その2 蘇る記憶
和服の上に纏っている割烹着の紐を、キツく締める。
同時に口元を強く引き締め、冷蔵庫を開けてアナゴを取り出す。今日ばかりは冷蔵庫の中に見とれるような事もなく、すぐにまな板の前へと移動した。
……アナゴ飯は、そう難しい料理ではない。
まずは表面の汚れを落とし、背開きにして骨や頭や尾ひれを取り除く。そこがちょっと面倒なだけで、あとは白焼きにし、しょうゆを基本にしたタレで焼くだけ。それをホカホカのご飯に載せれば、最低限の形は整う。
「そう。難しくない。全然難しくない……」
零れた言葉は、分析というよりも願望や暗示の類だろう。
まな板の上へとアナゴを置き、慎重な手つきでお湯を掛けて汚れを落とす。
ここまでは、なんとかなる。問題はこの後なのだ。
包丁を手にして息を止め、アナゴの頭部にゆっくりと宛がう。
あとは、ただ真っすぐに切り落とすだけ……、
『あ、もしもし、お母さん? どうしたん、アナゴ飯の作り方教えてくれる時間……』
『申し訳ございません、福間柊さんのご連絡先で宜しかったでしょうか』
『え? ええ? なんでお母さんの電話なのに、男の人が……?』
『失礼致しました。警察の者です。現在、病院から連絡しておりまして』
『け、警察……? 病院……? あの、話がよく分からないんですが』
『大変申し上げにくいのですが、福間さつきさんが交通事故に遭われました』
『う、嘘……? お、お母さん怪我したんですか?』
『詳しい状態の説明は、私の方からは控えさせて頂きます。……ただ、至急お越し頂いた方が……』
「うあ、っ……」
蘇ったのは、あの日の記憶だけではない。
もう枯れたと思っていた涙が頬を伝っているのに気が付いた柊は、包丁を離した手で、慌てて涙を拭った。
だが、拭っても拭っても涙は止まらない。やがて拭うのを止め、顔を覆って座り込んでしまう。誰かと一緒に作っていたら、みっともない姿を見せてしまうところだった。
何も、変わっていない。
おさん狐が来る前日に挑戦した時と同じだ。
こうなる事は想定内ではある。それを前向きな姿勢で乗り越えられると思ったから挑戦しているのだが、蘇った記憶はそう甘いものではなかった。
「う、うう……どうして……どうしてこうなのよ……!!」
行き場のない怒りを吐露しながら立ち上がり、もう一度包丁を握る。
きっと、今の自分も鬼のような表情をしている事だろう。
なぜ、母は事故死しなくてはいけなかったのか。
なぜ、母を喪わなくてはいけなかったのか。
なぜ、こんなにも苦しい思いをして料理をしているのだろうか。
辛い思いが次々と募るが、歯を食いしばって包丁を握り、今度はなんとかアナゴの頭を切り落とす。
そして次は、背に包丁を宛がい……、
「ふぐ……う、ううっ……」
再び、包丁を手放してしまう。
それと同時に、柊は確信してしまった。
――やっぱり、無理だ。
前向きに取り組む? よくそんな大口が叩けたものだ。いい気になっていた自分が恥ずかしくなる。そんな安っぽい気持ちで悪夢を乗り越えられれば、苦労はしない。
「でも……」
消えてしまいそうな声が、口の中に漏れた。
「夕食は作れませんでした」と諦めるわけにはいかない。餓鬼の希望に応えなきゃ、広島の料理人にはなれないのだ。十二支屋のみんなにだって、向ける顔がない。
「……あるんだよね。まだ、できる事……」
今度は、はっきりとした言葉が出てくる。
だが、包丁が三度握られる事はなかった。
◇
「飯の準備、できたのか」
そんな言葉とともに、樹が台所に顔を出したのは、間もなく午後七時になろうかという頃だった。
「あ、樹さん。お体、大丈夫なんですか?」
「どーって事ねえよ。それより、アナゴ飯、作れてるじゃないかよ。俺が味見してやろーか?」
樹は台所のテーブルに置いているアナゴ飯を見つけると、柊の返事も待たずに近づいて匂いを嗅いだ。
タレが焦げる香ばしい香りは、柊にも届いている。温かいご飯に絡めれば、アナゴとご飯のふわりとした食感を、濃厚な味で楽しんでもらえる事だろう。
「あー……味見はまだ、誰にもしてもらっていませんけれど、問題ありません!」
「ほう、随分と自信があるじゃねえか」
「それは、まあ」
「頼もしいな。……餓鬼は、これまで何度も来店しているのに、期待に応えてやれた事がないんだ」
