失楽園の英雄とバケモノの男
「ねえ、ラジエル。どうしてうちの高校の図書館に居たの?」
なんてことはない。
それは気まぐれで口から出た質問だった。
天使ラジエルといえば伝説の書物「ラジエルの書」の著者であり、
座天使の長で、七大天使の一人である。
あまり詳しいことは分からないが、相当高い地位にいる天使らしい。
そんな偉い天使が、なぜ人間世界、しかも高校の図書館にいるのか。
翔の質問に、今までテレビを見ていたラジエルの表情が強張ったのが目に見えて分かった。
そろりとこちらを窺い見るように振り返った少女は、
もごもごと口を動かして言葉を発することをためらっているようにも思える。
「あ、えっと、言いたくないなら言わなくていい。
そこまで気にしているわけでもないから」
正直こんな態度を見せられるとさらに気になってしまうのだが、
この小さな天使を困らせる気は毛頭ない。
さっきの質問忘れて、と翔が言うと、ラジエルはそっと傍に置いてあった分厚い本の表紙を撫でた。
まるで本と会話しているような姿に、翔は思わず見入ってしまう。
「……いえ、言うべきなのです。ラジエルさんがなぜ人間界にいるのかを」
ふ、といつもの少女の表情を消したラシエルは、正座をすると翔に向き直る。
突如その場を支配する緊張感に翔の喉が鳴ると、彼女は決心したように口を開いた。
「ラジエルさんは、ラジエル『見習い』なのです」
「……見習い?」
彼女の話をまとめると、こうだ。
翔や世間一般が知っている伝説の書物「ラジエルの書」の著者は、
初代ラジエルが書いたものなのだという。
しかし初代ラジエルは周りに理由を明かすこともなく、
己の弟子である現在のラジエルにその名を与え、現役を引退したのだ。
つまり彼女は「二代目」天使ラジエルなのである。
もちろん周りの高名な天使たちが彼女を最初から受け入れるわけがなく、
ふさわしい力と心を身につけるまで人間界で様々なものを見聞せよと使命を与えた。
だが幼い天使一人では心配だと判断した他の天使たちは、
もう一人お目付けをつけ人間界へと下ろした。
そのお目付け役というのが、よく話に聞く「失楽園の英雄様」らしい。
「学校は毎年出会いと別れがあります。
だから見聞するにはちょうどいいだろうと失楽園の英雄様からアドバイスをいただきました」
「失楽園の英雄様、ねえ」
ラジエルの件は今の話で大体わかったが、
失楽園の英雄についてはまだ謎が多い。
翔なりに色々調べてみたのだが、検索に引っかからず、
ラジエルに聞いても言葉を濁して決定的なことは話さないのだ。
結局失楽園の英雄について分かっていることは、
ラジエルのお目付け役であることぐらいだ。
「……マスター?」
「うん?」
「その、がっかりしました? ラジエルさんが見習いで……」
予想もしていなかった問いかけに、思わずきょとんとしてしまう。
がっかりしたかと問われれば、否だ。
むしろ見習いということに妙に納得してしまった。
翔は正直に首を横に振ると、少女は安心したように微笑んで、
いつも持ち歩いている分厚い本を膝の上に置いた。
「立派な二代目ラジエルになれるように頑張ります!
