03
ミルクパズル・プログラムの開発と震災孤児であることになんの関係性があるというのだろうか。答えはまったく見えてこない。五里霧中とはこのことを言うのだろう。
ミルクパズル・プログラムについての疑問は深まるばかりだ。それに、ミルクパズル・プログラムの続きが何処へ向かえば良いのかも分からなくなってしまった。
瑞浪あずさがここに居るとは思ってはいなかった。
だが、三橋教授が言っていたフクシマにほんとうに彼女は居るのだろうか?
また幻影がぼやけて私たちを何処へ誘うか踊っているだけに過ぎないのではないか?
「どうなさいましたか、信楽マキさん」
言ってきたのは、国連のアムス・リーデッドだった。アムスは私の心情を理解しているのかしていないか分からないけれど、ハンカチを差し出してきた。
「何、このハンカチ」
「今使う場面かな、と思いまして」
「馬鹿にしないで。私はいつも通りよ。いつも通り。そう、いつも通りなんだから」
「なら、別に問題ないのですが」
ハンカチを仕舞って、アムス・リーデッドは話を続ける。
「もしあなたの精神状況が悪くなっていくようなら、捜査を止めるように国際記憶機構の拝下堂マリアから言われているのですよ」
「どうせ自分で出てきやしないのに、そういうところだけはきちんとしているのね」
「日本という国は法律を遵守する国として有名ですからな。良くも悪くも」
日本という法治国家は数十年前に、労働者の大量自死を経て、『最も健康な国』であることを目指した。その第一歩となるのが記憶の洗浄である。嫌な記憶があったらそれを洗い流してしまおうというプログラムで、それを受けることでストレスが五割から七割減少すると言われている。まあ、私からしてみればそんなことより人間が変わらないと何も意味が無いと思うのだが、そこまで強く言えないのもまた日本らしいと言われればそれまでの話だが。
「一度、私も記憶洗浄を受けたことがあるよ。あの気持ち悪い感覚は何度しようと忘れることが出来ないものなのだろうな。或いは脳が受け付けてくれやしないのかもしれない」
「……そうですか。私は一度も記憶洗浄を受けたことがありませんから、はっきりと見えてきませんが。出来ればその機会が訪れないことを祈るしかありませんね」
こうして、三橋教授との会話は終わった。
そして次の目的地も自ずと決まっていった。
「向かうわよ、アムス・リーデッド」
「どちらへ?」
「あなた、さっきの教授の話を聞いていなかったの? フクシマよ。超科学によって発展を遂げた世界随一の医療都市、フクシマへ」
目的地が決まった。
後はそこに瑞浪あずさの痕跡が残っているかどうか、だ。
◇◇◇
十年前。
瑞浪あずさが死んでいく姿を目の当たりにしたのが、私の最後に涙を流した時だと記憶している。
もっとも、記憶は完全なものではない。誰かに植え付けられたものなのかもしれないし、忘れ去られたものからそのように自動的に解析されたものなのかもしれない。いずれにせよ、記憶として残っている私の最後の涙が、瑞浪あずさが自死した時だった。
あれほど、自らの感情の堰を切ったのは珍しいと思う。
あれほどに、自らの堰を取っ払ったのは初めてだと思う。
だからこそ、私の記憶に残っているのかもしれない。
彼女が死んでしまった時、そのときの記憶が。
◇◇◇
フクシマは二〇一一年に起きた東日本大震災、同時に福島第一原子力発電所の爆発により、甚大な被害を受けた。今でさえ、殆どの人間が家を持つことが許され、土壌の汚染も少なくなってきていたが、地震が起きたばかりの頃というのは、ほんとうに復旧出来るのかという疑問すら浮かべてしまうほどの被害だった。
「久しぶりに来たけれど、ここが十数年前に震災が起きた場所だとは思えない……」
「それ程に、科学の進歩は進んでいるということですよ。信楽マキ監査官」
声をかけられて、そちらを振り返ると、白髪の眼鏡をかけた女性と目が合った。
「あなたが、この研究施設のリーダーを務めている、住良木アリスさんですか?」
「アリス、とお呼びください。これでも年齢はあなたとそう離れていないはずですから」
「そう、ですか。ではアリスさん、早速議題に入らせていただきたいのですが」
「それよりも先に、あなたは知らなくてはならないことが幾つかあります」
「……幾つか?」
「先ず、脳科学記憶定着組織ワーキンググループはどうして誕生したか、についてです。これはあなたも知らなかったのでは無いでしょうか? 突然、脳科学記憶定着組織ワーキンググループという名前が出されたけれど、やっている内容は寧ろその逆の行為を行っている。それについて何か疑問を抱かなかったのでしょうか」
