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その1 決意の朝

 厳島神社が、上も下も活気に満ちている。

 回廊を歩く観光客の足元で、潮の引いた干潟を掘っている五、六十人を、柊は神社の敷地外から興味深く眺めていた。


 暦は七月十三日、陽射しはもう完全に夏模様で、早朝といえどもギラギラしている。干潟の人々は、みんな汚れることを前提とした私服で、帽子やタオルを着用していた。格好を見れば農業のようだし、行為を見れば漁業のようだが、どちらも違う。彼らの近くに立っている『洲堀(すほり)』の幟が、それを示していた。



「柊さん、おはよう」

 背後からおっとりとした声が聞こえてくる。

 見れば、浅野が歩み寄っていた。紺のスーツを着ているうえに、ネクタイも首元までしっかり締めている。しかしながら、穏やかな表情のせいだろうか、不思議と暑苦しさは感じられなかった。



「おはよーございます、浅野さん。暑くないんですか?」

「スーツの事ですか。暑くないといえば嘘になりますが、身だしなみです」

「確かに似合っていますけれど、Yシャツ姿でも見苦しくないと思いますよ」


 自分も、夏用の薄い(しゃ)とはいえ、袖や裾の長い和服を着ているが、客の前に出る可能性がある以上、これは仕方ない。だが浅野は完全な裏方だ。服装を崩しても何ら問題はないのだ。



「ありがとう。ですが、この格好の方ですと、気が引き締まる効果もありますから。それより、何をしていたんですか?」

「御洲堀……でしたっけ。見学しにきたんです」

 そう言いながら、視線を干潟の人々へと戻す。


 昨日、浅野から教えてもらったこの行為は、公的な行事である。管弦祭当日に船が支障なく海上を進めるよう、干潟を深めるのが目的らしい。参加者は回廊付近に限らず、そこらじゅうにおり、中でも大鳥居近辺で作業をする人々は、当日の船の流れを示すかのように、真っすぐに並んで干潟を掘っていた。




「御洲堀が珍しいですか?」

「そーですね。こんな行事をしていたなんて知らなかったから、見ておこうと思って」

「なるほど、それは殊勲ですね」

「別に立派じゃないですよ。むしろ自分の為です。ちゃんと知っておいたら『地元の人間だ』って言えるじゃないですか」

 御洲堀に取り組む人々を見つめながら言う。



 自分は、宮島に居場所を求めているのかもしれない。母も、仕事も、そして味覚も失った自分が再出発するのは、この土地だという気がしているのだ。

 考えに変化が出たのは、先日の天狗もどきへの宣言からだろう。

 なんとなく目指していた広島の料理人。

 どう取り組めば良いのか分からなかった味覚問題。


 それらに対する意識が、十二支屋の日々によって変化した。具体的に何をすれば良いと分からなくとも、ひたすらに前向きになろうと思えるようになった。だから、広島・宮島は再出発の土地なのだ。


 その一方で、二十年生きてきた広島市という土地や、祖母を始めとした人間関係も大事に思っている。浅野に言われたとおり、人間社会で生きる必要もあると思う。無論、宮島も人間社会には変わりないのだが、十二支屋という職場においては、必ずしもそうとは言えないのである。





「……どーしたものかなあ」

 迷いが言葉になってぽつりと、漏れる。

「ああ、残念ながらお手伝いはできないのです。宮島町の者は従事してはいけないのですよ」

 浅野は、柊の言葉を御洲堀に対するものだと勘違いしたようだった。

 誤解を解いたところで、浅野に気を遣わせるだけだろう。柊は話に乗る事にした。


「役割分担ってわけですか」

「確かに分担といえば分担でしょうか。御洲堀は宮島に住民がいない頃に始まった行事なので、現在においても宮島町の者は加わらない慣例なのです」

「そー言われれば、ご近所さん、誰も手伝っていませんね」

「明日になれば、管弦船の組み立てが始まりますが、これは島の内外関係なく大工が担当します。どの作業についても言える話ですが、自分にできる事をやれば、それで良いのですよ」


 餅は餅屋、というわけである。

 ならば、料理も料理人だ。今は自分の役割を果たすべきだろう。

 そろそろ、スーパー八重が開店する時刻になる。今夜の客用に仕入れてもらっているアナゴを、受け取りに行かなくてはいけないのだ。



「……よっし! 私も、そろそろお仕事に戻りますね」

「アナゴ、苦手なのでしたね。うまく調理できると良いですね」

「はいっ!」

 威勢良く返事をして、勢いそのままに裏の通りの方へと早歩きで向かう。始めは足に合わなかった下駄も、もう履き慣れたものだ。



 冷房の効いたスーパーに着くと、注文どおりのアナゴが用意されていた。念を入れて二匹分、その他必要な食材と一緒にカゴに入れる。その最中、汗が遅れて噴き出してきたので、ミネラルウォーターも加えた。