もちろん、花嫁修業も並行して!」
「まだそれ諦めてなかったの?」
もちろんです、と当然のように返事をしたラジエルに、
翔は呆れたように息を深く吐いた。
お目付け役はラジエルが人間に恋をしても怒らないのか。
まだ姿も見たことのない天使に心の中で文句を言いながら、
翔は読みかけだった文庫本に視線を落とした。
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翌日。
午前の授業を終えた翔が昼食をとろうとすると、担任の虻川が声を掛けてきた。
彼が担当する午後の科学の授業で使用する資料を、科学室まで運んでおいてほしいという依頼だった。
なぜ自分がとは思ったが口には出さず、微妙な笑みを浮かべてそれを引き受ける。
ずっしりとした重みのある資料を抱え、特別棟の三階にある科学室を目指した。
落とさないように気をつけながら渡り廊下を歩き、難関である階段に辿り着くと、翔はゆっくりと階段を踏みしめていく。
普段ならば軽やかに駆け上がっていくことが出来る階段も、手に荷物を抱えているとなると話が全く違ってくる。
誰かに助けを求めたくなったが、周りにいる生徒は他クラスの生徒や、まだ深く会話したことのないようなクラスメイトだけである。これは期待できない。
はあ、と深いため息を吐いて自力で何とかする決心をつけると、また一歩足を踏み込んだ。
ひいひい言いながらもなんとか踊り場まで来ることが出来て、翔は一度小休憩をはさむ。
この時間は特別棟には生徒がいないらしく、しんと静まり返っている。
なんというか、少々不気味だ。
「ったく、虻川先生もなんで俺を選ぶかなあ……って、うわ!」
文句を言った罰なのか。
あれだけ気を付けて歩いていたというのに、ずるりと階段で足を踏み外してしまった。
しかもこの体勢で落ちるとなると良くて背中、悪くて頭を打ってしまうだろう。
どうしよう、と心で焦りながらもぎゅっと強く目を瞑って衝撃に備えていると、ふわりと温かい手が翔の体を支えてくれたような気がした。
手の中にあった資料はどこかにいってしまったが、自分自身は無事である。
恐る恐る目を開けてみると、そこには周りの景色が霞んでしまう程の美青年がいた。
「大丈夫? 気を付けて、頭を打ったら大変なんだからきみたちは」
「ど、どうも……」
翔に特に怪我がないことを悟った青年はにっこりと微笑むと、床に散らばった資料を綺麗な手で拾い上げていく。
翔は思わず両手で額を作ってその中に青年を閉じ込めてみた。
なんて絵になるのだろう。
これはレオナルド・ダ・ヴィンチも彼を絵に描きたくなってしまうのではないだろうか。
翔が呆けている間に資料をすべて拾い集めてくれた青年は、資料を軽く叩いて揃えると、優雅な手つきで翔に手渡した。
「はい、どうぞ」
「お世話になりました……」
「いや? 翔君にお世話になってるのはこっちだから」
どういうことだ、という翔の質問には反応せず、青年は片手を上げてその場から去ってしまった。
そういえば、なぜ先ほどの青年は翔の名を知っていたのだろう。名乗った覚えはないし、知り合いでもない。
「あっ! まさか!」
疑問が浮かんでいた翔に、一つの考えが浮かんだ。
もしかしたら彼が「失楽園の英雄」なのではないだろうか。それならば青年が翔の事を知っている理由もわかる。
見目麗しい姿をしていたし、天使だと言われても納得してしまうだろう。
「貴様、遅いぞ。待っていたんだが」
青年がいなくなった方向に目を向けていると、背後から軽く頭を叩かれた。
振り返るとそこには出席簿を手にした虻川が立っていた。
長い前髪に隠れてよく見えないが、おそらく眉間に深い皺を刻んでいるに違いない。
「ちょっとそこで転げ落ちそうになって……」
「何? 階段でか? 貴様、怪我はなかったのか?」
「あ、はい。綺麗なお兄さんに助けてもらったので」
まさか虻川が二言目に翔の身を案じたことに驚いたが、失楽園の英雄(仮)に助けてもらったので怪我は一つもしていない。
天使に助けてもらった、などと言ったら虻川はどんな顔をするのか。
いや、この男のことだから何を馬鹿なことをと信じもしないだろうけど。
翔の返事を聞いた虻川は、ぐっと息を詰まらせ、猫背な背中をさらに曲げると翔へと詰め寄る。
普段から妙な男だとは思っていたが、今はさらにその奇妙さに磨きがかかっているように思われた。
先生? と不審に思って声をかけると同時に、虻川が口を開いて普段よりも低い声を発する。
「綺麗なお兄さん? その口ぶりだとうちの生徒じゃないようだが」
いったい誰だ。
虻川が科学の資料を持ったままの翔の手首を掴んだ。
思わず表情が歪んでしまう程の痛み。
文句を言おうと虻川に目を向けた途端、背中がぞわりと粟立った。
長い前髪から覗く目。
まるでバケモノのような目。
「――誰に会っていた、天原翔」
ひゅ、と不安定な呼吸が喉から漏れた。
手首をつかむ手の力は弱まることはない。
なんだ、何なんだ、この男は。
翔は掴まれた手を無理矢理払うと、抱えていた資料を虻川に押し付け急いでその場から駆け出した。
背後から虻川の焦るように自分の名を呼ぶ声が聞こえてきたが、足を止める勇気がない。
無我夢中で走って渡り廊下まで戻ってくると、翔はそこでようやく足を止めた。
そろりと掴まれていた手首に目を向ければ、虻川の手の痕がくっきりと残っていた。
人の目を見てあれほど恐ろしいと感じたことはない。
「……科学の授業、サボろうかな」
今日は、もう虻川と顔を合わせられる勇気がない。
制服の裾を手首まで引き延ばして、翔はサボり先に決めた保健室へ向かう。
その姿を見つめる青年の姿に気付くこともなく――。