その5 朝のオーケストラ
――以前に働いていた料亭をクビになったのは、当然と言えるだろう。
『今の君の状態では、お客様に満足してもらえる料理を作れないね』
職場の板長から受けた言葉は、印象的だった。
受け入れたくない気持ちは強い。十二支屋の仕事を前向きに引き受けたのも、その反発の表れだと思っている。……ただ、キッパリと否定もできない。やっぱり、自分じゃ無理なんだろうか。
「むうー……」
重い溜息を付きながら、台所のテーブルに置いたレシピ本を眺める。
この中から一つ目入道の好物を探さないと、地底に閉じ込められるというのに、内容はちっとも頭に入ってこなかった既に日中に散々吟味したのだから当然だろう。それでもやらねばと台所に篭っているうち、時計の短針は十二を過ぎ、あくびが何度も零れてしまう。
……人の気配を感じたのは、そんな時だった。
「よう。一つ目入道の奴を怒らせたんだって?」
何故か楽しそうな樹の声。
振り返る間もなく、樹はズカズカと柊の傍に歩み寄った。
「樹さん……」
「本人から聞いたぜ。辛かったし、好物でもなかった、ってな」
「そうなんです。明日の朝ごはんで、もう一度チャンスがありますけどね」
「で、夜中まで研究ってわけか。熱心なこったねえ」
樹が隣の椅子に横並びに座り、長着の袖に手を入れて腕を組んだ。
日本の夜明けは近いぜよ、なんて言葉が頭に浮かんだが、自分の料理の夜明けは、まだ遠いような気がする。
「……当然、頑張りますよ。そうしなきゃ、私、地底に閉じ込められるんですよね?」
「おう。安心しろよ、年に一回くらいは遊びに行ってやるからさ」
「本気なんですか、それ」
「どーだろうな」
樹がくくっ、と笑う。
真意は分からないが、仮に冗談だとしても、気持ちを緩めるつもりはない。
「……とりあえず、頑張ります」
「随分と根詰めてんだな」
「そうしないと、まともな料理が作れませんからね。一品入魂です!」
「はーん。料理人ってのはそんなもんなのか」
「私は特殊だと思います。……そうだ。朝、言いそびれた話なんですが」
一度、間を置いた。
彼は、怒るだろうか。それでも仕方ないだろうけど、ちょっとだけ悲しいかもしれない。
「んだよ、話って」
「……私、味覚がないんです」
「はぁ?」
「本当です。食べ物の味、全然分からないんですよ」
「いや、お前……料亭で働いていたのに、味覚がない?」
樹の声からは、にわかには信じられないといった気持ちが感じられた。
もっともな感想だろう。それに、信じたくないのは、自分も同じだ。
「元々は、ちゃんと味覚があったんですよ。順を追って話しますね。……私が料理人になろうと思ったのは、お母さんがきっかけだったんです。お母さんも料理人で、広島市内でレストランを開いていました。そんなお母さんの姿に憧れていて、大人になったら手伝うつもりでした」
「そのコネで働けたって事か?」
「違いますよ。高校を卒業した後は、お母さんとは関係のない料亭に就職したんです。お母さんが『まずは外で勉強した方がいい』と薦めてくれたんで。……なので、まずは料亭で一人前になって、育ててもらった恩を返してから、お母さんのレストランで働く……そんなつもりで働いていました。昨年末に、お母さんが亡くなるまでは」
ふと、母の生前の記憶が蘇る。
ぐっと込み上げてくるものはあったが、なんとか、声は震えずに済んだ。
「事故死でした。……あの日は、大事な料理を教えてもらう予定だったんです。お母さんの携帯から連絡があって、料理の事かな、と思って出たら、警察の人でした。びっくりしちゃいましたよ」
「……そか」
声は抑えたつもりでも、感情は伝わったのか、樹は腕を解いて柊の方に正対した。
「あ、今は大丈夫ですよ。全然、気にしないで下さい。確かに亡くなった時は悲しかったけど、いつまでも泣いてるわけにはいきませんからね。……ただ……」
「ふむ」
「頭ではそうだと分かってるんですが、身体の方が、まだ母の死を受け入れないっぽいんです。……味覚がなくなったのは、母が亡くなった日からなんですよ」
「なるほど。喪失を引きずってるってわけ、か」
「お医者さんも、そう言っていました。精神が不安定になると味覚障害を起こす事もある。だから、とにかく気持ちを切り替えるしかないって。……でも、もうすぐ半年経つのに治らないまま。当然、料亭からも投げ出されたわけです」