「えへへ、猿田さんの事、悪く言えないな」

 苦笑しながら、スーパーの雨避け屋根の下でミネラルウォーターの蓋を開ける。今日は裏の通りでも観光客は多く、人目についてしまうのはちょっと気になったが『暑さで体調を崩すわけにはいかない』と自分に言い聞かせてペットボトルを煽った。水の冷気も、ごくり、ごくり、と鳴る喉の音も心地良い。


 飲みながら、いよいよだ、と思う。


 帰ったらアナゴに挑戦だ。これを克服すれば、管弦祭でも客が来てくれるかもしれない。もちろん、アナゴ飯だけでは客を呼び込めない可能性もあるだろう。……だが、自分が成長できる事だけは確実だ。『広島の料理人』にだって、なれるかもしれない。


 いや、きっとなれる。

 今の自分なら、なれる。

 どこか遠くで、蝉が力強く鳴いている。

 まるで、自分を応援しているような鳴き声だった。








 ◇








 十二支屋に戻ると、下足場に見慣れない草履が置かれていた。博物館の『昔の人の暮らし』コーナーにでも飾られていそうな、相当使い込まれた草履で、十二支屋の物ではない。


 つまりは、客の物。加えて言えば、今日のあやかし客の宿泊予定は、餓鬼の一件しか入っていない。受付にいる眷属に話を聞くと、やはり十数分前に餓鬼が予定よりも早く来訪したそうで、今は八犬が客室に案内しているとの事である。


 自分も餓鬼と顔合わせをしておくべきだろう、と柊は考えた。宿泊のたびにアナゴ飯を食べたがっていたそうだが、今回だけ希望を聞かずに作り始めるわけにもいかないのだ。

 買ってきたものを冷蔵庫に入れ、足早に二階へと上がる。扉が半開きになっている客室があったので、様子を伺いつつ中へと入った。



「……おや、柊さん」

 客室に入ってすぐの所に立っていた八犬が、キビキビとした動きで振り返る。

 その奥で、ボロ布のような衣服を纏った少年が、足を投げ出して畳に座っていた。いや、本当に少年なのだろうか。確かに背丈こそ子供だが、皮膚は老人のように荒れている。手足は枝のように細く、顔は頬骨が浮かび上がらんばかりにこけていた。だというのに、腹だけは突き出ていて、全体的にアンバランスなのである。



「この方が……」

「今日のお客様、餓鬼様です」

 八犬は短くそう告げると、体を壁の方に寄せて道を開けた。

 そこを通って畳に正座すると、餓鬼は身体を動かさず、ぎょろりとした三白眼だけを柊の方へと向けてきた。



「お、おはようございます。料理人の福間柊と申します」

「料理人……?」

 喉を壊したような声が帰ってくる。喋るのが苦しそうな印象もある。やっぱり年齢の判別はできない。

「はい、十二支屋では現在、食事を取り扱うようになっておりまして。夕食にご希望がありましたら、ご用意致します」

「夕食、食べられるんだ」

「ご希望にお応えできるよう、努力します」

「そっか……」

 餓鬼はそれだけ呟くと、天井を見上げた。

 何を考えているのだろうか。食べたい、と言うだけで済む話じゃないんだろうか。表情を窺うも、茫然とした目付きからは何も分からない。このまま待っているのは、柊の方が落ち着かなかった。




