その6 踊る風雲
管弦祭の朝が来た。
本格的な行事は午後から始まるにもかかわらず、普段にも増して早朝から訪れる客が多い日となるらしい。すなわち、集客の好機なのである。柊を中心に結成された呼び込み隊の数名は、看板を手に港へと向かっていた。
道中、すれ違う観光客達の声は、普段よりも一段と活気があるような気がする。通りでは、もう屋台の準備を始めている者も目立ち、目にも耳にも祭りの気配が感じられる。それを横目で眺めていると、隣を行く八犬が声を掛けてきた。
「柊さんは、管弦祭に参加するのは初めてでしたよね?」
「はい。まだ始まってもいないのに、いつもより町が賑やかな気がしますね」
「昔は、今以上に活気があったのですよ。芝居小屋や芸人小屋がありましたから、呼び込みや鳴り物がそこら中に響いていました。海上では、色鮮やかな幟や旗で飾った船が賑やかに並んでいましたね。屋台も、今でこそ食べ物屋が中心ですが、以前は店の種類も豊富でしたよ」
「おお、さすがお祭りですね」
「稼ぎ時ですからね。陶器屋、端布屋、玩具屋、変わった所では真田紐なんかを売るお店もありました。食べ物にしたって寿司やら焼酎やらと様々でした。中でも面白いのは、道路沿いの家が戸板を外して屋内を晒し、簡易宿泊所を開いたりもしていましたね」
「あー、同業者!」
「ふふっ、そうなりますね。蓆を敷いただけの質素な宿泊所でしたが、祭りの帰りに野宿するよりは良いと、利用する者は多かった記憶があります」
「という事は、十二支屋への呼び込みも、うまくいくかもしれませんね」
「どうでしょうか。船の時間も客の考え方も、今は違いますから、昔同様に呼び込むのは難しいかもしれませんね……」
残念な事に、八犬の不安は的中した。
港付近に着くと観光客の数は更に増した。一行は大いに期待しながら、その客を迎えるべく呼び込みを開始したのだが、誰も部屋を借りてくれないのである。柊も『アナゴ飯、あります』と書かれた看板を掲げながら声を上げた。暑い中和服を着た甲斐あって、宣伝は目を引くようなのだが、一瞥されるだけなのだ。
次第に太陽は高くなり、ギラつくような陽射しが襲いかかってくる。ここで倒れては元も子もないので、やむなく柊は待機していた眷属と交代し、一緒に呼び込みをしていた八犬と、近くにあるホテルの喫茶店へと退避した。ホテル内のパン屋で買ったものを持ち込める店で、焼き立てパンはどれも綺麗に焦げ目がついていて、美味しそうに見える。だが、柊は喫茶メニューでカフェオレだけを頼み、八犬もそれに倣った。
「ふぅー、生き返るぅ……」
冷房の効いた店内で腰をおろしているだけでも、気分は天国である。そこへ喉を潤したものだから、柊は締まりのない笑顔を浮かべて、椅子にもたれかかるように脱力してしまった。
「もう完全に夏ですからね。和服の汗抜きを考えると、少し憂鬱な季節です」
対面に姿勢よく座る八犬は、そう言いながら持参のハンカチで汗を抑えた。
言われてみれば、自分も汗をかいているのに気が付く。同じく袖からハンカチを取り出して顔の汗は拭ったが、服の中はそうもいかない。
「……汗抜きって高いんでしたっけ」
「普通の洗濯とは、ケタ違いのお値段ですね」
「むぅー……。彩巳さんからは、なるべく汗をかかないように言われていましたけれど、これじゃあ怒られちゃいますね……」
「集客がうまくいけば、簡単に取り返せるのですが」
「そこが問題ですよね。予約してくれるお客さん、全然いなかったなあ……」
「みんな、まずは参拝する事で頭がいっぱいなのかもしれません。祭りの終盤に呼び込みをすれば、また結果は違うかもしれませんが……」
「でも、祭りのあとなら確実、って保証があるわけでもないですし、まずは今頑張らないと、ですよね」
「ええ。一休みしたら戻りましょう」
「りょーかいです!」
威勢良く返事をして、カフェオレの残りを飲み干してしまう。
残った氷を見つめながら、それにしても惜しいものだ、と柊は思った。
近くにあったパン屋の商品は塩味が効いるらしく、最近評判がうなぎ上りの店なのだ。カフェオレとセットにすれば、この上なく優雅なブランチになったはずである。
