その6 樹の部屋
翌朝、朝食の膳を手にした柊が客室に入ると、おさん狐は窓際で黄昏ながら景色を眺めていた。
柊に気が付くと、前髪を軽やかに掻き上げながら座椅子へと座ったのだが、足の運びが少々ふらついているように見えた。昨晩の刑は、なかなかに堪えたのだろう。
「おはようございます。朝食です」
「やあ、楽しみにしていたよ。これから帰るのに体力が尽きていちゃ、なんの為に来たのか分からない」
「自業自得です」
「甘んじて受け入れよう。しかし、あそこまで琵琶が下手になっているとは思わなかった。来るたびに腕が落ちている気がするよ」
「昔は、もうちょっとマシだったんですか?」
「気になるのかい、ジャガイモさん」
「……そのジャガイモさんっての、そろそろ止めてくれませんか?」
「君をからかうのは面白いんだけれどねえ」
「止めてくれないと、朝食にサービスで付けている稲荷寿司だけ下げてしまいますが」
「ふふん、友達になんて事言うのさ、柊さん」
本当に下げるつもりはなかったのに、現金なものである。
苦笑を堪えながら膳を差し出すと、おさん狐は真っ先に稲荷寿司に手を出し、小皿に二個置いていたそれは、あっという間に消えてしまった。
「うん、なかなか美味しいじゃないか。酢飯が具入りだから、歯ごたえもあって良い」
「酸っぱすぎませんでしたか? そこが心配で……」
「そんな事はないよ。適度で、食欲を煽るような酸っぱさだ」
おさん狐はそう言いながら、細く白い指に付いたご飯粒を口に入れた。
「ご満足頂けたようでなによりです。そのご褒美、というわけじゃないんですが、一つ聞いても良いですか?」
「今は気分が良いから、大抵の質問には答えるよ」
「それじゃあ、遠慮なく。……おさん狐さん、なんで今回のような事をやったんですか?」
澄んだ声でそう尋ねながら、おさん狐を見つめる。
一晩眠れば怒りは消えてしまい、責めるつもりは、まったくなかった。
ただ単純に、おさん狐の意図が知りたいのだ。
あやかしは負の感情から誕生し、行動理念もその感情に基づく存在だ。もしかすると、おさん狐の言う『老婆心』には、相応の理由があるかもしれない、と思ったのだ。
「私は狐だよ。狐が人間を化かすのなんて、人間が息をするのと大差ないけどね」
「確かに、狸や狐は人を化かしてこそ、って印象があります。……でも、店に来たその狸さんにも、化かす理由があったんです。だから、おさん狐さんもそうじゃないかと思ったんですが……」
「一つ目入道の事だね」
「そうですけど、なんで一つ目入道とまで分かるんですか?」
「……仕方ない。話してあげよう。大抵答えると言ったしね」
そう言って、用意された緑茶を口にする。
ほぉ、と小さな息を漏らしたあとで、おさん狐は話を続けた。
「みんなには、元々は普通に泊まりに来るつもりだったと話したけれど、あれ、嘘なんだ。実は、最初から柊さんの様子を見に来るつもりで予約しててね。そしたら経営状態の話を聞いてしまったんで、それに搦めて試したわけさ」
「私の様子をって……私達、これまで会った事ありませんよね」
「勘が鈍いな。私はあやかしになってそろそろ千年だが、その分だけ友人も多くてね。……柊さんの事は、とある狸の友人から聞いたんだよ」
「あ……!」
そもそも自分の事を話す狸なんか、一匹しかいない。
間違いなく、一つ目入道だ。
「彼がはしゃぎながら言うのさ。十二支屋で働くようになった人間の料理に救われた。心があたたかくなった、って」
「確かに、そんな感想は頂きました……」
「驚きだよね。彼、元々は人間に追いやられてあやかしになったような者なのにさ。そこまで人間を持ちあげるのは、なんとも奇妙に感じられたよ」
おさん狐は、柊の瞳を見つめ返しながら話を続ける。
「でも、それだけじゃ見に来ようとは思わなかった。もう一人、猿の友人もいて、彼は彼でこう言うのさ。良い腕をしているのに十二支屋で頑張っていけるか悩んでいる人間がいる。おい、お前、その人間の様子を見に行くつもりだな……ってね」
今度は、誰の事だかすぐに分かる。
そう言われれば、サトリが帰る時に、意味深に自分を見つめていた記憶がある。もしかしたら、あの時、自分を案じてくれていたのかもしれない。
「一つ目入道さん、サトリさん、そんな風に……」
柊は和服の裾を強く握りしめながら、又聞きした自分の評価を噛み締めた。