「店の者に聞いた話では、以前はアナゴ飯をご希望されていたとか。アナゴも揃えてはいますが」

 そう告げて、自らの退路を断つ。

 ここへ来て、別の料理を提案するつもりはなかった。

「そうだな……。アナゴ飯、いいな……」

「承知しました。お好きなんですね、アナゴ飯」

「うん」

 そう言って、餓鬼は口の端を微かに上げた。ちゃんと笑えるアヤカシなのだ。


「生きてる時から、好きだった……」

「とすると、元々は人間だったのですか……?」

「うん。死ぬ間際、これが食べたくて、食べたくて、仕方なかった……」

「病床でも食べたかったなんて、大好物だったんですね」

「僕は、病死じゃない……」

「えっ?」

「餓死……。だって餓鬼だもん。戦争で両親を亡くして、親戚もいなくて、最期はボロボロのバラックの中で動けなくなって……」


 その説明に、ぴくり、と体が跳ねる。

 柊は、その光景を知っている。

 いや、広島で育ったものなら、みんな知っている。それだけの歴史を学び、語り部の話を聞いて育ってきたのだ。




「あたたかく、満たされるアナゴ飯……それさえ食べられれば、満足できる……」

「……承知しました。頑張ってみます。お部屋と宴会場、どちらにご用意致しましょうか」

「……宴会場」

「それでは、午後七時頃にお持ちしますので、時間になりましたら宴会場へお越しください。腕によりをかけてご用意させて頂きます」

 意識して力強い返答をしたが、餓鬼は天井を見上げたままで何も反応を示さない。それ以上の会話を拒まれているような気がして、八犬とアイコンタクトを取り、二人で客室を出た。





「いよいよ、ですね」

 八犬が声を落として言う。

「ええ、任せておいてください。きっとアナゴ飯を作ってみせます」

「であれば、良いのですが」

 八犬の声量が更に小さくなり、囁くような声になった。外で聞いた蝉の方が、よっぽど強い主張をしている。



「……私がアナゴ飯を作れるかどうか不安ですか?」

「そちらは期待していますよ。……ただ、今回のお客様は、食べる事に関しては特殊です」

 その言葉を受け、柊は神妙な顔になって頷いた。

 餓鬼の特性については、柊も危惧している。


「なんとなくは理解しているつもりですけれど、確認させてください。餓鬼って、一般的にはどーいうあやかしなんですか?」

「今日の餓鬼様が語られたように、餓死に起因する者が多いですね。食欲と無念さという負の感情を抱いて餓鬼に生まれ変わるのです。それが因果になっているのか、食べても食べても空腹感が満足感には変わる事はないのですね」

「神様や眷属とは、少し違うんですね」


「そうですね。我々眷属にも満腹感はありませんが、同様に空腹感もありませんから。もっとも、今説明したような生体の餓鬼は代表的なもので、食べようとしたものが焼失してしまう者なんかもいます」

「なるほど、二種類の餓鬼かぁ」

「細分化すれば更にいます。また、特に強い負の感情を抱いていた者は、餓鬼ではなく餓鬼憑きと呼ばれる存在に変貌を遂げ、人間に憑いて飢えを与える事もありますね。……ただ、厄介なのは今回の餓鬼様はどれにも当てはまりません。飢えないのです」

 八犬の声が、更に潜められた。


「飢えないのに、餓鬼……?」

 緊張感は柊にも伝わり、背筋を伸ばしながら返事をする。

「実は前回の宿泊時、餓鬼様に断ったうえで、近所のお店で買ってきたアナゴ飯弁当を出しているのですよ。それも、弁当箱が卓上で山盛りになるほどに。餓鬼様はそれを完食されましたし『満腹』との感想も頂きました。……ですが『満足ではない』とも」

「満腹じゃなく、満足……だから今日も、満たされるアナゴ飯、なんて注文したんだ」

「おそらくは」

「うーん、そうは言っても、何を以って、満たされるんだろう……」

「樹様は、心ではないか、と言われていましたね」

「心……心を満たす、料理……」


 噛みしめるように呟く。

 どうやら、自分の目標と餓鬼の満足は重なったようだ。


 このお題から、逃げだすわけにはいかない。

 具体的な答えは分からないけれども、作ってみせようじゃないか、と思う。

 そもそも、今の自分はアナゴ飯を作れるかどうか、からのスタートなのだ。それを乗り越えた後で、餓鬼の満足とやらについて考えればいいだろう。




「とりあえず、ご飯、作ってみますね」

「……お手伝い、しましょうか?」

 八犬は、難しい顔をしながらも助力を申し出てくれた。

 言葉に躊躇があるのは、自分に気を遣ってくれているからだろう。確かに、八犬の前で何か醜態をさらす可能性はある。申し出はありがたいが、柊としてもアナゴ飯は自分一人で取り組むと決めていた。




「ありがとうございます。でも、一人でやってみますよ!」

「分かりました。離れに控えていますので、何かあれば遠慮なく声を掛けてください」

「了解です!」


 ボスの指令に答えるドラマの刑事のように、ハキハキとした声で言う。

 だが、彼は現場指揮官。警部補といったところだ。ボスは他にいる。





「……ところで、樹さん、今日は起きているんですかね?」

「起きていますよ。新明座で琵琶の稽古をしていました。夕食の時間まで弾き続けるような事はないでしょうが、一声かけておきます」


 先月から眠る時間が長いので、どうにも心配なのだが、今は問題ないらしい。

 柊はこっくりと頷いてから、台所へと向かった。

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