その4 鬼哭の琵琶
新明座の玄関は開きっぱなしになっていた。繊細な音色が中庭にまで聞こえてきたのは、そのせいだろう。
音は客席の方から流れている。近づいてみると、はっきりと曲調が聞き取れた。音楽の知識がない柊には、これが何かの曲なのか見当が付かないが、どこか憐れみの籠った寂しい音色のような気がした。
何故だろうか、奏者の正体が分からないのに、怖いとは感じない。吸い込まれるように客席の扉を開けると、客室の電気は消えていたが、奏者は見えた。
「餓鬼、さん……」
開かれた窓から差し込む月光が、舞台に腰掛けて琵琶を鳴らす餓鬼を映していたのだ。
鬼が琵琶を弾くなんて、思いもしなかった。もっと暴力的な存在だと思っていた。だが、流れている音色は、暴力とは対照的に儚く聞こえる。澄み渡った空気が震え、更には柊の心も揺れ動いた。
これは、声だ。
聞こえてくるのは弦の音色だけだが、哀しみを訴える鬼哭の声が混じっている。餓鬼は、単なる飢えではなく、もっと深い哀しみに苦しんでいる。そんな気がしてならない。
「何か、哀しんでいるんですね……」
静かに問うが、鬼は反応を見せず、何かに取り憑かれたかのように琵琶を鳴らし続けた。
餓鬼を助けなくてはいけない。そう強く思いはするが、あやかしにも詳しくない柊には、この状態が示す意味が分からない。いつかのように、樹が答えを教えてくれる事も……、
「……ううん。違う。あの時だって、樹さんが答えを教えてくれたじゃない!」
そうだ、自分にはまだ手がかりが残っている。
柊は踵を返して新明座を出ると、離れへと向かった。十二支屋で初めて料理を作った日の晩、樹がわざと落としてくれた人外草子になら、餓鬼が琵琶を弾く答えが載っているかもしれないのだ。
もちろん、今は餓鬼の琵琶の謎を解いている場合じゃないのは分かっている。そのうえで、餓鬼が気になってしまうのだ。あの音色は、哀しみとともに、何かを訴えたがっているような気がするのだ。鬼に魅入られたとは、こういう状態を指すのかもしれない。
離れに入り、一直線に樹の部屋へと向かう。幸いにも鍵はかかっていなかった。躊躇なく中へ入って、本棚に向かい合う。
「樹さん、失礼しますっ!」
収納されている本にはほとんど背表紙がないので、片っ端から取り出しては表紙を確認すると、目当ての人外草子はすぐに見つかった。目次に『餓鬼』の項目があるのを確認して、さっそくそのページを開く。文面は餓鬼の概要から始まっていたが、琵琶の語り引きに関する記述は、どこにも見つからなかった。
「どうして……あんなに哀しそうに琵琶を弾いていたのに……」
もう一度、更にもう一度。
何度も本文を読み返すが、ないものはない。何か見当違いをしていたのだろうか。仕方なく、力ない手つきで冊子を本棚へと戻そうとしたが、脱力すぎていたようで床に落としてしまう。慌てて拾おうとして……偶然、開かれたページに目が釘付けになった。
「イチキシマ……ヒメ……?」
ページの見出しに書かれたその名前を、忘れるはずがない。
散々に探し回った、宗像三女神の一人なのだ。
「そっか。人外草子だから、神様の事も書いてあるんだ」
そう呟きながら拾い上げ、イチキシマヒメのページを読んでみる。
書かれているのは、アマテラスとスサノオの誓約で生まれたという事。
三女神の一人だという事。
どちらも、知っている。
他には。
瀬戸内には彼女の伝説が数多くあるらしい。
子供好きな神様で、子供に関する逸話が多いそうだ。
あとは。
神仏習合?