救われた、心があたたかくなった、良い腕をしている……これはまるで、広島の料理人じゃないか。彼らはそこまで、自分を買ってくれていたのだろうか。
胸の奥が、熱くなっている気がする。前を向き続けようと決心した今、改めてあやかし達の言葉を聞いた柊は、自分の中で夢が目標に変わりつつあるのを強く感じていた。
「……それで、あんな風に発破を掛けてくれたんですか。ありがとうございます」
「十二支屋の経営状況が心配なので、みんなを試したというのも本音だけどね」
「おさん狐さん、本当は良い人なんですね」
「どうやら、私の評価は相当低かったようだ」
「うふふっ、これは大変失礼しました」
「まあ、構わないさ。……ちなみに、私の中でも君の評価は上がったよ。いつか本当に十二支カフェを開く事があったら、君も料理人兼愛人として、私の傍で侍らせようじゃないか」
「は、侍らせっ!?」
部屋の外まで聞こえてしまいそうな声が漏れてしまった。
十二単を纏った自分が、簾の中で寛ぐおさん狐を扇ぐ……源氏物語にでもありそうな、そんな光景が脳内に流れてきたので、慌てて首を横に振ってそれを消してしまう。
「私はね、人が大好きなんだ。樹様も、浅野のお爺さんも、十二支眷属のみんなも。そしてそれに、君が加わっただけの話だよ」
「だ、だったら、言い方ってものがあるでしょう!」
「そんなに顔を赤らめて拒まなくても良いのに。それとも、なにかい。良い人でもいるのかい?」
「違いますっ!」
「なら良かった。また嫉妬で人を……おっと。これ以上の話は、生臭くなるな」
おさん狐は半端なところで話を止めると、箸を手にして朝食を食べ始めた。
一方の柊は、しばらく唖然としておさん狐を見ていたが、やがて首を傾げながらも立ち上がった。話の先が気にならないと言えばウソになるが、聞いたらろくでもない事になる気もする。
「そ、それじゃあ、私はこれで失礼します」
「うん。今日まで世話になったよ。今度は私の山に遊びにおいで」
「はは……女友達として、って意味ですよね? 考えておきます」
乾いた笑いを漏らしながら、おさん狐に一礼する。
だが、顔を上げた柊の視界に入ったのは、麗しい目を細め、首を横に振るおさん狐だった。
「柊さん。私、女だと言った事があったかな」
「えっ? 無かったと思いますけど、だって、男性眷属を侍らせるって……。も、もしかして、おさん狐さん、男性なんですか!?」
「ふふん。ご想像にお任せするよ」
◇
おさん狐の見送りを終えた柊は、自身の朝食の前に離れへと向かった。樹から、顔を出すようにと命じられていた為である。
樹の部屋は、一階の突き当たりにあるが、これまで足を踏み入れた事はない。用事がある時はいつもその場で話が済んでいた。
(……一体、なんの話なんだろ。怒ってるような感じじゃなかったけどな)
部屋の前まで来たは良いが、すぐには中に入る気にならず、身だしなみを整えながら、意図を考えてみる。だが、答えは出ない。中に入るしかないのだ。
勝手に入って構わない、と言われていたので、ノックせずに扉を開ける。中では樹がちゃぶ台の前に胡坐をかいており、待ち構えていたかのように手を挙げてきた。
「おう、来たか」
「はあ、お邪魔します」
視線だけで部屋を見回しながら、ちゃぶ台の前へと進む。
部屋は柊の所と同じ六畳間で、室内には本棚が多く並んでいる。書名までは読み取れなかったが、収まっているのは相当古い本ばかりのようだった。電子機器の類はほとんど見当たらず、外界と隔離された印象の強い部屋である。
「何か飲むか?」
「大丈夫です。樹様が飲みたいのでしたら、お茶入れますけれど」
「別にいいよ。とりあえず座れや」
言われるがまま、ちょこんと正座する。
「おさん狐の奴は、もう帰ったんだよな」
「ええ。なんだか、捉え処がない人でしたね……」
「狐は化かしてナンボだからな。お疲れさん。今回は俺が寝てる間に、お前にも苦労掛けちまったみたいだな」
「大丈夫ですよ。それにお客様である事に変わりはないですしね」
「そう言って貰えると助かる。なんせ、あいつは人とかかわる事が力になるからな。……昨晩、言ってたぜ。飯は美味だし、それを作る柊も面白い奴だ、ってな。お前も少しは、まともな料理人になったってわけか……」
樹はそう言いながら、指先でちゃぶ台を何度か叩いた。
