、それ」
「それだけ樹様は、ご近所の皆様を愛されているのです。ご理解下さい」
八犬は真剣な表情で柊を見つめながら、そう言った。
そこまで樹に義理立てられれば、八犬をたしなめようという気も起きない。さすがは、犬の眷属といったところだろうか。
「……分かりました。とりあえず、そーいう事にしておきます。でも、また何かあったら私が間に入りますから、呼んでくださいね。ご近所トラブルになっちゃダメですよ」
「ご理解、感謝します。……まあ、他の方々との関係は良好なのですがね」
「今の毛利さんは例外なんですか」
「毛利さんとは、まだ関係を築くほどの付き合いがありません。彼は今年の春まで、佐賀の大学に通っていたんです」
「なーるほど。関係の始まり、気まずくなっちゃいましたね」
「……ええ。ご近所の方なのに、少し声を掛けづらくなりました」
八犬はそう言うと、寂しそうに小さく笑った。
何か励ましの言葉でもかけようと思った柊だったが、八犬はその前に、玄関の中へと足を進めてしまった。
「それより、清掃を手伝って頂けませんか? 宴会場裏の楽屋を茶室に改装しているんですが、隅々まで綺麗にしたいのです。今日は大事な方々がお見えになるものでして」
「あ……はい。でも宿泊予定はなかったと思うんですが」
「いえいえ、お客様ではありませんよ」
そこで言葉を切って、八犬が振り返る。
いつもどおりの、気丈で優しげな笑顔を浮かべて、彼は言った。
「……お見えになるのは、神様です」
◇
新明座の清掃は、手が空いている者全員で行う事になった。
八犬、彩巳、羊の他、三名の従業員と連れ立って新明座の入口まで来ると、中から弦楽器の不協和音が聞こえてきた。
この音には、聞き覚えがある。
眷属達も同じようで、一様に首をひねりつつ中へ入ると、案の定、舞台の上では樹が琵琶の演奏に勤しんでいた。
「樹さん、何やってるんですか」
先頭を行く柊が、呆れた声でそう言った。
「お? お前らこそ、ゾロゾロと、どーしたよ」
「神様がお見えになると聞いたんで、お掃除に来たんですよ」
「なんだ、お前もおもてなしの準備ってわけか」
「お前も、って……樹さんも、もしかして……」
「まぁな。俺の琵琶で存分にもてなすつもりだ。その為の稽古中ってわけさ」
「駄目です! 樹さん、ヘタなんだから、相手を気分悪くさせちゃいますよ!」
「おい、それをまだ言うか? 前に比べるとかなり上達したんだぞ」
「いーえ、全然です!」
「なにを!? 新入りの癖に言ってくれやがって! 意地でも弾くからな。神様権限だ!」
「そんな無茶苦茶な!」
「駄目だ、駄目! 絶対に聞かせるぞ!」
樹が意地になって張り合ってくる。
ついさっき、樹の指示で面倒事になったのを見たばかりとあって、柊としても引きさがる気は起きなかった。
「樹さん、そうやって八犬さんにも無茶ぶりしてるんでしょ!」
「なんの話だよ」
「スリが多発してるからご近所を見張れってアレです! 土産物屋さんと喧嘩になりかけたんですよ?」
「馬鹿言ってんじゃねーよ。俺には俺の考えがあるんだ。あそこの親父とはそんな事で喧嘩になる仲じゃねえよ。なぁ、八犬!」
「今は息子さんが表に出てて、それで問題になったんです。八犬さん!」
二人が、それぞれの主張を口にしながら八犬を見る。
板挟みになった八犬は、顔を引きつらせながら一歩さがったが、それと入れ替わるかのように、彩巳が八犬の前に出た。
「樹様、八犬さんの件はともかく、演奏の方は断念してください」
「断念ん?」
「ええ。下手ですから」
「あ、彩巳まで言うか?」
「残念ながら、柊さんの言われるとおりです」
「おかしいぞ、それはおかしい! お前、今の俺の腕を知らないだろ」
「五十年前にも『上達した』と言って、客前で演奏して大不評だったのをお忘れですか」
「ぐぐ……しかし今度こそ違うぞ。前と比べりゃ月とすっぽん。小鬼と酒呑童子だ!」
「その『今度こそ違う』も、三十年前に聞きましたが」
「ぐうっ」
ぐうの音が出て、やり込められてしまう。