だが、八犬はともかく、今の自分にとっては不要なものなのだ。
「……柊さん、良かったのですか?」
八犬が、ぽつりと問いかけた。
反射的に彼の顔を見れば、心配そうに自分を見つめていた。
「え? 急にどーしました?」
「カフェオレを見つめて、また味覚の事を考えていたのでは……」
「あー、それは……。仕方ないですよ、代わりに他のお願いしちゃいましたし」
「そう、あれは驚きましたよ。宿泊した宗像三女神に、事前の取り決めどおり、柊さんの味覚を治してもらうのだと思っていたら、他の願いを口にするのですから」
「いいじゃないですか。樹さんの事なんですから。八犬さんのご主人でしょう? 喜ぶべき事ですよ!」
「もちろん、それは好ましいですよ。……ですが、柊さんも大切な存在なのです」
「うえっ? あ、あはは、ありがとーございます……」
相変わらずの不意打ちに、顔を赤らめながらこめかみを掻く。
だが、照れるあまり、彼の気遣いを流してしまうわけにもいかない。柊は居住まいを正して素早く首を横に振った。
「で、でも、大丈夫です。私は私で味覚を治せば良いだけですから!」
「しかしながら、トラウマを乗り越えても治らなかったのですよね……?」
「確かに、今となっては味覚障害の原因不明なんですよね……。でも、いつかきっと、治ります。前向きに取り組んでいれば、必ず」
「……強くなりましたね、柊さん」
「へへ、どうもー」
軽く返事をしたところで、喫茶店の自動ドアが開いた気配がする。ちら、と視線を送ると、入ってきたのは土産物屋の毛利だった。偶然だろうか、とも思ったが、彼はウェイターに何か一言断ると、自分達の席へと向かってきた。
「よう。まだ休憩中なのか?」
席には着かず、相変わらずのぶっきらぼうな口調で声を掛けてくる。
柊は八犬と顔を見合わせ、小さく首を傾げはしたが、彼に向って頷いてみせた。
「もうちょっと休んだら出ようかと思ってましたけど……どーして毛利さんがここに?」
「……手伝い」
「なんの、ですか?」
「分かるだろ! 呼び込みの手伝いだよ! ……十二支屋さんは今日が正念場だって、樹さんと親父が雑談してるのを聞いてな。で、俺が手伝いに来たんだよ」
「わあ、意外な増援」
「……俺、やっぱ帰ろうかな」
「ふふっ、冗談ですよ、じょーだん! ありがとうございます。すっごく嬉しいです!」
柊は満面の笑みを浮かべてそう言った。想定外の心尽くしというものが、こうもありがたいものだとは思わなかった。
「……ま、いいよ。手伝うさ。とは言っても、別に俺は必要ないかもしれないけどな。呼び込み、凄い事になってるぜ」
「凄いって……もしかして、お客さんが取れたんですか?」
「ああ。しかも、その客まで呼び込みの手伝いをしてるんだよ。どーなってるんだ、あれは」
「何それ……」
「俺が聞きたいよ」
まったく理解できない状況で、直接確認する他ない。
手早く会計を済ませて三人で外に出ると、確かに呼び込み隊の人数が八人も増えているのが遠目でも分かった。甲高く威勢の良い呼び込みの声も聞こえてくる。あの声は、確か……、
「や、山代さんっ!」
目をパチクリさせながら近くまで駆け寄れば、やはり声の主は山代三郎だった。
更には、山代に隠れるようにしながらではあるが、七人の男女が看板を掲げて、呼び込みを手伝っている。こちらは全員見覚えのない顔だった。自分と同年代だろうか。
「やーやー、柊さん。ご無沙汰しております」
「ご、ご無沙汰ってほどでもないですけど、それより、何やってるんですか?」
「もちろん呼び込みですぞ。柊さんは休憩中と聞いておりましたが、まだまだ休んで頂いて結構。ここは私、山代三郎と山代ゼミの精鋭七名にお任せを!」
「ええっ……?」
ぐっ、と親指を突き立ててからのナイススマイルを浴びせられたが、そうなる理由が未だに分からない。疑問の表情で面々を一瞥すると、それを察してくれたのか、山代の後ろにいた男性の一人が、おずおずと前に出た。
「あの……山代先生が言ったとおり、俺達、先生のゼミの生徒なんです。今日はゼミ旅行を兼ねて、管弦祭の研究で宮島に来たんですよ。夜は十二支屋さんに泊まる予定なんです」
