02
東京大学にやってきたのは、初めてのことだ。赤門を潜ると、何処か神聖な雰囲気を纏わせてくれるような、そんな感じに包まれた。
東京大学なんて滅多に来るような場所じゃないしな、と私は考えながら総務課がある場所へと向かう。正直言って、学生以外の人間が入っているのは目立つ。一応電話連絡で事前に学校に入る旨は伝えているけれど、この雰囲気が気持ち悪い。さっさと正式な許可を得ておきたいところだ。
総務課に到着して、私は国際記憶機構の調査に来たと伝えると直ぐに三橋教授の部屋へと案内してくれた。
「失礼します」
ドアをノックして、中に入る。
中は書類やら本やらが山積みになっていて、一種のゴミ屋敷と化していた。足のやり場もないくらいだ。いったいどうやってここで活動しているのか――などと考えていたのだが、
「初めまして、と言うべきかな。信楽さん」
部屋の奥にある椅子に腰掛けていたのは、白髪の男性だった。白衣を着用していて、何処か清潔な風貌に見える。しかしこの部屋にそのような風貌で居ると逆に浮いているような気がして、どこかおかしかった。
「どうかしましたかな。この服装に何か問題でも?」
「いえ、何でもありません。それよりもお聞きしたい事があるのですが」
「瑞浪あずささんのことですね?」
「……ええ。ご存知でしたか」
「国際記憶機構の人間がやってくる、という時点でなんとなく察しはついていましたよ。ああ、私にもついにやってきたのだな、と」
「ということは、悪事を働いていた自覚があるのですね?」
「あれを悪事だと思わないで、何が悪だ。もっとも、それに協力してしまっていた時点で何も言い様がないのだがね」
「教えてください。あなたはいったい、何をしていたのですか」
「……三年前。我々東京大学、ペイタックス・ジャパン、オレンジ社、そして脳科学記憶定着組織ワーキンググループの四者は共同研究を開始した。理由は、人間の記憶を自由に消すことが出来るプログラム、ミルクパズル・プログラムの研究だ」
「それは知っています。でも、結局はそれは未完成に終わってしまった、と」
「終わってしまったのではない。終わらざるを得なかったのだ。だから、結果的に研究も未完成のまま終わってしまったのだ」
「ミルクパズル・プログラムが未完成に終わってしまった、その理由をあなたは知っているのですか?」
「知っているとも。何せ、ミルクパズル・プログラムを終了するよう提言したのは私なのだからね」
「……何ですって?」
「ミルクパズル・プログラムは、ただの人間の冒涜だ。いいや、それだけでは済まない。それだけでは済まされない! あれには非常に彼らに益のある副作用があったのだ」
「副作用?」
「ミルクパズル・プログラムを適用した人間の脳は空っぽになる。しかし、その後の人間はどうなってしまうか? 例えば、『決められた記憶』をインプットしてしまえば、使い捨ての兵器として成り立つのではないか?」
「……何を」
「実際に、そんなことを考えていたのだよ。脳科学記憶定着組織ワーキンググループは」
「いや、正確に言えば、人間の意識を消失させることが出来るということは、人間の意識を操ることが出来るのではないか? ということにも繋がってくる。人間の意識を消失させることに、何の意味があるのか? 分からなかった我々にとって一石を投じたのも又、彼女だった」
「ミルクパズル・プログラムとはいったい何だったのですか! いったい誰が何の利益を得るために……」
「答えはもう見えているのではないかね、国際記憶機構の監査官よ」
答えはもう見えている。
三橋教授はそう言って、私の言葉にはそれ以上答えを出してはくれなかった。
ミルクパズル・プログラムは副作用に人間の意識を操作する力を持っている。
もし、そんなプログラムを誰かが、そう誰でも良い、誰かが起動に成功してしまったら――。
「BMIが埋め込まれている七十億人もの人類の意識が一瞬にて消失する……?」
それは、テロ行為の何物でもない。
「失敗は数多く存在していた。長期記憶のデータだけを消すことを良としていた脳科学記憶定着組織ワーキンググループと、長期記憶を保管している場所を破壊することで良としたペイタックス・ジャパンとの決裂もあった。その後ノウハウのみを吸収してペイタックス・ジャパンは解雇された。きっとそこには彼らの行く道とは違う道が見えていたのだろう。だから、彼らには抜けて貰った。抜けて貰うしか道がなかったのだ」
「抜けることで何かデメリットが生まれたことは?」
「ない。強いて言うなら、薬剤関連の知識を我々自身で持たねばならないということぐらいだったろうか。それはいずれ我々がやらなくてはならないことだったし、些細な問題であったことには間違い無いだろう。問題は、」
「問題は?」
「彼らが情報を漏洩する可能性がないかどうか、だった」
「……!」
確かに、それもそうだった。
このミルクパズル・プログラムは、何処からか漏れてしまえば国家反逆罪で逮捕されかねない事案だ。その事案を国が、警察が、放置しておくはずがない。
しかし、今まで私は名古屋、ペイタックス・ジャパンと、瑞浪あずさが残してきた軌跡を追ってここまでやってきている。それは、どうしてだ?