だが、樹はすぐに立ち直り、ビシッと彩巳を指さした。
「……生意気!」
「はっ?」
「お前、生意気だぞ。眷属の分際で知った風な口をきくんじゃねえよ!」
「大変残念ではありますが、これは他の者達の相違でもあります」
彩巳が臨終を宣告する医師のようにそう言い放つと、他の眷属達も「そうだそうだ」と、揃って呼応し始めた。
樹が愕然としたところへ、追い打ちをかけるかのように、やがて声が「やめろ」「やめろ」の合唱へと切り替わる。もう、こうなれば樹に反論のしようはない。彼は全員を見回し、最後の八犬のところで視線を止め、すがるような視線を送った。
だが八犬は、肯定の言葉こそ口にはしなかったが、露骨に視線を外してしまう。
最後の砦が、落ちた瞬間である。
「……分かった、分かったよ! お前らの勝ちだよ。今日は弾かねえよ!」
そう言いながら、樹は琵琶を舞台の上に手放した。
そっぽを向いて口をへの字に曲げる姿は、もはや完全にダダっ子である。
(良く言えばフレンドリーな関係なんだろうけれど……威厳、ないなあ……)
そう思う柊であったが、口にはしない。これ以上追い打ちをかけたら、樹がこの場から逃げだしそうな気さえした。
「え、えーっと……ところで樹さん、今日はどんな方がお見えになるんです?」
「ん? ああ。あー……八犬から聞いてないのか?」
「掃除の人手を集めるのを優先してたんで、まだ、神様としか……。樹さん、教えてくれませんか?」
「しかたねーなー。んじゃ、教えてやるとしよう!」
樹は客席に飛び降り、教師のように人差し指を立ててみせた。
機嫌は完全に直ったようで、なんともチョロいものである。
「俺達の正体を教えた時に、今の厳島神社の祭神は俺じゃないって話になったのを覚えてるか?」
「はい。ええと……今は宗像三女神、とかなんとか」
「それだ。今日来るのはその女神達だよ」
「食べるものとかは、用意しないで良いんですか?」
「八犬が茶を点てるし、和菓子も付いてくるから、それで大丈夫だ。気さくな方々だし、そこまで肩ヒジ張って対応するつもりもないんだが、まあ、茶くらいはな。なんせ、本当に上位の神だからな」
「そんなに凄い神様なんですか」
「当たり前だ。八百万の神の中でも、上から数えた方が圧倒的に早い上位神だぞ。なんせ、アマテラスとスサノオの誓約から生まれているんだからな」
神話に疎い柊でも、アマテラスとスサノオの名前は知っている。
誓約……というのはよく知らないが、自分でも知っている神から生まれたんだろうから、確かに上位なのだろう、と思う。
「ザックリと分かりました。樹さんの上司みたいな神様なんですね」
「本当にザックリとしてんな、お前」
「あはは……もーしわけないです」
「平清盛は知ってるだろ。あの男が安芸守に任じられた時に、厳島神社を盛り立ててくれたんだが、箔を付けようってんで、祭神が俺から三女神に代わったんだよ。んなもんで、確かに上位の神だが、上司じゃない。代わった理由は人間の都合だ」
「人間の都合で、本当に代わっちゃうんですか」
「その理由は大きいんだぜ。あやかしは人間の負の感情から生まれるように、神も人間の信心によって存在するんだ」
「……私、今後はもっと神社でお参りするようにします」
「おー、頼むぜ。粗相がないように、もう一つ覚えとけ。宗像三女神は、その名のとおり、本来は福岡県の宗像って土地で祀られている神だ。それを、厳島神社や他多くの神社でも祭神として崇めているわけで、普段は日本中の神社を行ったり来たりしてるわけよ」
「普段は厳島神社にはいない神様なんですね」
「だな。年に一、二回、ふら~っと二人でやってくるんだよ」
「二人? 三女神じゃないんですか?」
その問いに樹は即答せず、重々しく腕を組んだ。
周りの眷属達からも、急に緊張感が漂ってくる。
なにか、聞いてはいけない事を聞いたんだろうか。
そう思う柊であったが、樹は頭を掻きむしりながらも、間をおいて答えてくれた。
「……ああ。ここ数十年、一人失踪しててな。今日もその絡みの話で来るんだ」




