その2 とてもきつね
「困った事になりました」
さほど困っていなさそうな、淡々とした口調で彩巳が言う。
だが、付き合いが長い者ならば、このいつもどおりに聞こえる口調でも、些細な違いを聞き分けられるのかもしれない。現に、柊と同じく事務室に呼びだされた浅野は、神妙な表情をしているように見えたので、柊もそれに倣って、口をまっすぐに結んだ。
「……もしかして、計算を頼んでいた支出の件ですか」
浅野が、表情そのままの声色で尋ねる。
「はい。お察しのとおり、実は金銭事情が芳しくありません」
「ふむ……」
「最近の十二支屋は大分客足が伸びてきました。それでも維持費と給与で差し引きゼロです。それに加えて、浅野様の入院代がかさんでいます」
彩巳はそう告げながら、手元のノートを卓上で開いてみせた。
覗き込めば、確かに支出のところに、数十万の入院代が書かれている。
とはいえ、これは十二支屋の支出とは別ではないだろうか、と思ったが、それを察したかのように彩巳は話を続けた。
「まずご理解頂きたいのですが、十二支屋は浅野様の個人事業です。民宿ですからね。なので、余剰な収益を浅野様の入院代に回すのに支障はありません」
「そっか、建物は立派ですけれど、民宿なんでしたね」
「次に、浅野様がおられなければ、十二支屋は経営不可能です。理由は複数ありますが、まず十二支屋という固定資産が、浅野家のものですので」
「じゃあ、浅野さんが入院代を払えなかったら、最終的には十二支屋が差し押さえられる事もあるんですか?」
「詳しくは弁護士に確認する必要がありますが、その可能性を危惧する意味でも、一般常識としても、入院代を払わなくてはなりません。医療費としての経費計上は不可能ですので、名目は適当に考えますが」
「そっか……支払いはいつまでなんです?」
「ここです」
彩巳はそう言いながら、卓上カレンダーをめくって『七月三十一日』に、赤ペンで丸を付けた。
……期限は、あと一ヵ月。
それまでにどう数十万を稼ぐと言っても、十二支屋の収入では難しい。どうしたものかと考え込みかけたが、ふと、七月十九日にも、丸が付けられているのに気が付いた。
「彩巳さん、この日も何か支払いがあるんですか?」
「いえ。その日は、柊さんをこの場に呼んだ理由……旧暦六月十七日、すなわち、管弦祭の日です」
「あ……そーいえば、そこでお客様を集めようって樹さんが言っていました」
「それ以外に、大口の収入を得る手段はないでしょう。どうですか、味覚の方は」
「それが、まだ全然戻らなくて……」
申し訳なく頭を掻きながら言う。
昨晩の料理が脳裏を過ったが、動揺は顔に出ていないだろうか。
だが、彩巳は特に表情を険しくする事もなく、頷いてくれた。
「分かりました。引き続き、味覚を治すように努力を」
「お母さんが死んじゃった事は受け入れているつもりなんですけどね……。あ、確か樹さんが、宗像三女神が揃ったら、力を借りて味覚を治してもらう、とも言ってましたよ」
「イチキ様探しとは、樹様も面白い事を考えましたね。失踪されて八十年ほどですから、浅野様はお目にかかった事はありませんよね?」
「ええ、ありません。是非一度ご挨拶したいものです」
その案は行き渡っていなかったようで、浅野と彩巳は興味深そうな声を漏らした。
だが、彩巳の方はすぐに顔を横に振り、柊へと向き直った。
「……ですが、イチキ様の行方に手がかりはあるのですか?」
「いえ、全然……」
「であれば、自力で治すのを基本とした方が良いでしょう」
「ええ、そのつもりです。実際、これまでも探したりしてませんしね」
「もしくは、味覚がなくとも良い料理を作れば、客を確保できるかもしれません。念頭に置いてください」
確かに、その方法はあるだろう。
柊は神妙な表情で頷き、それから、別の疑問を口にした。
「……ところで、この話、樹さんに聞いてもらわなくても良かったんですか?」
「樹様は、浅野様を迎えに行くよう命じた直後から眠られています。今回の眠りは深いようで、数日続くかもしれませんね」
「ああ、樹さんも、自分の眠りは変則的、みたいな事言ってました」
「目覚めたら、私から事情は説明しておきます……」
彩巳はそう言いながら、少しだけ顔を伏せた。
彼女にしては珍しい仕草で、何を考えているのか気になったが、その答えは浅野の口から出た。
「……変則的な眠り、か。どうしたものでしょうかね」
「え? 樹様って、そーいうものじゃないんですか?」
「確かに、最近は眠りの感覚が不正確ですが、数十年前は、そのような事はなかったのですよ」