そんな予約はなかったはずだが、よく考えれば、予約なしでも泊まれてしまうのが十二支屋である。
「そ、それはどうも……。山代先生は民族学科、でしたっけ。管弦祭の研究なんかもやるんだ。……でも、十二支屋の呼び込みとは関係ないですよね」
「そうなんですが、十二支屋さんが呼び込みしているのを見つけた山代先生が『みんなで手伝うぞ』って言いだしちゃって」
「わ、悪いですよ、そんなの!」
「大丈夫です。どーせ管弦祭が始まるまでは暇ですし。それに、十二支屋の料理が楽しみなんで、その前にお腹を空かせておきたいんですよ」
「十二支屋の……私の料理が、楽しみ……?」
「なんでも、そこで食べた料理がきっかけで、先生、お母さんと仲直りできたそうですよ。どんな料理なのか、今からワクワクしています」
彼の言葉が皮切りになり、他のゼミ生も同調や意気込みを次々と口にする。
それでも柊が唖然としていると、横に立つ八犬が、ぽん、と肩に手を置いてきた。
「柊さん、今回は皆様の好意に甘えてしまいましょう」
「八犬さんまでそんな事を……」
「それよりも、柊さんは一度、十二支屋に戻った方が良いかもしれませんね」
「みんなへの報告、という事でしょうか」
「それもあります。ですが、この協力には、謝意を形で示したいではありませんか。……アナゴ飯に加えて、宴席を設けるというのはいかがでしょうか。管弦祭の夜には相応しいかと思います。その為には相応の準備が必要ですよ」
八犬はそう言って微笑み、自分も看板を掲げて呼び込みを再開した。
すると、それに負けじと山代とゼミの面々も声量をあげ、毛利も面倒くさそうに頭をかきつつ、余っている看板を掲げた。
この行為に、言葉で労うなんて無理だ。八犬の提案どおり形で示すのが最適かもしれない。自分は料理人なのだから、口よりも包丁で語る方が、なおさら性に合っている。
「……皆さん、ありがとうございますっ!! 夜は期待して貰って結構ですからっ!」
声高らかにそう告げ、みんなに深く礼をする。
さあ、これから忙しくなる。宴席となると今ある材料だけでは到底足りない。人手だって猿田だけでは不足するから、眷属達や浅野……そして、また樹にも手伝ってもらわないと。
柊は頭を上げ、十二支屋へと駆けた。十歩も走らないうちに、背中越しに「アナゴ飯あるんですか!」という声が聞こえてきたのは、多分、気のせいではないだろう。
◇
この日の夜空には、見事な淡月が浮かんだ。
幾つもの薄い雲が、煌煌と輝く月を覆っては流れてゆく。月明かりの舞台で風雲が踊り、星が咲き乱れているようで、宴の夜には相応しい光景である。
もっとも、台所と新明座を何度も往復している柊にとっては、その夜景も、今現在も行われている管弦祭も眺める余裕はない。この日の十二支屋は、午前の呼び込みだけで満室になったのである。
八つある客室のうち二部屋は、山代達が男女で別れて使用する。残りの六部屋は他の客、計十五人が入る事になったのだが『夕食の後、新明座で客・従業員・未宿泊者、自由参加の宴を開きます』と提案すると、その殆どが参加を希望した。従業員も、台所に回されなかった者は多くが参加し、宗像三女神や毛利も加わったので、新明座には四十名近い人数が入る事になった。
「こんな大宴が開かれたのは、十二支屋開店以来だぜ。あーあ、とんでもない時に包丁握らされたもんだなあ……」
新明座に向かう猿田が、そう言って大きく溜息を付く。
隣を歩く柊の手にも、猿田の手にも、料理が載った盆が握られていた。
「まあまあ、そう言わないで。猿田さんがいなかったら、今日のお料理は絶対作りきれませんでしたよ」
「どーだかねえ。浅野さんらにも手伝ってもらったお陰だと思うがねえ」
「ううん、猿田さんが一番。今日だけじゃなく、いつも台所で支えてくれて、感謝しているんだから。ありがとうございます」
「お、おっ? ……そーかな。はは、はっ! はははのはっ!」
実に扱いやすいものであるが、柊の言葉にも偽りはない。
調子に乗って足早になった猿田に先導され、彼に続いて新明座に入る。