これは、他の女神達に挨拶した時に聞いた気がする。
あの時は、他にどんな話をしただろうか。
いや。
……もしかすると、イチキシマヒメは。
目を見開き、息を止めた。
樹と、イチキシマヒメと、餓鬼と、琵琶の音と。
柊の中で、全部が繋がった。
餓鬼を救えば、樹は助かるかもしれない。
小さく何度か頷き、冊子を本棚に収めれば、一冊分の隙間が綺麗に埋まる。
まるで、今の自分の気持ちを見ているようだ。
「助けられるかもしれない……!」
そう叫びながら部屋を出る。
到達した答えは、あくまでも推測でしかない。何も証拠はないから、空振りに終わる可能性も十分にあるだろう。だが、もうこの手で行くしかない。
「餓鬼さんの心を救えば、樹さんを助ける手掛かりに辿り着けるかもしれない……!!」
その為には、どうすれば良いのか。
答えは、台所にしかない。
◇
台所に戻った柊は、冷蔵庫から予備のアナゴを取り出しつつ、ちら、と横目で炊飯器を見た。大丈夫、保温ランプは点いている。アナゴを調理すれば、すぐにアナゴ飯を用意できる。
今回は割烹着を着ず、アナゴをまな板へと置く。心を研ぎ澄ませるような暇はない。すぐに湯を沸かして汚れを落とし、包丁をアナゴへと宛がった。
「待ってて、樹さん、みんな……!」
強く目を瞑り、その勢いのままに柄を握りしめ、首を切り落とそうとする。
すると、映画館で見る映画の如く、またあの日の光景がまた蘇った。
『あ、もしもし、お母さん? どうしたん、アナゴ飯の作り方教えてくれる時間……』
「違うっ!!」
柊の目が、開く。
台所中に響く声とともに、刃はアナゴを断った。
「違うっ! いない! お母さんは、もういないの!」
なおも声を張りあげながら、切っ先をアナゴの背に充てる。するとまた、忌まわしい記憶が蘇り、開けた目から流れる涙が頬を伝った。それでも、夕方のように拭いはしない。
「分かった。あの記憶はただのフラッシュバックじゃない……。私、あの瞬間から先に進みたくないんだ……。留まっていれば、いつかお母さんが料理を教えてくれると思っているんだ……!」
ぐ、と刃を食い込ませて腹を裂く。
「なにも乗り越えてないじゃない。いつまで料理を教えてもらうつもりなの、私は……! お母さんがいなくても、アナゴ飯を作って、餓鬼さんを助けなきゃいけないのに……!」
また、悪夢が脳裏を過る。
頭の中が、あの忌まわしい記憶でいっぱいになる。
分かっていても、逃れられないのだろうか。
「っ……!」
だが。
不意に、新しい記憶が悪夢を上書きした。
初めて、この台所に来た時。
手が痺れているくせに、樹が手を添えてくれたのだ。
あの時みたいに、包丁を握る手を支えてもらっているような気がする。
その幻想で、今は十分だ……!