「難儀だな。……いや待てよ。そんな身だと自覚していながら、俺の提案を引き受けたわけか」
「あはは……地底に閉じ込められるところでしたし」
「責めちゃいねえよ。お前は最初から、話そうとしてくれてたしな」
「どうもです。……正直に言えば、料理人を諦めたくなくて、お話を受けたわけでもありますけど」
「大した根性だな。ま、嫌いじゃないが」
樹は呟くようにそう言うと、身体を深く椅子に預けた。
柊としても、この先は特に切りだしにくくて、深夜の台所には沈黙が流れる。
……やっぱり、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない、と柊は思う。
一つ目入道みたく、味の好みを合わせられないのなら、マシな方だろう。これが人間相手で、食中毒問題にでも発展すれば、十二支屋の存続にも影響してしまうのだ。
確かに料理人は諦めたくないけど……それはそれとして、十二支屋にも気を遣わなきゃいけないのだ。
「あの……樹さん。相談があります」
「おう。俺でなんとかなる話なら、力になるぜ」
「私を、板前から降ろしてくれませんか?」
「……おい。今さっき、諦めたくないって言ったばかりだろ」
樹の声が、少しだけ感傷的になった。
「諦めませんよ。でも、十二支屋にも迷惑は掛けられないんです。だから、別の形でお宿に貢献させてください」
ぐっと手に力を込めながら、柊は主張した。
それを受ける樹の眉は、少しずつ、ひそめられていく。
「……この半端もんが!」
「だから、諦めませんって」
「そういう意味で半端って言ってんじゃねえよ。一つ目入道の方だ。まだあいつはウチの客だ。朝飯を出してやらなくちゃならねえ。なのに、それをやり遂げずに辞めるだと? 半端以外の何物でもないだろうが!」
「ひ、一つ目入道さんの方は……確かに、そうかもしれませんが……。でも、味覚のせいで、あの人にも喜んでもらえなかったんですよ?」
「グダグダ言い訳するんじゃねえよ! ああ、辞めてえなら構わねえさ。お前なんか明日の昼にはクビだ、クビ! その後は秘密厳守の為に、相応の処置があるから覚悟しとけよ」
「く、クビって……私、なにも働きたくないわけじゃ……」
「うるせぇ! それと、とりあえず朝飯は作りきれ。客に喜んでもらってナンボ、それが旅館業の宿命だ。一つ目入道の奴を満足させるんだぞ。支配人命令だ、いいな!」
そうまくし立てると、樹は机を蹴るような勢いで立ち上がり、床を踏み鳴らして出ていった。
突然の浴びせられた怒りに、完全に置いて行かれた柊だが、やや間があってから、彼女もまた、強く唇を噛んだ。
「……なによ、あの態度!」
確かに、一つ目入道への奉仕が半端なのは、自分が悪い。
でも、自分だって諦めたくない。十二支屋を思っての判断なのだ。もう少し、言い方というものがあっても良いんじゃないだろうか、と思う。「旅館業の宿命」なんて偉そうな事を言う割には、彼は何もしていないのも気に入らない。
何か言い返さなくては気が済まず、柊も立ち上がって台所から出ようとしたが……出入口付近に、古びた冊子が落ちているのに気が付いた。
「なんだろ、これ」
近づいてみると、紙面はかなり黒ずんでいて、所々に破れもあるのが分かる。表紙には「人外草子」の文字が筆で書かれていた。
手に取ったら崩れ落ちる気がするほどに古く見えるが、それでも拾い上げてページをめくれば、思いの外、しっかりとした造りで、破れるような事はない。中は図鑑のようで、これまた毛筆で、神やあやかしといった人外生命の名前と図、それから概要が書かれている。
「へぇー、こんなのがあるんだ。面白いなあ」
さっきまでの怒りはどこへやら。椅子に戻って目次を見る。一瞥した限りでは、百以上の名が記されているようだった。
「イザナギ、イザナミ……この辺は私でも聞いた事あるなあ。あやかしの方は……あれっ?」
目次に書かれた名に『一つ目入道』の文字を見つけた柊は、衝動的にそのページを開いた。鳥獣戯画のようにかわいらしい仕草をした一つ目入道が描かれていて、彼もまたしっかりと概要が書きこまれている。
その名のとおり、目が一つしかない僧侶の衣服を纏ったあやかしで、同一の姿をしたあやかしは多数いるらしい。中でも有名なのが、広島は三次の大あやかし、山本五郎左衛門とやらの部下と書かれている。彼の活動は稲生物怪録なる書物にもまとめられているそうだ。