「どこか、身体が悪いって事ですか……?」
「さあ。何分、相手は神様ですから、そもそも、どのような理由があって眠られているのかも分かりません。何事もなければ良いのですが」
浅野がそう言って、やや沈黙ができた。
だが、それを嫌がるかのように、彩巳がノートを手に立ち上がる。
「彩巳さん、どこ行くんですか?」
「一応、八犬さんにも話しておこうかと」
「それが良いかもしれませんね。私も一緒に行きましょうか」
「大丈夫です。それよりも、今日のお客様は曲者ですから、心の準備をしておいた方が宜しいかと」
「曲者……?」
「よく泊まりに来る客なのですが、人を喰ったような性格のあやかしです」
彩巳はそう言うと、目礼を送って事務室から出て行った。
そういえば、今日の客の名前を知らなかった。つい先程、出勤再開したばかりの浅野も知らないだろう。
誰かに聞こうと、浅野に断ってから柊も部屋を出る。すると、隣の台所から女性のような声がするのに気が付いた。それも、聞き覚えがない、やけに甲高い声である。
柊は首を傾げながらも、台所へと向かった。
◇
台所で柊の料理を手伝っている眷属の名は、猿田という。
その名のとおり猿の眷属で、ひょうきんな顔をした若い男だ。性格は明るく、仕事中によく冗談を飛ばしては台所を盛りあげてくれるムードメーカーでもある。ただ、言い換えればお調子者でもあり、買い食い癖があるので、お使いを頼めば必ず余計な出費が生じてしまう。柊の中では評価が難しい男だった。
耳を澄ますと、台所からは甲高い声だけでなく、猿田の声も聞こえてくる。
一体、誰と話しているのだろうとの疑問を抱きつつ、とりあえず中へ入ろうとした柊だったが、ちょうど聞こえてきた「柊ちゃんの事?」という猿田の声を耳にして、思わず足が止まってしまった。
「そうそう、新しく入った人間の子は柊っていうんだね。その子の事を教えて欲しいんだよ」
続いて聞こえてきたのは、甲高い方の声だった。
途中からなので詳しく事情は分からないが、この人物が、猿田に自分の話を聞いているのだろうか。ちょっと興味が沸いたので、もう少し盗み聞きをすることにした。
「うーん、そうだねえ、柊ちゃんはいい子だよ。すんげー前向きでさ」
「ふふん。明るい子なんだね」
「そうそう。いやー、なんだか柊ちゃんが来てから、十二支屋もパーッと明るくなった気がするよ」
「なるほど。他のみんなの評価はどうなのかな?」
「柊ちゃんを悪く言ってる奴なんか、いないな。心なしか、樹様も機嫌が良い日が多いしさ! やっぱりみんな、釣られて元気になっちゃうんだろうねー」
どうやら、猿田は評価するべき人物のようである。
「ちなみに、かわいい子なのかい?」
「うんにゃ、地味。めっちゃくちゃ地味」
やはり、低評価を下すべきである。
(猿田さん、覚えてなさいよ……)
握り拳を作りながらも、もう少し踏み込むタイミングを計る。
それが良かったのか悪かったのか、謎の声の主は、思わぬ言葉を続けた。
「ふふん。それじゃあ、そんなジャガイモさんより、私の方が魅力的って事かな」
「う、うんっ?」
「どうだい、猿田くん。二人っきりになれる場所に出かけないかい? この艶やかなブロンドヘアーを撫でながら、至福の時を過ごしたいとは、思わないかい……?」
「ど、どーしよっかな……柊ちゃんに頼まれている夕食の仕込みがあるんだけど」
「サボったって良いじゃないか。嫌われたところで、しょせん相手はジャガイモさんさ」
「まいっちゃったな、はは……大丈夫、かなあ……」
「大丈夫じゃなぁいっ!」
気が付いた時には、柊は怒声と共に台所へ足を踏み入れていた。
神聖な台所で、なんといかがわしい話をしているのか。
相手は誰だか知らないが、これを放っておくわけにはいかない。
決してジャガイモと呼ばれたのが気に入らないわけではない。
嘘ではない。
「ひ、柊ちゃん……?」
当然ながら、突然の乱入に驚いた猿田は、肩を跳ね上げながら柊の方を見た。
だが、話し相手と思わしき人物が見当たらない。
ぐるりと室内を周回させた視線を、猿田へ集中させ、彼を睨みながら、柊は尋ねた。
「ちょっと、猿田さん。随分言いたい放題でしたね」
「あ、あれ聞いてたの? いやー、あはは……」
「あとでちゃんと追及しますからね。……それはそうと、誰と話していたんですか?」
「誰って、ここにいるじゃないか」
猿田はそう言って眼前を指さしたが、誰も見当たらない。……いや、心なしか指先は下の方を向いているようだ。