もう、宴が始まって二時間は経っているだろうか。みんな騒ぎ疲れる事もなく、中は景気の良い話し声に包まれていた。多くの者が初対面のはずなのに、まるで親友のように語り合い、あちこちから笑い声が飛び出しているのだ。
人々の間には、その隙間を繋ぐかのように、食べかけの料理やカラになった皿、飲み物が置かれている。持ってきた料理とカラの皿を差し替えながら、柊は小さな手応えを感じていた。
「柊ちゃん、このごはん、おいしいのう!」
「こんなにお料理上手なんて思わなかったわ。今度は三人揃って普通に泊まりに来ようかしら」
「それは良いわねえ」
「病みあがりの私には良い養生になります」
「……今度は、がめ煮以外の味見を頼みに来てもいいからな」
みんな、柊の顔を見るやいなや、嬉しい感想を飛ばしてくる。
そしてそれは、一番奥の席に座っている山代も同様だった。
「やあやあ、柊さん! こいつぁ美味ですなあ!」
彼の前の小皿には、豚の照り焼きが載っていた。大きめに捌いた豚バラを野菜と一緒に煮たあとで、串焼き台に移して火に掛け、タレを塗っては回し、脂が滴るまで熱した一品である。
「ありがとーございます。自信作なんですよ、それ。お酒が進むでしょう?」
「まったく、まったく」
山代はそう言ってお猪口を煽る。気が付けば、彼の顔は大分赤らんでいた。
「いやあ、最高の宴です。今日、十二支屋に来て良かった……」
「えへへ、どうも。でも、元々は研究できているんですよね。飲み過ぎはダメですよ」
「あ、そいつは大体終わりましてな」
「あれっ、そうなんですか」
「管弦祭は午後三時頃から、日付を跨ぐ頃まで開かれる長時間のお祭りでしてな。開始直後は厳島神社付近で、祝詞を奏上したり、管弦を演奏したり、神輿を管弦船に載せたりするので、そこをしかと見てきました。もっとも、演奏は祭りの最初から最後まで、何度もありますがな」
「神輿って、ワッショイワッショイする、あれですか?」
「そのとおり。御鳳輦と呼ばれる鳳凰の飾りが付いた神輿です。御用船と呼ばれる三艘が、神輿が載っている管弦船を曳くのです。……もしかして、釈迦に説法でしたかな?」
「いえいえ。大体は知っていますけれど、神輿みたいな細かい事までは知りませんでした。実は見た事ないんですよね……」
「そうですか。ならば、お仕事が落ち着いたら、その目で見に行くと良いですぞ!」
山代がグッとガッツポーズしながら言う。
柊としても、時間に余裕があればそうするつもりであったので、素直に頷いたが、時刻はもうすぐ午後十一時である。間に合うだろうか。
「厳島神社に行けばいいんですよね」
「どーでしょうか。管弦船は、宮島にあるいくつかの神社を回りながら、数十の雅楽を演奏する祭りです。最後には厳島神社に帰ってきますが、はて、あれは何時頃だったか……」
山代は顎に手を当てながら考え込んだが、彼の大きな頭はゆらゆらと左右に揺れている。あまり考えさせるのも負担だろう。
「どうもです。そこは自分で調べてみますね」
「お。管弦祭に行くのかい?」
そこへ、猿田が声を掛けてきた。
「あ。はい。お料理を全部出したら行ってきます」
「いいよ。今から行っちゃいなよ」
猿田はそう言うと、にっ、と歯を見せて笑った。
「いやいや、まだお仕事ありますし!」
「大丈夫! あとはデザートくらいだしさ。それくらいは、一番頼れる猿田さんに任せておきなって! 台所じゃ、浅野さんや他の奴も台所を手伝ってくれてるしな」
「うーん、でもなあ……」
「いや、むしろ行ってほしいんだよ。管弦祭は厳島神社の祭神を慰める神事でもある。十二支屋にとっても大事なお祭りなんだよ」
そう言われれば、断る理由はない。だが、樹には報告しておくべきだろう。
猿田に深々と頭を下げた後で新明座の中を見回す。樹も、飲めや騒げやと大いに宴席を楽しんでいたはずだが、今は姿が見当たらなかった。中座して自室なりにいるのかもしれないが、長々と探すよりは、ササッと祭りを見てきた方が良いだろう、と柊は考えた。
「……それじゃあ、あと、お願いします」
「おーう。朝食の仕込みまでには戻ってくれよ?」