その1 もう一人の主
こんがり焼きあがったベーコンの芳香が、鼻腔に届く。
半熟目玉焼きの黄身をたっぷりと付けて頬張れば、肉の旨味が口内に広がって、なんとも旨い。今朝は我ながら上手に作る事ができた。この味ならば、客にも満足して貰えるだろう。……そう勝手に解釈しながら、柊は味覚のない口で、ベーコンを咀嚼した。
朝食、である。
柊の朝食は、当然ながら客よりも後回しになる。まず客が食べ、次に眷属のうち朝食の気分を味わいたい者だけが自室で食べ、最後に柊が賄い料理を食べている。すぐ洗い物に取り掛からなくちゃいけないので、自分の朝食は台所で済ませた方が効率的なのだが、柊はあえて、空いている客室で食べていた。
「ちょっと、むなしくもあるんだけどね、あはは……」
乾いた笑いを漏らしながら、次々と朝食を口に運んでいく。
味覚をなくした直後の柊にとって、食事の時間は地獄であった。とはいえ、食事を取らないわけにもいかないので、せめてもの対策で考え付いたのが『気分』である。
朝日で輝く厳島神社の大鳥居を眺めながら食べる朝食は、風情があって良い。味は分からなくとも、食事を取り巻く情景で気分を味わう事ならできるのだ。特に十二支屋のような見晴らしの良い宿であれば、気分という味は格別だ。
だが、一ヵ月以上同じ光景を見ていると、さすがに食傷気味でもある。
(……そーなんだよね。十二支屋に来たのが五月の頭だから、もう一ヵ月以上になるんだよね)
朝食を食べ終え、膳を台所に運ぶと、室内には羊子がいた。足をばたつかせながら椅子に座っているのである。
「羊子ちゃん、今日のお客様、もう帰ったの?」
「うん、帰ったよ。朝ごはん美味しかった、って言っとったけえ、伝えに来たんよ」
「そっか。わざわざありがとね」
羊子に笑いかけながら、食器をシンクの中に置き、さっそく洗い物を始める。
伝え聞いた感想は、もちろん嬉しいものだ。曲がりなりにも料理人をやっているのだな、という実感も沸いてくる。
だが、それは自分一人で成し遂げている事じゃない。味見や調理補助を受けた上での感想だ。柊の味覚は、今日に至るまで、一向に回復する気配がないのである。
十二支屋で働いたから回復する、というものでもないのだが、生活環境の変化に伴う回復を多少期待していた柊にとって、この結果は肩透かしであった。
それに、どうやら自分が抱えている問題は、他にもあるのかもしれない。
判明したのは昨晩の事だった。ある料理に挑戦してみたは良いのだが、作りきる事ができなかったのだ。調理の最中に、忌まわしい記憶が蘇り、涙まで零れてしまったのだ。
母の死を乗り越えたつもりではいたが、もしかしたら、とんでもないトラウマが残ったままになっているのではないだろうか……、
「どーしたものかな……」
「ん。何か言うた?」
「あー、ごめんごめん、独り言だよ!」
慌てて羊子にそう告げる。
が、そこでふと疑問が沸いた。
「……あれ? ところで羊子ちゃん、そこで何してるの?」
「皿洗いが終わるの待っとるんよ。樹様が呼んどるけえ、一緒に行こう」
◇
浅野公則の自宅は、十二支屋から五分程丘を登った場所にある、鉄筋コンクリートの平屋だった。
距離としては大した事がないのだが、雨で石畳の階段が滑りやすいのを考えると、先日まで足を痛めて入院していた浅野には少々酷かもしれない。よって、樹の命令により、柊が午後イチで迎えに来たのである。
「ここじゃ、ここじゃ!」
羊子が、手にした傘ごと身体を反らして、玄関を見上げながらはしゃぐ。迎えに来れたのが、それほどまでに嬉しいのだろう。
浅野の復帰は、二人以外にも通達されたのだが、驚く事に十二支全員が同伴を希望していた。
大勢で押しかける必要もないので、結局はじゃんけんで勝ち残った羊子が同伴する事になった。勝ち残ったとは言っても、ぽかんとグーを出しっぱなしにしているところへ、他のみんながことごとくチョキを出しただけなのだが、とにかく同伴する事になった。
