その3 宮島散策
おさん狐の提案は、ちょうど良い転機になったのかもしれない。
管弦祭が一か月後に迫っているのを考えると、そろそろ本格的に料理を考えておくべき時なのだ。
規模の小さい十二支屋では、業者経由で食材を大量に確保すると、持て余す可能性がある。となると、個人経営であるスーパー『八重』からの仕入れになるのだが、それはそれで確実に食材を得られない。よって、これまでは、当日在庫がある食材で客の希望を叶えていた。
「でも、管弦祭が最後の好機です。今回ばかりは、何か事前に用意しておいた方が良いかもしれませんので、打ち合わせを相談しませんか?」
そんな八犬の提案は、この上なくありがたかった。むしろ、柊の方から、みんなに助言を頼もうと思っていたくらいだった。十二支屋のみんなを取られるような気がして、その反発で「できる」と豪語したけれども、冷静になって考えれば、何も成長していない自分一人ではどうしようもないのだ。
八犬の他、猿田が台所に集まる。着席すると、二人が視線を集めてきたので、柊は小さく咳払いをしてから、口を開いた。
「えっと……それじゃあ、当日に何を作るか話し合いたいと思います。とはいっても、スーパーの品揃えで作れるものに限られるんだけど……」
「十二支屋はあくまでも民宿だからさ、お客が過剰に期待する事もないんじゃないかな。それで構わないと思うぞ」
と、猿田が言う。
「うん。その範疇で満足してもらうとなると……やっぱりお肉になるかなあ」
「瀬戸内の海産物を生かすって手もあるな。ご当地料理って奴よ」
「海産物か。だったらカキかなあ。アジとかスズキだと、ちょっと見劣りしちゃうし」
本当は、他にもある。
瀬戸内のみならず、宮島を代表するご当地料理があるのを、柊は当然知っている。
でも、その選択だけはできなかった。そもそも、自分には無理なのだ。
アナゴ料理だけは……、
「アナゴはどうでしょう。アナゴ飯は、言わずと知れた宮島の名物です」
だが、他の者もそこは見落とさない。
八犬が柊を見つめながらそう提案したのを、柊は深く頷いて受け止めた。
これは、ハッキリさせておかなくちゃいけない。大事な提案をうやむやにしてはいけないのだ。
「……八犬さん、ありがとう。でも、私、アナゴ料理は作れないんです」
「捌く自信がない、という事でしょうか」
「いいえ。お母さんの得意料理だったから、憧れて練習した経験は何度もありますし、それなりのものが作れました。……当時は、ですけれどね」
「何か、事情がおありのようですね」
「実は、私のトラウマ、味覚だけじゃないんです。……アナゴ料理も作れなくなっちゃったんですよ」
そう告げながら、集まったみんなを見つめる。
大事な話だと察してくれたようで、一帯に緊張感が漂っているのを感じると、柊は居住まいを正して話を続けた。
「樹さんには前に話しましたけれど……お母さんが事故で亡くなった日は、アナゴ料理を教えてもらう日でもあったんです。……私、それをすごく、とってもすごく楽しみにしていました」
「無理に話さずとも」
「お母さんのアナゴ料理には『広島の料理人』としての気持ちも篭っているんです。教えてもらえれば、私も一人前になれるような気がしていたんです。……そしたら、電話がかかってきて、お母さんかと思ったら、警察で……事故って……」
「柊さん……」
「昨日、きまぐれにアナゴ飯の練習しようとしたら、その時の記憶が蘇って、捌けなかったんです。ビックリして、それで、あとは……」
「もう大丈夫です。分かりました。ここまでにしましょう」
八犬が珍しく、強い声で話を遮る。