「最終的に、瑞浪あずさが否定した。いずれ、ここにたどり着く存在がやってくるはずだ、と。それまでこのデータを守り通すこと。それが我々の使命であり、我々の運命である、と」
「つまり、瑞浪あずさは……私みたいに、追いかける人間が出てくることを最初から予測していた、と?」
「ええ、そういうことになるでしょうね」
瑞浪あずさは私みたいな人間がやってくることを最初から予測していた。
だからわざわざピースをヒントのように隠していたというの?
三橋教授の話は続く。
「彼女は完璧そのものだったよ。彼女が書いた理論は研究者を心酔させるものだった。それでいて、彼女そのものにもリーダーシップというか、カリスマというか、そういうものがあったよ。問題なんて何一つなかった。彼女がリーダーとしてミルクパズル・プログラムを開発していたようなものだったからね。普通ならば、二十代の若人にそんな現場を任せることなんて出来やしない。けれど、彼女のカリスマ性には誰も叶わなかった」
「つまり、彼女が居なければミルクパズル・プログラムの開発も進まなかった?」
「そもそも、ミルクパズル・プログラムなんて考えはみじんも浮かばなかっただろうね。人間というのは珍しいもので、じゃあその本体をとっかえひっかえしてしまえば良いのではないかと思ってしまうけれど、実際やってみるととっかえひっかえしたところでその意味がないということに気づいてしまうんだ」
「ミルクパズル・プログラムは結局、完成したのかしら?」
「いいや、少なくとも僕が滞在している時までは完成していなかったよ。そもそも、もし完成していたらあんな『不完全な』ものを実験に使おうとは思わない」
「不完全なもの……、やはりあれは未だ完成していなかった、ということなのね」
「完成していれば、彼らはとっくにそれを使っていただろうよ。使わなかったのは、使おうとしなかったからじゃない。使えなかったからなんだ」
「使えなかった、だけ……」
私は、三橋教授の話を反芻する。
その言葉の意味を、理解できていなかった訳ではない。
理解しきれなかった訳でもない。
ただ彼女が何をしたいのかが、分からなかった。
彼女が何をしたいのかが、見えてこなかった。
「彼女が何を考えているのかは、我々にも分からなかった。だから、我々は気味悪がっていたのだよ。彼女の存在を。彼女がほんとうに必要なのか、という意味を。けれども、彼女が居なければ何も出来ないということは紛れもない真実だった。だからこそ、彼女を使うということが紛れもなく不本意ではないということははっきりと言わせて貰おう。我々大人の都合に彼女を合わせてしまったのかもしれない。今思えば、ほんとうに申し訳ないことをしてしまったのかもしれない……」
「なら、あなたがやったことを国際記憶機構の監査に流しなさい。それと、あなたが知っているならで構わないのだけれど」
「?」
「瑞浪あずさの場所は何処か教えなさい。先程瑞浪あずさから連絡があってね、ここを訪ねなさいという指示があったのよ。ということは、あなたが瑞浪あずさへ繋がる何かを知っている。いや、知らない訳が無い。教えなさい、瑞浪あずさは今、何処に居るの」
「私は知らない。ほんとうに、ほんとうに知らないんだ!」
「嘘よ!! 瑞浪あずさは、あなたを指名した。ということは、あなたと脳科学記憶定着組織ワーキンググループの繋がりを示唆しているはず!」
「脳科学記憶定着組織ワーキンググループ……ああ、懐かしい名前だ。だが、もうとっくに僕は辞めているよ。そのワーキンググループからは離れている。強いて言うなら、ワーキンググループが今も活動の拠点にしている場所を知っているぐらいだ」
「それはいったい何処なの!? 教えなさい!!」
「慌てることではない。……世界の医療都市として人気を博している、フクシマだ」
「フクシマ……どうしてあの都市に、脳科学記憶定着組織ワーキンググループが?」
「さあな。ただ、瑞浪あずさは孤児だと聞いたことがある。震災孤児、だそうだ」
「震災孤児?」
フクシマと震災を繋ぐもの。それは二〇一一年に起きた、東日本大震災だろう。未だ記憶には新しいが、復興は完全に進んでおり、最早その面影を残していない。
それと彼女にそんな関係性があったなんて、知らなかった。
三橋教授の話は続く。
「きっと、君は知らなかったのだろうが……、彼女は震災孤児であることをかなり憂いていたよ。それをどう思っているかは別として、だがね」
「憂いていた……彼女が?」
そんなこと、私と一緒に居たときは一言も話したことなんてなかったのに。
「……話したことがないというよりは、話す必要が無かったのではないかな?」
「話す必要が、無かった?」
「そう。話す必要が無かった。だから、彼女は自分が震災孤児であることを説明しようとはしなかった。けれども、我々には何故ミルクパズル・プログラムを開発しようとしているのかというところで、自ら語ってくれたよ。自分が震災孤児であり、震災の記憶を忘れ去りたいからこのプログラムを開発したのだ、と」