「ね。挨拶の前に聞いておきたいんだけれど、浅野さんってどんな人なの?」
「優しいお爺ちゃんよ」
「なら、いいんだけど。怖い人だったらどうしようかなー、って思ってるんだよね」
「大丈夫。あたしが保証するけえ」
あまり、アテにはできそうにない保証である。
多少の不安を覚えつつも、ここで引き返すわけにもいかず、柊は玄関のブザーを押した。
『どちら様でしょうか?』
「十二支屋の柊です。樹さんから迎えに行くようにと」
「あたしもいるよー」
『ああ、柊さんですか。話は聞いています。羊子ちゃんもいるようだね。ちょっと待っていてね』
インターホンから聞こえてきた声は、おっとりとしていた。
やや間があって、木製の扉がゆっくりと開かれ、浅野と思わしき人物が出てくる。
「はじめまして、浅野です」
「こ、こちらこそ、初めまして……」
「八犬さんからの手紙で、話は聞いていますよ。十二支屋を助けてくれているそうで、ありがとう」
浅野は、白髪交じりの髪をオールバックにした初老の男だった。出勤用なのか、パリッとしたスーツを着用している。細いフレームのメガネを掛けていて、中から覗く目付きは、やけに鋭い。顔だけ見れば、若かりし頃は美男子だったであろうナイスミドルなのだが、格好が相まって、インテリヤクザのような風貌に感じられた。
「お爺ちゃん、もう脚は大丈夫なん?」
「うん、大丈夫だよ。ありがとう、羊子ちゃん」
「なら良かった。みんな心配しとったんじゃけえ」
「出勤したら、謝らないといけないね。……だけど、その前にお菓子はどうかな?」
「えへへ、それを待っとったんよ!」
浅野の提案を受けた羊子は、万歳をしながら遠慮なく中へと入ってしまった。まるで、両親に隠れて祖父からお菓子をもらう子供である。
一方で取り残された柊が、どうしたものかと立ち尽くしていると、浅野は小さな微笑みを飛ばしてきた。
「柊さんも、いかがですか? 羊子ちゃんに付き合うとでも思って」
「でも悪いですよ、そんなの。それに私、ええと……」
確かに悪いという気持ちもあるし、味覚もないのだから、せっかくのお菓子が無駄になってしまう。
だがそれ以上に、初対面の大人の家に上がる状況に、緊張を覚えていた。
十二支屋の人なのだから、取って食われる、という事はないだろうけれども、だからといって落ち着くわけじゃないのだ。
「あまり固く考えないで構いませんよ。樹様が柊さんを寄こしたのも、少し話してこい、という意向があるのだと思います。それとも、お仕事が詰まっていますか?」
「いえ、そーいうわけじゃ……。じゃあ、ちょっとだけ、お邪魔します」
「どうぞ」
浅野の先導を受けて中に入ると、下足場も、板張りの廊下も、隅々まで清掃が行き届いていた。靴は綺麗に並んでいるし、ゴミの類はまったく見当たらないのだ。几帳面に掃除をする人なのかもしれない。
……几帳面。
そこで、柊はふと思いだした。
初めて十二支屋に来た時に見た冷蔵庫は、当時、唯一の人間従業員だった浅野が、賄いを作る為に利用していたものじゃないだろうか。その場合、柊の冷蔵庫式性格鑑定で弾きだした『折り目正しく大らかな性格』の持ち主は、浅野という事になる。
(……そっか。私、この人の事、知ってたんだな。うん)
なんだか、急に気が楽になった気がする。
ちょっと、質問なんかもしてみたくなる。
「浅野さんは、一人暮らしなんですか?」
「ええ、未婚ですので。でも、家族はいますけれどね」
「ご兄弟とか、ですか?」
「いえ、血の繋がった者もいませんね。十二支屋のみんなの事ですよ。十二支屋は浅野家が代々継いできた宿ですから、私も子供の頃から、みんなと一緒に暮らしていました。ご近所対策で、姿形を若返らせた者もたくさんいますが、中身は同じですから、十三人、丸ごと家族ですよ」
「なんとなく、分かります。私はまだ十二支屋で働いて日が浅いですけれど、確かにあったかい職場だとは思います」