自分としても、今はそれ以上話したくはなかった。母の死を思いだして感極まっただけではない。それよりも、トラウマでアナゴ飯を作れない状態を認めたくなかった。アナゴ料理は、母との思い出であると同時に『広島の料理人』という夢を与えてくれた料理でもある。それだけに、アナゴ料理を作れない限りは、自分がどれだけ経験を積んでも『広島の料理人』になれない気がするのだ。
「……八犬さん、ありがとうございます」
「いえ。アナゴ飯以外で考えていきましょう」
「はーい、はいはい! そーいう事だったら、俺にいい考えがあるぜ」
猿田が勢い良く挙手しながら発言した。
こういう時に、雰囲気を変えてくれる彼には、やっぱり助けられている。
「じゃあ、猿田さん、ご意見をどうぞ」
柊も気分を変えて、ハキハキと提案を促す。
「うむっ。市場調査といかないか? 明日、何人かで商店街をグルッと回ってよ。お客の心に残りそうな料理を探してみるのよ」
「あ、それ良いかも。ちょっと楽しそうですしね!」
「だろだろ? くじなら、羊子の不意打ちグー作戦も通用しないぜ」
猿田はうきうきと声を弾ませながら謎理論を展開した。
その声が一気に沈むのは、二十分後。くじ引きが終了した瞬間からであった。
◇
翌日。柊は、八犬、羊子と組んで表参道の商店街へ向かった。
ここは厳島神社に直通となる通りなので、いつも人であふれている。柊達が通りの神社側に足を踏み入れたのは午前十時を過ぎた頃だったが、昨日とは違って好天に恵まれた事もあり、商店街はもう活気に満ちていた。
「柊ちゃん、どうするん?」
「とりあえず往復してみよっか。八犬さんも、それで良いですよね」
「あ、ええ」
八犬の返事は、どこか虚ろである。樹や店の事が気になるのだろうか。
その為にも、今は料理のアイディア探しを頑張らなくちゃいけない。柊は八犬の事を深く考えずに、周囲の店を眺めながら歩いた。
目立つのは、やっぱり土産物屋だろうか。もみじ饅頭や工芸品のしゃもじを取り扱っている店が特に多い。もみじ饅頭は味のバリエーションが非常に多彩で、全メーカー合わせれば百数十種類にものぼると聞いた事がある。十二支屋だけのもみじ饅頭を作るなんてどうだろう、という考えが頭をよぎったが、製菓は少々ハードルが高いかもしれない。金型を調達できたとしても、焼き加減の習得には時間が掛かるだろうし、味も明確な違いを付けられなければ意味がない。結局は、自分の味覚がネックになるのだ。
他の店だと、食べ歩きを意識しているところが気になった。オーソドックスなおかきや饅頭、練り物や、宮島ならではのカキ。その他にも美味しそうなものがいくつも並んでいて、味覚のない柊にとっては、少々目の毒な光景でもあった。だが、すれ違う人々がそれらを頬張りながら楽しそうに散策している光景は良いと思う。この活気あってこその宮島なのだ。
「……アナゴ飯のお店、多いのう」
隣を歩く羊子が周囲を眺めながら、ぽつりと呟く。
なるべく視線に入れないようにしていたが、確かにアナゴ飯を扱っている店も多いのだ。
「そだね。やっぱり宮島といったらアナゴ飯なのかな……」
「カキもあるけど、発祥の地ってほどじゃないけえ、アナゴ飯の方が有名じゃろね」
「うーん、そうなんだよね。アナゴは夏が旬でもあるし、作れれば一番良いんだよねえ……。いっそ、調理は猿田さんに任せてアナゴ飯を出そうかな」
「いかんよ。猿田さんは、あたし達眷属がお腹空いた時の間食くらいしか作ってこんかったけえ、お客さんに出す料理を丸ごと任せたら大変な事になるよ」
「むう、そっか」
「あたし、昨日の話よう分からんかったけど、十二支屋が助かる最後の機会なんじゃろ? 柊ちゃんも大変じゃけど、頑張りんさい」
「……ありがと」