他にも、一つ目入道の情報は詳しく書かれていたのだが、彼女の気を惹いたのは、文末に記された彼の正体だった。
「あれ。ちょっと待ってよ。一つ目入道さんの正体が、コレって事は……!」
柊の中で、一気におもてなしのロジックが出来あがっていく。
……もしかすると、一つ目入道の好物が分かるかもしれない。
そう思うや否や、柊は弾き出されたように台所を出て、隣の事務室へと駆け込んだのであった。
◇
柊は、朝の音が好きだ。
自身が振るう包丁が、トントントンと小気味良くまな板を叩く音。
炊飯器が、ぷつぷつと湯気を立てて米を炊く音。
窓の外からは、チュンチュンとスズメが元気に鳴く声がする。
まるで、朝のオーケストラだ。
そんなさわやかな音に包まれて朝食を作っていると、今日も一日頑張ろうという気になる。特に今日は強くそう思えた。
昨晩とは打って変わって、悩みの種だった一つ目入道の好物が判明したのだから、気持ちが入るのも当然である。
「おはようございます、柊さん」
その和音に挨拶という音も加わる。彩巳が台所に入ってきたのだ。
「あ、おはようございます! 今朝はいい天気で気持ちがいいですね」
「ええ」
「夜勤明けでお疲れじゃないですか?」
「特には」
どうにも、やりづらい。
それでも、昨晩は彼女に助けられたのだし、悪気あっての反応じゃないのは分かる。柊は包丁を止めて彼女に向き直った。
「そ、そーいえば、本当に樹さんや眷属さん達はご飯いらないんですか?」
「食べなくても死なない存在ですので」
「……でも、食べる楽しみがないって、凄く辛いと思いますよ。良かったら私、毎日三食作りますけれど」
「私ではなく、樹様にご提案を」
「た、確かにそうですよね。あはは……」
乾いた笑みを浮かべる柊をよそに、彩巳は台所を一瞥すると、既に皿に盛った刺身に目を付けた。
「……これは?」
「サワラの刺身です。一つ目入道さんの好物ですから、きっと喜んでもらえますよ!」
「それほど美味なのですか」
「太鼓判押しちゃうくらいには! ただ、見た目は地味な朝食になりますけれどね」
「そうですか。……昨晩、本を借りに来た時は何事かと思いましたが、一つ目入道の正体を踏まえると、これが最適の料理というわけですね」
「はい。改めて、昨晩はありがとうございました」
「それよりも、人外草子はどうされましたか?」
「落とし物として八犬さんに渡しましたが……」
「であれば、構いません」
「あれ、なんで台所なんかに落ちていたんでしょうかね?」
「……さあ」
そっけない返事ではあったが、それでも柊は彩巳に感謝している。
彼女に離れの書庫を教えてもらい、元々は子供客用に収めていた『動物図鑑』を確認しなければ、一つ目入道の正体、更にはそれに付随する彼の好物は分からなかったのだ。
ただ、一つだけ懸念がある。
人外草子には、一つ目入道が気難しいと書かれていたし、実際に接してみて、柊も同じ感想を抱いている。変にヘソを曲げられたら、朝食を受け付けてくれないかもしれない。
そこで、協力者が必要になる。
「……ところで、もう一つ手伝って欲しい事があるんですが」
「配膳でしたら、他の者の仕事ですが」
「じゃないんです。実は、ですね……」
彩巳に一歩近づき、内緒話でもするかのように事情を説明する。
話を聞くうちに、彩巳は少々怪訝そうな表情になったが、それでも話の腰を折る事はなかった。
「……どうです? できそうですか?」
「変化は得意分野ですので」
「良かったー! じゃあ、お願いします。助かりますー!」
「仕事ですので」
彩巳は相変わらずの歯切れが良い口調で、会話を終わらせた。
協力してもらえるのは嬉しいけれど、ビジネスライクに過ぎるのはちょっと寂しい。そう思っていたところで、彩巳の視線がまた切り替わったのに気が付いた柊は、別の話を切りだす事にした。
「……ところで、他にもお願いがあったりするんですが」
「まだなにか?」
「朝食を味見してくれる方を探しているんですが……彩巳さん、いかがですか? 私の味付けはともかく、食材は良いですから、多分美味しいはずですよ」
「……仕事ならば」
柊は、思わず口の中で笑ってしまった。
これが、彼女との適切な交流かもしれない。