「ええ、良い場所でしょう。……ああ、ここがリビングです。座って待っていてください」
浅野がそう言って、既に障子戸の空いている部屋を差した。
中は書院造の和室リビングで、木製棚に十二支の置物が飾られていた。部屋の中央にはちゃぶ台と座布団が置かれていて、羊子が、その座布団の上にちょこんと正座をしている。
彼女の隣に座ると、浅野はリビングを通過して、隣にあったキッチンへと向かい、緑茶と羊羹を用意してすぐに戻ってきた。
「どうぞ、召しあがれ」
「ありがとうございますー!」
「お爺ちゃん、あんがと。頂きますー」
まずは羊羹を、黒文字で手ごろな大きさに切って、口の中に運ぶ。
おそらくは、ずっしりとした甘みが口内に広がっているのだろう。その後で緑茶を飲めば、渋みと混ざり合って、これまた美味しいはずだ。隣の羊子の笑顔を見ていれば、その味は想像に難しくない。
雨が木々の葉を叩き、蛙が合唱する。そんな音色を聞きながら、和室で老人と茶や和菓子を頂く。なんとも絵になる時間を過ごしているのだな、と思うと、次第に柊も表情が和らいだ。
「……余計なお世話だったかな、柊さんの分も出したのは」
半分ほど食べたところで、浅野が呟くようにそう言った。
思わず湯呑を持つ手を止めて、その言葉の意味を考え込むが、答えはすぐに分かった。
「味覚の事も、手紙で聞いてるんですね」
「ええ。かと言って、柊さんだけにお菓子を出さないのも、どうかと思ったのですが……」
「お気遣い、ありがとうございます。確かに味は分かりませんけれど、放っておかれるより嬉しいです。それに、落ち着いた空間で甘味を頂く気分だけでも、悪くないものですよ」
「なるほど。食事の情景ですか。気に留めておきましょう」
浅野は何度か小さく頷き、自分の緑茶をすすって一呼吸おいた。
「……さて、少しお話があるのですよ」
「あ、はい。確かに事務的な話は保留になっていたんですよね」
「いや、そうではありません。もちろんそっちも対応しますが、今聞きたいのは違うんです。……柊さん、見たところ大分お若いようですが、このまま十二支屋で働き続けても良いのですか?」
一瞬、前職をクビになった時の会話が頭をよぎる。
だが、一瞬だ。
浅野の続く言葉が、すぐに記憶を押し流した。
「いや、もちろん私としては本当に助かっています。週に一人の来客が、最近では柊さんの料理のお陰で、二日に一人のペースになっているとか」
「あはは……確かにお客様は増えていますけれど、私の料理の力なのかな……」
「そうだと思いますよ。心から礼を言いたい。……ですが、ご存知のとおり、十二支屋は人外民宿です。私のように、代々樹様に仕えている人間ならまだしも、柊さんのように若い方が、人間社会との接点が薄い宿で働く状態が、本人の為なのだろうかと不安なのです」
「……それは、ううん」
なるほど、確かに浅野の話にも一理ある。
十二支屋のお陰で、味覚を失いながらも料理人としてのレールに戻る事ができたのだから、少なくとも今の自分にとってはメリットがある話だ。
だが、味覚を取り戻したら。
働く必要がなくなったら。
自分は、十二支屋を去るべきなんだろうか。
「誤解しないでください。決して、柊さんを軽んじているわけではありません」
「あ、大丈夫です! それは分かっていますから」
「であれば、良いのですが。……柊さんにとって最良の選択をして頂きたい。ただ、そう伝えたかったのです」
「ありがとうございます。もしかしたら、そのうち、相談に乗って頂くかもしれません」
そう告げて、しっかりと頭を下げる。
その言葉に安心したのか、浅野は軽く目礼を送り、また茶をすすった。
「この話に限らず、なんでも相談してください。他に人間がいなくて大変な事もあったでしょう」
「いえ、そーでもないですよ。ああ、樹さんには振り回されてますけどね」
「ははっ。それはどうしようもありませんね」
どうしようもないらしい。