十二話
でも、本気で怒ったことは一度もなかった。なんというか怒ることができなかったのだ。アルファルドの無邪気さが伝わってくる。しかしその無邪気さも、今考えればアイツなりの気遣いだったのかもしれない。
なんとなくだが私はそれをわかっていた。だからアルファルドとはあの距離感を保てたのかもしれない。なによりも私はあの暮らしが好きだった。今までなかった優しさに触れ、暖かさの中での暮らしが心地よかった。これが「普通の暮らし」なのかもしれないと思った。
いや違う。なによりも楽しかったのだ。嬉しかったのだ。どんなくだらない日常、どんなくだらないやりとり、どんなくだらない関係でも、自分を必要としてくれていると感じていたからだ。
ここが自分の居場所だったらどれだけよかっただろうと考えてしまったからだ。
私がいろいろと考え込んでいると、神様は嬉しそうにアゴヒゲを触っていた。そしてゆっくりと口を開く。
「ここでお主に取り引きを持ちかけたいわけだ」
「急になに……?」
「そういう蔑んだ目を向けるんじゃない。まあ嫌いではないが」
「ただの変態じゃないの」
「男なんてそういうものじゃ」
「いらない情報をありがとう。で、どういうことなの、取り引きって。私に利がある取り引きなんでしょうね」
「でなきゃ持ちかけんわい」
神様はテーブルの上にコインを並べた。その数九枚。
「このコインは見たことあるかのう?」
「見たことないわね」
「ちなみにこれは今までアルファルドが集めたコインじゃ。これを十枚集めることでワシが願いを叶えるという約束をした」
「どうでしょうもない願いなんでしょうね」
少しだけ、神様が悲しそうな顔をした
「アルファルドが望んだのはお主の体質のことじゃよ」
「なんで私が出てくるの?」
「このコインはあと一枚でお主の魔王特性を消し去ることができるんじゃ。それがアルファルドの願いじゃからのう」
「アイツが? なんでそんなことを?」
「それは自分で訊いてみたらいい。でじゃ、もしアルファルドが死んだとしても、お主一人でワシからのクエストをクリアすればコインを一枚授けよう。つまり、この九枚はお主に進呈する」
神様が右手を前に出すと、コインは自然と縦に積まれて私の前に置かれた。
「それが一つ目の提案。そしてもう一つが、そのコインを今消費して力を得るという選択肢。お主のレベルを一時的に倍にしてやろう。しかしお主のレベルが倍になったところで勝てるかどうかと言われると敗色の方が濃厚じゃ」
神様はニヤリと笑い腕を組んだ。
「良いか、これはお主が自分で考え、自分のために答えを出すんじゃ。導いてくれる者も、手を取って共に考えてくれる者もおらん」
そんなの前者を選ぶに決まってる。アルファルドはずっとそのためにコインを集めてきたんだ。それならば最後の一枚を自分で貯めて人間になるべきだ。人間になれば私は普通の人生を送れるんだ。魔族と関わることもなく、仕事をして、誰かと結ばれて、子供を設けて、老いて死ぬのだ。
しかし、その人生には誰かがいないのだ。
「私は――」
その人生は、本当に私の物なのか。
「私は、アルファルドを助けたい」
考えられないのだ。あの男がいない人生など。後戻りなどできないのだ。周囲に誰もいない、あんなくすんだ鈍色の人生など。
そうだ、彼が私の人生に彩りを与えてくれたのだ。楽しいこともムカつくこともたくさんあった。昔の辛い記憶だって、きっといつかは笑い話にできるはずだ。
「全部、アルが教えてくれたんだから」
彼が私を助けてくれたように、今度は私が助ける番だ。
「二言は、ないな?」
「あるわけない。戦うなら二人で戦う。一人でなんて死なせてやるもんか。勝手に人を救っておいて一人だけ死ぬなんて許されるわけない。そんなの許してやるもんか」
そうだ。死ぬなら、二人で死ぬのが筋というものだ。
「その意気やよし」
神様がテーブルを強く叩いて立ち上がった。コインが揺れて倒れそうになるが、倒れる前に空気に溶けて消えていった。
「制限時間は約二時間。その間になんとかせい」
体がどんどん暖かくなってきた。頭もぼーっとしてきたし、これはおそらく目覚める予兆だろう。
「体の痛みや発熱も二時間の間は抑えておくぞよ。まあ、ワシの優しさっていうやつじゃのう」
神様は「ほっほっほっ」と笑いながら長いアゴヒゲを触っていた。
体が浮き上がり上空へと登っていく。
「ありがとう!」
「礼などいらん。が、最後におじいちゃんと言ってもらえるかのう」
「ありがとう! おじいちゃん!」
神様は嬉しそうに微笑みながら手を振っていた。
そして、私の意識は浮上していく。急にめまいのような現象に襲われた。