樹がしみじみと語る。餓鬼が常連客であるという話は聞いているが、それにしても随分と思い入れがあるようだった。
「なんだか、大切なお客様っぽいですね……」
「当然、客はみんな大切だよ。……でも、餓鬼は特別だ」
樹はそう言って、一度柊の方を見る。言葉を挟まないのを確かめたようで、すぐに一人で頷いて続きを口にした。
「まず、餓死って死に方は本当に苦しい。飢餓という負の感情から生まれるあやかしは、餓鬼以外にもたくさんいるくらいだしな」
「一つ目入道さんも、そうでしたね」
「おう。……餓鬼の最期は、どんなだったか知ってるか?」
「本人から聞きましたよ。……想像すると、胸が苦しくなります」
「まあ、な。……だから、ずっと期待に応えてやりたかったんだ。今回はお前がいて良かったぜ、本当に良かった……」
「あ……」
呼吸のような声が漏れる。
何故だろうか。一瞬、樹の姿が母とダブって見えた。
客の心を救おうとしている点が、一致しているからだろうか。
もちろん、それもあるだろう。だが、彼もまた『母』だから、ダブってしまうのかもしれない、と柊は思う。
なにせ、彼は神様なのだ。
あやかし達を子供のように大事にしているから、この宿を立ち上げたのだ。
その考えに至ると同時に、用意した料理に不安を覚えてしまう。
約束の時間には遅れても、もう一度用意し直した方が……、
「お待たせしました、樹様、柊さん」
だが、そこで八犬が台所に入ってきた。
「お待たせ、ですか? 今回は味見は頼んでいませんけれど」
「いえ、樹様に呼ばれまして」
「さっき話したとーり、今回は大事な客だからな。羊子ら仲居に頼まず、お前自身が給仕しろ。俺や八犬も同伴するからさ」
「そ、それは、まあ……」
今日が当番仲居となっている羊子は、浅野の依頼で本土まで買い物に出かけていたので、もともと自分で運ぶつもりではあった。
だが、樹らも来るとなると、料理の評価を直接見られてしまう。
更に不安がつのりはするが、掛け時計を見上げればもう午後七時を過ぎている。窓の外も暗くなっていた。すぐにでも料理を出さなくちゃいけない。
「……じゃあ、一緒に行きますか」
柊は自信なさげに頷いて二人を受け入れ、一緒に宴会場へと向かった。
新明座の受付から、客席に繋がっている扉の前で、一声かけてから中へと入る。餓鬼は畳の上で大の字になっていたが、柊の姿を目にすると、のそりと体を起こした。
「お待たせしました。お食事です」
「食べる」
相変わらずガラガラ声の返事が、即座に返ってくる。
相当待ち望んでいたようだが、果たして満足してもらえるのだろうか。どうすればその結果に至るかの答えは結局分からず、自信は欠片もない。それでも奥歯をかみしめながら、そっと料理を差し出した。
「アナゴ飯でございます」
「………」
「あたたかく仕上がっていますので、宜しければすぐにお召し上がりください。必要であれば、おかわりも」
「いらない――」
餓鬼の口から、はっきりとした拒否の声が漏れた。苦手な野菜を拒む子供のような声だった。
「で、でも、ご注文はアナゴ飯では……?」
「確かに、頼んだよ」
「こちらは、そのアナゴ飯以外の何物でもありません。お気に召して頂けるかどうかは、まだ分かりませんが、その為にもまずは一口……」
「食べた」
「え……?」
「この飯は、もう食ったよ。前に来た時と同じ、アナゴ飯だ……」
その言葉に、頭部を鈍器で殴られたような衝撃を覚え、柊の上体が微かに揺らいだ。
料理を準備した柊には分かる。
餓鬼が言っているのは、比喩表現じゃない。
言葉どおりの意味の『もう食った』である。すなわち……、
「おい、柊。お前まさか……」
後ろから、樹の凍り付いたような声が聞こえてくる。
振り返らずとも表情は分かる。彼も、この料理の正体に気が付いたのだろう。
「ごめん、なさい……買ってきた、アナゴ飯です……」
捻り出した声は、微かに振えていた。
◇
新明座を出ても、樹はこちらを振り返ろうとはせず、声もかけてこない。ただ、石畳だけが強く踏み鳴らされていた。
後ろを歩いている八犬は、何を考えているのだろうか。こちらは考えが読み取れない。やはり樹の味方なんだろうか。
何にしても、自分が許されない事をしたのは分かっている。