「疑問を抱かなかった、と言われれば嘘になります。確かに疑問は抱いていました。どうしてそのような名前のワーキンググループが、ミルクパズル・プログラムの開発に手をつけることになってしまったのか?」
「何処からの意思が働いているのではないか、なんてことも考えたのではありませんか?」
くすり、と笑みを浮かべた彼女の表情はまるで悪魔か何かだった。
彼女の話は続く。
「ご安心ください。この施設は国が原子力を無力化させるために開発した機構であり、脳科学記憶定着組織ワーキンググループとはまったくの別物。私はこの機構で働いている一研究員に過ぎないのですから」
「ならば、どうしてあなたは脳科学記憶定着組織ワーキンググループに所属することになったのですか?」
「……ワクワクするものがそこにあったから、とでも言えば良いでしょうかしらね」
「何ですって?」
「そんなことを言ってしまえば、人間への冒涜に繋がるのは間違い無い。それは私も知っていますし、理解しています。けれど、それはどうしても耐えられるものではなかった。私にとって、ミルクパズル・プログラムは悪魔の証明であることを理解しておきながらも、証明しておきたかったプログラムなのですよ」
「全人類の記憶を消し去ることになったとしても……ですか!?」
「ええ。全人類の記憶を消し去ることになっても、そこから生まれる副作用が魅力的でした」
「副作用?」
「人間を思うがままに操ることの出来る機能。そして、人間の『意識』を個ではなくまとめておいておくことの出来る意味。あなたなら、そこまで言えば何の意味か理解できるのではないでしょうか?」
「人間を……人間を、ロボットと変わらない価値観に持って行くつもりで居たというの!? 瑞浪あずさは!」
「その可能性は、捨てきれない」
ばっさりと、あっさりと、切り捨てていく。
研究者というのはこういうにんげんだということを思い出させてくれる。
「少なくとも、彼女は悪魔ですよ。一緒に居た我々が見てそう判断するのですから、当然でしょう。彼女は人間の死をなんとも思わない、悪魔みたいな存在なんですよ」
「人間をロボットのような存在にして、何か意味があるのでしょうか」
「意味? あるのかどうかすら分かりませんよ。いずれにせよ、私たちは彼女の考えた計画が素晴らしいものだと判断していたから研究を進めていただけに過ぎない。それを考えられ場、私たちだって悪魔と変わりないのかもしれませんがね……」
悪魔と変わりない。
その言葉の意味を深く噛みしめていた。
確かにその言葉に偽りは無いのだから。
その言葉に偽りも無ければ正しいことだけしか述べていないのだから。
「……私たちは間違っていることをしてしまいました。裁かれるべきでしょうか? でも、今行っていることは立派なことです。この原子力に侵されてしまった土地、フクシマを僅か数年で無力化してしまいましたよ」
「それについては立派なことだと思っています。ですが、ミルクパズル・プログラムの開発とこれは話が別です。私は、脳科学記憶定着組織ワーキンググループの全員を逮捕するまで動き続けるつもりですから。勿論、瑞浪あずさも含めて」
「だとしたら、急いだ方が良いのかもしれないわね?」
「何です、って?」
「ミルクパズル・プログラムは既に完成している。そのコードキーはあの子の手に渡っているわ。あとはあの子が起動するのを待つばかりなのだから」
「何ですって!? でも、未だミルクパズル・プログラムは起動していない。ということはつまり、」
「躊躇っている。彼女の何処かで、未だ躊躇している部分があるということになるわね。できる事ならさっさとやってもらって研究の成果を明らかにして欲しいものだけれど」
「でも研究の成果が明らかになっても、あなたがそれを自覚することはない。人間の意識は一つになってしまうのだから!」
「そう。人間の意識は一つになってしまう。さて、ではここで問題。意識が一つになるのなら、その意識は誰のものになる?」
「何を、言って……」
「答えは、誰のものにもなりゃしない。ごちゃ混ぜになってしまった意識は、誰のものにもならないの。不思議な物ね、人間の意識というのは」
「ミルクパズル・プログラムを使えば、少なくともBMIを使っている人間の意識は消失する」
「けれど、BMIの外に住まう人間も少なからず存在する。彼らは『救済』の対象にはならない」
「救済? ミルクパズル・プログラムで記憶を消去し意識を統一することの、何が救済だと言いたい訳?」
「救済だよ。それは紛れもない事実だ。我々は瑞浪あずさを神として一つの宗教を作りたかったのかもしれないがね」