01
記憶。
それは儚い物。
記憶。
それはいつ消えるか分からない物。
世界は、科学進歩が発達しても――人間がかかる病気を完全に止めることは出来ない。
原因は不明。症状は記憶が消えていくこと。やがて自分のことも忘れてしまい、呼吸することも忘れてしまったその先にあるのは、死だ。
すべてを白に埋め尽くすその病は、白いパズルからこう名前が取られている。
ミルクパズル症候群、と。
時を同じくして、ミルクパズル症候群に対抗するために、記憶のバックアップが可能になった。これは人間の電気信号を科学的に解析することが出来たためである。
(記憶をバックアップすることによって、大人は記憶が消える恐怖から逃げ出した)
いや、正確に言えば。
(記憶をバックアップすることによって、人間の記憶をサーバで管理することが出来る)
(人間の記憶を管理することで、BMIによって管理されることで、人間が管理される時代がやってくる)
(人間の記憶を電気信号で解析できる事によって、人間の記憶を偽装することが簡単にできるようになる)
大人は、恐れてしまって、子供にもBMIを埋め込むようになっている。
いつしか大人になってしまえば、定期的にBMIを経由してバックアップを取ることになる。
それは、とても嫌だった。
「記憶は消えてしまうのだから、ミルクパズル化に抗うことなんて無いんだよ」
彼女と私の出会い、そして、別れ。
これは、別れるまでの物語。
「記憶は消えてしまうんだ。だから、抗う事なんて無い。大人は管理したがってるんだよ。私たちの記憶を」
彼女はそう言って、私のベッドに横になる。
「あなたはどう思う? 信楽マキさん」
そうして。
物語は始まる。
再会は、ミルクパズルのように真っ白で。
別れは、何かのジグソーパズルを叩きつけたように、バラバラに消えてしまう。
それが、私の物語だった。
◇◇◇
ブレイン・マシン・インターフェース。
人間の脳に流れる電気信号を解析して外部媒体に流し込むための、特殊な様式のことを言う。
私は、頭の後ろにある接続端子からケーブルを抜いて、首に接続されている蓋を閉めた。
「はい。これでバックアップは完了ですよ。お疲れ様でした」
私、信楽マキは、今医師としてBMIを用いた記憶のバックアップを進めている。
一日にバックアップをする人間の数は、日によって変わるけれど、二十人から三十人弱。
これでも大きい病院では少ない方だと思う。
大きい病院では百人を超えることも少なくないし、複数人の記憶科の医師が待機しているのだ。
私は、この病院で唯一の記憶科の医師であり、記憶バックアップ技術を用いてバックアップすることが出来る唯一の人間である(記憶バックアップ技術を利用するには、免許が必要であり、その免許を取得するためには、取得率七・五パーセント程の高難易度の試験をクリアする必要がある)。
「ふう……今日はこれでお終いかしらね」
時間を見ると、午後七時を回った辺り。
明日は木曜日で、休診日となっている。私にとっては日曜日と木曜日の休みが数少ない休める時間であり、その時間を有意義に使っていこうと思っていたのだが――。
ふと、白衣に入っているスマートフォンが震動する。
「ん? 何だろう、誰からかな。こんな時間に連絡なんて」
見るとSNSからの通知だった。友人である秋葉めぐみからの連絡であった。
秋葉めぐみは高校時代の友人であり、大学は一緒の大学に進まなかったものの、ずっと連絡を取り続けた数少ない友人であった。
「久しぶりに食事でもどう、か……」
私は明日か日曜日なら空いているけれどどうかな、と言った。
そして直ぐに返事が返ってくる。仕事が終わったのかな、そっちは。
「明日なら空いてるよ、か」
私は、だったら明日、近所の駅で待ち合わせしようという旨の連絡をして、スマートフォンを白衣に仕舞った。
なんやかんや、一年ぶりぐらいに会うことになる。新年会も忙しくて行けなかったし。
だから、私は明日の食事がとても楽しみになってきていくのだった。
◇◇◇
「ねえ、信楽マキさん」
その日の夜、私は夢を見た。
高校時代の、仲が良い三人組での会話だ。
信楽マキ、秋葉めぐみ、そして、瑞浪あずさ。その三人の会話は、いつも昼休みをメインにしていた。高校の屋上という誰もやってこない空間が、私たちにとってのパーソナルスペースだった。
「あなたは、記憶が消えてしまうことについて、どう思う?」
「記憶が消えるのは……嫌だよ。だからバックアップ技術が発達しているんじゃ無いの?」
「人間が記憶できる量ってどれくらいあるか知ってる? 一ペタバイトだよ。MP3の楽曲を二千年間連続して再生できるぐらいのボリュームがあるんだ。勿論、合理的に記憶出来れば、という条件が付加されることになるけれど」
「一ペタバイトあれば、充分ってこと? 一ペタバイトが具体的に分からないけれど」
一ペタバイトと言って、どれくらいのボリュームなのか想定することは難しい。
だから、私はそう言ったのだと思う。
けれど、瑞浪あずさは告げる。
「一文字二バイトだから、一ペタバイトは……十の十五乗割る二の数だけ文字数なら入力して保管することが出来るかな。勿論、それがどれくらい出来るかって話だけれど。例えば、サヴァン症候群の人なら、車のナンバープレートをいくらでも覚えられるって話があるけれど、彼らはその代わりに様々な日常茶飯事に行えることが出来なくなる。だから、意味が無いと言えば意味が無いかもしれない。健常者にはできる事は、思った以上に少ないってことなんだと思うんだ」
一息。