テーブルの陰で隠れていて見えない指の先に、ツカツカと歩み寄る。
金色の尾がふわりと舞ったのは、その時だった。
「……き、狐?」
「これはこれは、噂のジャガイモさんかい?」
テーブルの影に隠れていた狐が、そんな挑発的な言葉を投げかけてくる。
こんがりとした黄色の体毛に黒い手足で、毛は夏毛なのだろうか、毛量が少なくてやせ細った犬のようにも見える。でも、鋭い瞳と黒ぶちの耳から伝わる印象は、やはり狐だった。
いや、正しくは狐の形をした何か、だろう。狐が喋っているのを当たり前のように受け止めている自分に、柊は少し驚いた。
「じ、ジャガイモじゃありません。福間柊です。貴方こそどなたですか?」
「ふふん。私はおさん狐。聞いた事ないかな」
「おさん……いえ、初耳ですが……」
「今日のお客様だよ、柊ちゃん。あやかしだ」
傍にいた猿田が、おずおずと声を掛けてくる。
情報には感謝するが、まだ許したわけじゃない。彼を半眼で一瞥して、狐へと向き直る。
今日の客という事はあやかしなのだが、安直にへりくだる気は起きなかった。猿田に言い寄った理由はまだ分からないし、妙に余裕シャクシャクな態度でジャガイモ呼ばわりしてくるのも、気に入らないのだ。
「そういうわけだね。まあ、ありていに言えば化け狐だよ。宜しく」
「お客様でしたか。そのお客様が、猿田さんに何の御用ですか」
「手厳しいなあ。そう突っかからないで欲しいものだね。ちょっと毛並みを見せびらかしたかっただけなのに。……ああ、もしかして、声だけ聞いて変な事してるとでも勘違いしちゃった?」
「むぅ……」
「ははっ、ベタベタだねえ。もっとも、待っていたのはマッサージの類じゃなく、狐だけれどね」
「じ、じゃあ、一体なんのつもりで、提案していたんですか」
「決まってるじゃないか。ただの面談さ。自分の店の従業員と面談するのが、そんなに珍しい行動かい? 君の事を聞いていたのも、従業員の素行調査の一環だね」
「自分の店……? ここは樹さんと浅野さんのお店ですが」
「いやあ、それが違うのさ。実はこんなものがあってね」
おさん狐はそう言うと、足元に置いていた小さなハンドバッグの取っ手を咥えてみせた。まるで、おつかいをする犬である。
「……ベースボールフォックス」
「ふぉん? ふぉれふぁふぁんふぁ?」
「モゴモゴしてて、なんて言ってるのか分かりませんよ。そうやって篭を咥える犬が、広島の野球チームにいたのを思い出しただけです。で、そのハンドバッグがどうしました?」
「ふぃてふぃたふぁえ」
間抜けな声である。やはり解読できない。だというのに、余裕に満ちた態度を崩さない辺り、このおさん狐、頭のネジがいくつか外れているのかもしれない。
突っ込みを入れようかとも思ったが、その前に、ハンドバッグのチャックが開いているのに気が付いた。中には古い紙のようなものが見える。
柊は訝しみながらも、それを手に取ったが、文面は草書体で書かれていて、柊には一文字も読み取れない。末尾に血判が二つ押されている辺り、なにか誓紙の類だろうか、とは思う。
「……なんですか、これ」
多分、その言葉は待ち望まれていたのだろう。
おさん狐はハンドバッグを地面に戻すと、口元を人間のように緩めてみせた。
「十二支屋の権利書、だよ」
「最初からバッグを置いて喋れば良かったのに」
「ふふん」
◇
「この血判の指紋は、確かに樹様のものですね。もう一つある、当時の浅野家当主の血判までは、本物か判別できませんが……」
八犬は重々しい口調でそう言いながら、なおも権利書の文面を確認し続けた。
その鑑定結果を受けて、八犬を取り囲む浅野や十二支眷属達からは、小さな動揺の声こそ漏れたものの、否定の言葉を口にする者はいない。
八犬が言うのならば本当だ、という事なのだろう。柊から見ても、八犬の樹に対する忠誠は強いし、最初に生み出された眷属なのだから、八犬の言葉が判断基準になるのは分かる。
それにしても、指紋まで覚えているほどに樹を慕っているのは、この際目をつぶる事にした。
「ふふん、そういう事。契約書に書いてあるとおり、この土地は元々、人間に化けた私が所有していたのさ。それを、樹様がやりきるまで……詳しく言えば、十二支屋の経営が破綻するまでの間という期間限定で、貸していただけなんだけど、君達眷属はご存じなかったようだね」
樹にとってかわるように、新明座の舞台上で丸くなっているおさん狐が、相変わらず相変わらず余裕たっぷりの喋り方で言う。
それが気に入らないのは柊だけではないようで、眷属の大半はぎろりと睨みつけた。