沈黙したまま母屋に戻ると、樹は腕を前に振って、なおも着いてくるように合図を送ってきた。逆らわず後に続くと、樹は受付傍の長椅子にどっしりと腰を下ろし、柊を見上げてきた。
「……柊」
ぽつりと、名を呼ばれる。
反射的に背筋を伸ばし、柊は彼に正対した。
「一体、なんであんな事をした?」
「……ごめんなさい。アナゴ飯、やっぱり作れなかったんです」
「前向きになって克服する、とか景気がいい事言ってたよな。やっぱり無理だったってわけか」
「はい……」
「そこは責めてねえから気落ちするな。それよりも、どうして相談しなかった? 料理を待ってもらうなり、他の奴が作るなり、打つ手はあっただろ」
「それは、そうだったかもしれません……混乱していました……」
反論のしようがない。
素直に頷いて非を認めるも、樹の姿勢は変わらなかった。
「もう一度言うぞ。あいつは飢餓から生まれた、辛いやかしなんだ。なのに、その傷口に、更に塩を塗るような真似したんだぞ、お前は。俺が怒ってるのはそこなんだよ!」
樹の声は、いつの間にか怒声へと変わっていた。それでも、言う事に間違いはない。真摯に受け止めるしかなく、柊は項垂れて話を聞いた。
……だが。
だが、と思う。
今回の件を経て、柊の中には、再び大きな壁がそびえ立ってしまったのだ。
「反省してます。あとで、餓鬼さんに謝ってきます……」
「当たり前だ」
「樹さん、でも一つだけ教えてください。……私、これから、どうすればいいんでしょうか?」
「あん?」
予想外の返事だったのか、樹は口元を斜めにして、柊を見上げ続けた。
「私、広島の料理人に……人の心を救う料理人になりたい……前に、お話ししましたよね」
「おう」
「その為には、味覚とアナゴ飯、二つの障害がありましたけれど、十二支屋で働くうちに、乗り越えられるような気がしたんです。前向きに、できる事から挑戦しようって気持ちになれたんです」
樹は、何も言わずに柊を見上げ続けた。
なぜだろうか、彼の目が次第に見開かれ、視線が怖くなってくる。
それでも、吐露しなわけにはいかなかった。
「……でも、それが簡単な事じゃないって、今回の件で思い知らされました。私、もうなにがなんだか……」
「お前、一つだけ思い違いをしているぞ」
「思い違い……?」
「今は、お前の目標よりも餓鬼の事だろ! 俺はてっきり、餓鬼を救う方法を聞かれるもんだと思っていたぜ。それが、なんで自分の事を相談してくるんだよ」
「そ、それは……広島の料理人になるには、味覚やアナゴ飯を克服しなきゃいけないから、同じ事だと……」
「違うな。お前は今までだって、みんなの協力という条件付きだが、客の心を救ってきたはずだ。今回だって同じようにできるだろうが。お前は今、客を見てないんだ……」
樹はそう言いながら、長椅子に深く座り直した。
隣接する壁に背中を預け、世間話でもするかのように、気の抜けた口調である。
だが、そこには静かな怒りがある。
姿勢や口調には力が篭っていなくとも、樹の目には怒りが篭っていた。
「が、餓鬼さんの事、忘れていたわけじゃ……」
言い訳が零れかけるが、声は途中で消えてしまう。
この指摘は、図星かもしれない。
言われてみれば、アナゴ飯に取り掛かる前の自分は、客よりも『広島の料理人』の事ばかり考えていたかもしれない。
「……ああ、面倒くせえな、お前。そんなにだらしないとは思わなかったぜ」
「だ、だらしない?」
「もう、お前なんかいらねえよ。そもそも広島の料理人だって本気かどうか怪しいもんだ。自分を削る覚悟もねえじゃんかよ。今度こそ、正真正銘クビだ。出てけ。……八犬、こいつどこかに追い払え」
「突然、何を言い出すんですか……!?」
「うるせえ」
「話を聞いてください、樹さん!」
「うるせえっ!」
広島の料理人という目標を否定されたうえ、ハエでも追い払うように手まで振られては、自分に非があってもカチンとくる。
柊は反論を口にしようとしたが、間に八犬が割って入り、なだめるように肩を抑えてきた。
「八犬さん、離してください! まだ話は……」
「一度、落ち着きましょう。ちゃんと私が聞きますので……」
八犬の声は、苦悩に満ちているようで、気勢が削がれてしまう。
そのまま引きはがされ、柊は幾度か振り返りながらも、受付を後にした。