「だから、別に恥ずかしい事なんて無いんだよ。記憶を失う事なんて。それから新しい記憶を生み出せば良い。ただそれだけの話」
「でも、それがどれ程難しいか。ミルクパズル症候群にかかってしまったら、呼吸すら出来なくなってしまうんだよ」
「だったら教えれば良いんだよ。何度だって。何度でも」
「そんなこと……!」
「出来ないと思う?」
瑞浪あずさは一歩前に近づいた。
「宣言してやるんだよ。記憶は、誰に弄らせるものでもない。その記憶は、自分自身のものだって。BMIを使って記憶をバックアップする? そのバックアップする時に記憶を操作されない保証は無い。あなただって、それは分かるでしょう?」
「それは……」
保証は出来ない。かもしれない。
けれど。
「でも、やっぱり、おかしいよ。それは、認められるべきことじゃ無い」
「ふうん?」
瑞浪あずさは小首を傾げる。
「……だって、記憶が弄られるかどうかも分からないのに、安直にバックアップ技術のことを否定するのは間違ってる。間違ってるよ、あずさ」
「でも、弄られないという保証も無いでしょう?」
それは。
その通りだった。
「私はそのままで生きていたい。記憶を弄られるなんてまっぴら御免よ。あなたもそう思うでしょう? 信楽マキさん」
「私は……」
ピピピピ、と電子音が聞こえて、空間がかき消される。
次に目を覚ますと、そこは私の部屋だった。
「夢……か。それにしても懐かしい夢を見た物ね……」
彼女、瑞浪あずさは私たちと同じように高校を卒業していれば、きっと一流の大学に進学していただろうし、きちんとした一般企業に勤めることも出来たと思う。
彼女は珍しくBMIを埋め込まれていなかった。私と秋葉めぐみはBMIを既に埋め込まれていたから、いつでも記憶のバックアップが可能だったのだけれど、記憶のバックアップは危険を要するため、十八歳以上にならないと実施出来ないという決まりがあった。それ以外にも様々なルールが決められていたような記憶があるけれど、寝起きの頭ではそれを思い出すことも難しい。せめて少し時間が欲しいものだ、と思ったところで――。
「ああ、そうだ。今日は……めぐみと食事に行く日だった」
それを思い出した私は、いそいそと準備を開始する。食事は昼なのだけれど、ショッピングでもしてから、食事にしようという決断に至った訳である。という訳で、出る時間は昼の時間よりかは少し早めになる。
起き上がり、私は準備を進める。遅刻することは無いけれど、時間に余裕を持って行動すること。それは私の中のポリシーになっていた。ってか、当たり前か。
ショッピングモールの中心にある時計台。
そこが待ち合わせ場所だった。そこで待っていると、白いワンピースを着た女性が私に近づいてきた。間違い無い、秋葉めぐみだ。
「久しぶりだね、一年ぶりぐらいかな」
「そうだった、と思う」
私は特に気にしていないけれど、彼女はどこか気にしている様子だった。
「あのね、今日はたくさん買い物して、たくさん楽しもうね。色々と話したいこともあるんだ」
「……分かったよ」
こうして私たちはショッピングを開始するに至ったのだった。
ショッピングも終わり、時刻は昼過ぎになっていた。
「そろそろお腹も空いたし、どこかお店に入ろうか」
「そうだね。でも、この時間だとどこも混んでるし」
「そう言うと思って、予約しといたんだ! 美味しい中華料理のお店だよ。中華料理、大丈夫だよね?」
それならそうとはっきり言ってくれれば良かったのに。
私はそうは言わなかった。
そう言うと彼女が悲しむかな、と思ったから?
それもそうかもしれない。
けれど、私の中では特にそんな感情を抱いたつもりは無くて。
ただ一年ぶりに再会した友人と少しでも長い時間を過ごしたいという思いがあったのかもしれない。
「……それじゃ、向かおうか」
そうして。
私たちは秋葉めぐみが予約しておいたという中華料理店へと向かうのだった。
中華料理店で、私たちは麻婆豆腐を注文した。何でも、このお店で一番の人気のメニューらしい。辛いのは嫌いでは無いけれど、好きでも無い。だからお店の中で一番甘い辛さ(何か矛盾しているような気が見えてくるけれど)を選択した。そうしないともしやってきた料理が食べられなかったら、それはそれで困るものね。
そうして。やってきた料理を食べながら、私たちは歓談していた。
「……そういえば、マキ」
「どうしたの?」
「あずささんのこと、覚えてる……?」
「……ああ」
忘れてはならない。
忘れてはいけない。
自ら、記憶のバックアップ技術を拒否した彼女。
自らの手で、記憶のバックアップ技術を身体の中に入れることを拒否した彼女のことを、片時も忘れることは無かった。
「……ふと、私も昨日思い出してね。それで、一緒に、マキのことも思い出したんだ。ほら、マキ、病院に勤めているでしょう? だから忙しいんじゃないかな、って思ってさ」
「忙しいけれど、福祉厚生はきちんとしている。ま、日本国の良いところかもしれないけれどね。金も無いくせにいっちょ前の法律は構えているものだから」
「だったら、良いんだ。だったら、良かった……」
「……めぐみ?」
「私はね、マキ」
めぐみは持っていたスプーンを手に取って、
それをBMIを隠す為に覆っていた皮膜に突き刺した。
がりがり、ごりごり、という音が響き渡る。
「何をするつもりなの、めぐみ!」
私はそれを止めようと、彼女の手を取ろうとする――が、遅かった。
刹那、彼女の呼吸は停止していた。
脈を測ると、脈も止まっていた。それは、心臓が血液をポンプ代わりにしているという記憶を忘れてしまったから。
ミルクパズル症候群の末期症状だった。