だが、その気配を察した八犬が、全員に軽く手をかざして抑え、みんなの感情を代弁するかのように、強くおさん狐の方へ足を踏みだした。
「それでは本日は、宿泊というよりも、十二支屋の権利問題について話し合うつもりでお見えになった、というわけですか?」
「飲み込みが早くて助かるね。ところで、樹様はいないの? 樹様がいないと、始まらない話なんだけどな」
「樹様は眠られています。最近は一度お休みになると数日は目覚めないので、私が対応させて頂きます」
「あ、そう? んじゃ八犬くんに相手してもらおっかなあ」
おさん狐はそう告げながら立ち上がると、くるりと宙返りしてみせた。
同時に小さな煙が巻き起こり、艶やかな金髪をポニーテールにした、黒い和服の若者がその場に現れた。なるほど、これなら確かに艶やかなブロンドヘアーといえるだろう。おさん狐の人間体というわけである。
「お待たせ。十二支屋の新支配人になる話なんだから、私も人間体じゃないとね」
「やはり、店の権利を主張されるわけですか」
「うん。十二支屋、儲かっていないでしょ? お客さんが増えて経営はトントンでも、浅野さんの入院料も含めると、来月末が厳しいとか」
その件ならば、彩巳から聞いたばかりである。
彩巳がおさん狐に話したとは思えないし、彼女を一瞥すれば、小さく首を横に振って返事をしてきた。
とすると……おそらくは、盗み聞きだろう。
「七月が終わったら即私の店にするつもりはないよ。でも、私の店になったら、店の方針は大きく変えるつもりだ」
「認めるわけではありませんが、どう変えるつもりなのか伺いましょう」
「ふふん。よくぞ聞いてくれたよ」
おさん狐はそう言うと、その場で無意味に一回転してみせた。
「ずばり、十二支喫茶さ!」
「十二支……喫茶……?」
「そう。お宿を畳んで喫茶店に作り変えちゃうのさ。君達十二支眷属のうち女性陣には、ウェイトレスとして十二支のコスプレをして、接客してもらう。私は樹様と茶でもすすって幸せな時を過ごしつつ、男子眷属を侍らせるとしよう」
なるほど、それならば多少の男性客は掴めるかもしれない。
代償に、風情ある民宿が失われるのを許容すればの話だが。
ただ、侍らせるとはどういう料簡なのだろうか。
意味は理解している。それが気に入らないのだ。今日まで一緒に働いてきたみんなが、ついでに樹が、この胡散臭い狐にいいように使われるのを想像すると、どうにも腹が立つのだ。おさん狐が自分より綺麗な顔立ちをしているのも、その感情に拍車をかけている。
「……その案で本当に復興できるかどうかは置いておきます。浅野様と柊さんはどうするつもりですか?」
「お爺さんに鞭を打つのはさすがに忍びない。隠居代は払うから、のんびり余生を過ごしてくれたまえ。ジャガイモさんは……まあ、解雇かな?」
その言葉に、再び従業員達に動揺の声が広がる。
だが、今度は動揺するだけではなく、足を前に踏み出して八犬と並ぶ者がいた。
無論、福間柊である。
「ちょっとちょっと! 黙って聞いていれば、言ってくれるじゃないですか!」
「権利者だから当然さ。眷属達を好きに使って良い、というのも契約内容に含まれているしね」
「だからって、そんな、みんなに酷い事を……」
「ふふん。なんだい? 気に入らないかい」
おさん狐は、そう言いながら、舞台の淵に腰掛けて足を組んだ。
そこから届く視線には、挑発的な感情が感じられる。
「……花開蝶自来。ジャガイモさんは、意味をご存知かな?」
「はな……ちょう……?」
「花は無心にして蝶を招き、蝶は無心にして花を尋ぬ。良寛という僧の遺した詩さ。女の子達が着飾れば男性客は寄ってくるし、私が十二支屋にいれば、男子達も虜になる。それが道理というものさ。ジャガイモさんには、どっちも無理だろうけれどね」
「できますっ!」
その言葉は、反射的に叫んでいた。
こんなに大きな声を出したのは、十二支屋に来てから初めてかもしれない。あまりの声量に全員が注目する中、柊は更に一歩足を踏み出して、なおも声を張りあげた。
「み、みんなを虜にとか、そーいうのはともかく、十二支屋は私が繁盛させます! 絶対に潰しませんっ!」
「これは大きく出たね。……まあ、少々の猶予はあるし、そこまで言うのならお手並み拝見といこうじゃないか。私はそれまで客室でのんびりと、十二支屋喫茶のシュミレーションでもしていよう」
「横文字苦手なんですか。シュミじゃなくてシミュレーションですよ」
「ふふん」
やっぱり、抜けているのである。