そうしながら何か考え込んでいるようで、少しするとその仕草を止め、代わりに頬杖を突きながら話を続けた。
「……あやかしは負の感情から生まれる。もうこの話は、お前にも何度かしたよな」
「ええ。聞いてます」
「実は、人間が関与しているのは生まれる時だけじゃない。あやかしの生命力にも影響しているんだ」
「生命力、ですか……?」
「そ。分かりやすく言えば、人間が認知して恐れる事で、あやかしは生命力を得るんだ。直接的な認知じゃなく、人間が恐怖心を感じるような場所に来る事でも生命力は得られる。頻繁に肝試しされるような場所とかあるだろ? あーいう場所は、本当にあやかしの溜まり場なんだよ。人間が恐怖心というエサを撒いてくれるからな」
「じゃあ、人に信じてもらえないと、あやかしって死んじゃうんですか?」
「死ぬというか、無に帰すわけだな。カガク、とやらの発展した現代では、そうして消えてしまうあやかしは少なくない。……そこで、十二支屋だ」
なんとなく、彼が言いたい事が分かってくる。
楽な姿勢を取る樹とは対照的に、柊は背筋を伸ばして、続く言葉に心を備えた。
「知ってのとおり、ここは一部ではあやかし民宿と噂されているが、多少は俺達が自ら流した噂もある。ここまで話せば、もう理由は分かるよな?」
「十二支屋をパワースポットにする為、ですね」
「おう。そうすれば、宿で寛いで生命力を回復できるようになる。……それが、俺と十二支眷属達が、わざわざ人間社会に出て宿を開いた理由だ」
「……ありがとうございます。樹さん」
「ん? 何か礼を言われるような話か?」
「樹さんが十二支屋をやっている理由、前は話してくれなかったじゃないですか。こうして呼びつけて話すって事は、お店の一員として認めてくれたんですよね」
「……勝手に解釈してろ。それより、茶ぁ入れろ」
「さっきいらないって言ったのに」
「急に欲しくなったんだよ!」
柊は苦笑しながら、部屋の隅にあるガスコンロで湯を沸かして緑茶を用意した。
ちゃぶ台の前に戻って差し出すと、樹は体を起こし「うむ」と偉そうな口をききながら、湯呑を手にした。
「まだちょっと熱いな」
「贅沢言わないでください。それより、お話はそれだけなんですか?」
「いや、もう一つある。どっちかっつーと、この話が本題だ。一ヵ月後、どうなんだ」
「……管弦祭の話ですね」
そう言いながら、天狗もどきへの宣言を思い出す。
味覚は治っていないし、イチキも見つからない。アナゴ料理も未だに作れない。
でも、前を向くと誓ったのだ。
広島の料理人になると誓ったのだ。
ならば、ここで転ぶわけにはいかないだろう。
「……実はまだ、味覚は治っていません。管弦祭でアナゴ飯を作ったらどうか、って話も挙がったんですが、アナゴにもお母さんとのトラウマがあって、捌けないんです」
「アナゴもダメ……?」
「あ、その……色々あって、アナゴを捌こうとすると、お母さんの事を思いだして胸が苦しくなって、料理できないんです……」
「おいおい、じゃあ管弦祭では何作るんだ?」
「大丈夫です。今度、アナゴの前に立ってみます。それで克服できたら、管弦祭の日にはアナゴ料理を出しますよ。それに、アナゴを克服する事で、味覚だって戻るかもしれません」
「……やれるのか?」
「やれます! じゃないと、広島の料理人になれませんから」
「広島の……? ああ、八犬から又聞きしたあれか。母親みたいに、心を救える料理人になりたいんだったな」
「はいっ!」
樹をまっすぐに見つめながら主張した。
だが、その真剣な表情はすぐに崩し、訝しむような表情を浮かべてしまう。
なんだか、樹の顔色が良くないように見えるのだ。
長い事眠っていたはずなのに、むしろ徹夜明けのように力がないのだ。
「あ、あの、樹さん……」
「なら、良いや」
疑問の声が、樹にかき消される。
彼は口をきつく結び、難問を提示する教師のように、続きを口にした。
「管弦祭の前に、ちょうどいい客の予約が入っている。何度か十二支屋に来ては、アナゴ飯を所望するんだが、これまで期待に応える事ができなくてな」
「私が来る前は、食事を出していなかったんですよね。それなのにアナゴ飯を食べたがっているんですか?」
「しょーがねえんだよ。そういう客なんだ」
樹はそう言って、深く嘆息した。
彼が手を焼くほどのあやかしというわけだろうか。
「そのあやかしの名前は?」
「……奴の名は、餓鬼だ」