礼は言える。でも、頑張るとは安易に口にしづらい。それだけ、柊にとってアナゴ飯のハードルは高い。会話をこれ以上広げたくなくて、柊は別の話題を持ちだす事にした。
「ところで、おさん狐ってどんなあやかしなの?」
「うーんとね。うちの常れ……おっと、口が滑るところじゃった」
「あ。お外だったね。ごめん、この話はやめとこうか」
「ええよ。普通のあやかし話、ならいいんじゃろ? あたしドジは踏まんよ」
羊子が力強く胸を叩く。
威厳はまったくなく、ただただかわいらしいだけである。
「ふふっ。それじゃあ教えてもらおうかな」
「おさん狐はね、江波にいたとされるあやかしなんよ。江波、知っとるよね?」
「広島市内の町だよね。結構近くにいたんだ」
「当然、神様よりも格下じゃけど、あやかしのくせに、たくさん眷属を操っていた大物じゃ。よく美女に化けて、男をたぶらかしたり、人の仲を裂いたりしとったらしいよ」
「あー。なんだか想像しやすいかも。厄介なんだなあ」
「ほうじゃの。こんこん、こやーん、って感じじゃ」
どういう感じなの、という突っ込みを入れる間もなく、羊子は観光客の間を器用に抜けて先へと走りだしてしまった。
勝手知ったる宮島だから、迷子になっても十二支屋には帰れるだろうけれど、後を追いかけないわけにもいかない。
八犬にも一声かけようとして……そこで気が付いた。八犬が近くにいないのだ。
「あれ? 八犬さん……?」
慌てて周囲を見回すが、見つからない。長身で、人海の中でも頭一つ抜けている分、見つけやすいはずなのだが、どこにもいなかった。
とすると、視界に入らないくらい遠く離れてしまったか、もしくは……、
「あ! 何食べとるん、八犬さん」
前から羊子の声がする。
近づいてみると、羊子は曲がり角の先を覗き込んでいて、彼女の視線のすぐ先には八犬が立っていた。柊が元々いた場所からは、ちょうど死角になる場所である。
だが、様子がおかしい。まるで悪戯をして飼い主にとがめられた犬のように肩を丸め、羊子に気圧されているように見える。それに、手を後ろに回して何かを隠しているようにも見えた。
「……どうかしましたか、八犬さん」
「ひ、柊さん……いえ、その……」
奥歯に物が挟まったような、キレの悪い言葉が返ってくる。いや、本当に詰まっているのかもしれない。
半眼になって、じっと八犬の顔を見つめ続けると……やがて、観念した八犬は右手を前に戻した。そこには、二本の串が握られていた。
「八犬さん、もしかして買い食いでもしましたか?」
「……申し訳ありません。誘惑に抗えず」
「別に責めているわけじゃないですよ。参考になりそうなものを探すと言っても、張りつめてやっているわけじゃないですし」
「しかし、柊さんは味覚がないのに、私だけ楽しむのも……」
なるほど、気を遣った結果の隠蔽というわけである。
柊は苦笑を零しながら、顔を左右に振った。
「ありがとうございます。でも、そんなに気にしなくても大丈夫ですよ。それより、何食べていたんですか?」
「実は、揚げもみじを」
揚げもみじは、その名のとおり、もみじ饅頭を揚げた菓子である。
饅頭部分の柔らかさと衣のサクサク感が混ざり合った食感がウリで、柊も味覚がある時に何度か食べた事があるが、クセになりそうな味だった。
「揚げもみじ、美味しいですよね。私も味覚がある時はよく買ってました」
「え、ええ……」
「八犬が、二本も買い食いしちゃったのも理解できます。ふふっ」
「それが、ですね」
八犬が下を向きながら、まだ後ろに隠していた左手を前に出す。
串、更に二本追加。
「八犬さん、甘い物、好きなんですか」
「……かなり」
八犬は、その精悍な顔を真っ赤に染めあげた。