「そうでしょう、樹さんっ!」
もう一度叫びながら、一気に背を開いてしまう。更には尾ひれも捌いたが、もう悪夢はやってこない。ならばあとは、母に憧れて何度も踏んだ手順を辿るだけだ。
水と調理酒、砂糖にみりんに醤油を煮つつ、あくを取る。砂糖とみりんは心持ち少なめに。甘さを控えめにしたサッパリとしたタレにするのがコツだ。アナゴの脂身で、旨味は十分だ。
だが、不安も残る。
昔、自己流で練習した時は、良さげな味に整っていたが、今回はどうだろうか。タレをおたまですくい、口に付けてみて……柊は小さく首を傾げた。トラウマは克服したはずなのに、未だに味覚は戻っていないのである。
それでも、状態を憂いているような暇はない。
タレ作りと並行して、捌いたアナゴに金串を刺して白焼きにする。焦げ目が付いたら、完成したタレを何度も塗りながら焼き、照りがでたところでまな板に移し、一口サイズに切っていく。最後に、底の深い丼にご飯とアナゴを載せれば……完成である。
「……できちゃった……アナゴ飯……」
ほぅ、と息を吐いて、アナゴ飯を見つめる。
これは、良い出来といって差し支えないだろう。光沢を放つタレの中で黒く濃ゆく主張する焦げ目が、アナゴの旨味を物語っている。ほのかに見える蒸気は、できたての温かさを示していた。先程から鼻腔を支配する香ばしさもたまらない。味覚はなくとも、味が頭の中にありありと浮かびあがった。
だが、悠長にもしていられない。料理を盆に乗せて足早に新明座へと向かうが、中庭に出ても、新明座の受付まで来ても、もう琵琶の音色は聞こえてこなかった。もしやどこかに行ったのだろうか。そんな不安に襲われながらも客席の扉を開けると……餓鬼は、そこにいた。月明かりから離れ、客席の隅で膝を抱えて座っている彼の輪郭が、辛うじて見えた。
「が、餓鬼さん……!」
いつの間にか荒くなっていた息を整えながら、餓鬼の方へと向かう。
餓鬼も反応を示し、首をこちらへ向けたようだった。
「それは、アナゴ飯……?」
「はい。先程は断りもなく、買ってきたものをお出しして、大変失礼しました……。今度は正真正銘、私が作ったアナゴ飯です」
「アナゴ、アナゴ飯……」
うごめくような声を出しながら、餓鬼が這い寄ってくる。
だが、柊の方から彼の傍に寄り、盆を卓上に置いた。
「どうぞ、お召し上がりください」
「ああ、ああ……」
餓鬼はゆっくりと目を見開き、ひったくるような手つきで箸を手に取ると、零れんばかりのアナゴ飯を載せて口へと運んでいった。
更に二口、三口。やがてじれったくなったのか、丼の底を鷲掴みにして掲げ、一気に掻き込んでいく。三白眼を輝かせながら、餓鬼はアナゴ飯を完食してしまった。
「お味、いかがでしょうか?」
「旨かったよ……」
餓鬼は、米粒一つ残っていない丼を見つめながら、かすれるような声で返事をした。近くで見ると、その口元は微かに震えているようにも見える。
「脂の乗ったアナゴの味が、口の中に広がる……食感もいい……この銀シャリも、ずっと食べたかった……」
「戦時中も、戦後も、滅多に食べられなかったんですね」
「うん……。銀シャリどころか、麦飯もろくに食べられず、とうもろこしばかりだった……死ぬ前は、それさえも食べられなかった……」
「餓鬼さん……」
「でも、それだけじゃない。金や食材があったとしても、これは食べられなかった。この味は……ああ、この味は……」
餓鬼が、腰を上げる。
なおも丼を見つめたままで、餓鬼はぽつりと呟いた。
「……お母ちゃん」
――光が生まれたのは、その時だった。
まるで提灯のように、餓鬼の腹が輝いた。いや、本当に腹なのかはハッキリとしない。光が強烈すぎて、目を開けていられなかったのだ。
「が、餓鬼さんっ?」
眩しさのあまり、顔を背けながらも、その名を呼ぶ。それに呼応したわけではないだろうが、光はすぐに弱まり始めた。薄目だけを辛うじて餓鬼の方へ向ければ、光に包まれている彼が、手を振ったように見えた。
「ありがとう……ごちそうさま……」
小さな、しかしハッキリとした言葉が聞こえてくる。
同時に、光が完全に収束し、ようやく柊が前を直視した時には……餓鬼の姿は、もうそこにはなかった。代わりに、巫女服を纏った黒髪長髪の若い女性が佇んでいたのである。
だというのに、柊はさほど動揺していない。
この状態は、多少は想定していたからである。
想像していた外見とは違うが、柊の推測が正しければ、この人物は……、
「……ありがとう、柊さん。餓鬼の中から、ずっと見ていました」
淑やかな声で女性が言う。
「あなたは、もしかして……」
「ええ、私がイチキ。イチキシマヒメ。宗像三女神の一人です」