対決! アスモデウス!
「あの、いったいどこに……」
「内緒、楽しみにしてて」
不良に襲われていたところを助けてくれた明日若紅子。
彼女に連れられて、翔は家とは正反対の方向へ歩いていた。
駅前の通りは店も多いため人の姿はよく見かけられるが、
今歩いている道はしんと静まり返っている。
右へ、左へと入り組んだ道を曲がり、
ようやく紅子が足を止めたのは大きなマンションの前だった。
そういえば家にこのマンションのチラシが入っていたような気がする。
軽く億を超えるような値段に、目がくらんだものだ。
「あの、紅子さん?」
「ついていらっしゃい」
何の躊躇いもなくマンションに入った紅子に、
翔は目をまん丸くさせた。
彼女はここに住んでいるのだろうか。
となるともの凄いお金持ちなのかもしれない。
美味いと評判とはいえ、駅前のパティスリーで驕りなんて失礼だったかもしれない。
億マンションにふさわしい豪華なエレベーターに乗り込み、紅子は最上階のボタンを押す。
エレベーターはガラス張りで、外の景色が良く見えた。
先程まであんなにいい天気だった空が、
いつの間にか真っ黒な雲を纏ってごろごろと鳴っている。
「さて、ついたわよ」
外の景色に気を取られていた翔を、
紅子は手を繋いで引っ張った。
エレベーターを降りてすぐに玄関がある光景など初めて見た。
ポケットからカードキーを取り出し、
紅子はゆっくりと部屋の扉を開ける。
「あがって?」
「お、お邪魔します」
女性の家に上がるという初めての経験に、
翔は妙な緊張感を抱いた。
甘い香水のようなかおりが漂っているような気がする。
紅子は先立って歩くと、一つの扉の前で翔を手招きした。
「さ、入って! とっても面白いものがあるから」
とん、と軽く背中を押されて部屋の中へ入る。
すると玄関で感じた甘いかおりがさらに強く感じられた。
カーテンで太陽の光を遮断しているからなのか、部屋は暗く、あまり部屋の様子を窺い知ることが出来ない。
「――ッ!?」
背後にいる紅子に何があるのか聞こうとしたその時、部屋の奥で何かが動く気配を感じた。
その気配を良く感じ取ってみれば、
はあはあと呼吸のような音も聞こえる。
動物、いや、どちらかと言えば獣のような呼吸音。
「ようこそ、……ボウヤ」
カッと一気に部屋が明るくなる。
可愛いキャラクターのクッションや、
おしゃれな家具、
女性らしいメイク台に化粧品。
そんなものを翔は想像していた。
しかし――
「う、うわ……!」
視界に入ってきたのは、よくわからない植物に体を絡めとられた男たち。
気味の悪い花が咲き乱れ、
そこから甘ったるいかおりがしていた。
絡めとられている男たちは皆恍惚とした表情を浮かべ、だらりと四肢を投げ出している。
「どう? 面白いでしょう?
皆私に夢中なの」
耳元で紅子がそっと囁いた。
慌てて距離をとると、彼女はにたりと笑みを浮かべてずるずるとその本性を現す。
紅い髪から現れた山羊の角。
蛇柄のブーツを履き、
手には身丈ほどの三又槍。
暴力と性が織り交ざったような目のやり場に困る服を着た紅子は、
真っ赤なルージュが引かれた口を開いた。
「私はアスモデウス。
色欲と嫉妬の悪魔。
ここにいる愚かな人間たちは私の養分となって朽ちていく家畜たちよ」
よろしくね、ボウヤ。
にこりと微笑んだ紅子――アスモデウスはこつ、とヒールを鳴らして歩み寄る。
「私は弱い者いじめが嫌い。
だからボウヤは対象外としてみていたんだけど……」
また一歩、アスモデウスが足を踏み出した。
「純粋な子を食べるのも一興かなって思ったし、なにより――」
手を伸ばせば触れられる距離まで近づいたアスモデウスは、べろりとルージュと似た色の舌で自らの唇を舐めた。
「私の色欲の術にかからなかった。不満よ、とっても」
瞬間、三又槍が頬すれすれに突き立てられる。
ピリッとした痛みが翔を現実へと覚醒させた。
このままでは最悪殺されてしまう。
そう確信した翔は、急いでアスモデウスの後ろにある扉へ走った。
しかし、いくらドアノブを捻っても扉が開かない。
それならばと扉に体当たりしてみたが、
扉はうんともすんともいわなかった。
「ねえ、ボウヤ」
ぞわり。
背中が粟立つ。
もうすぐそこにアスモデウスが来ている。
「あなたの魂は、どんな甘さを蓄えているのかしら」
ねとりと耳に舌が這う感覚。
ああ、もうだめだ。
「許しません許しませえぇぇん!」
翔がすべてをあきらめたその時、
愛らしい少女の声が響いた。
若干怒気を孕んだ声は、翔のすぐ傍から聞こえてくる。
慌てて鞄を開けると、突如鞄が火を噴いた。
これは流石のアスモデウスも予想がつかなかったらしく、怯んで翔から離れぎっと鞄を睨みつけた。
「ちょっとお胸がメロンだからって、
人を食い物にし、
しかもマスターまで食べちゃおうとする不純悪魔は成敗です!」
「だ、誰!?」
しゅっと鞄から現れる影。
それは翔の前に立つと、ふんと大きく胸を張って仁王立ちした。
「図書館天使ラジエルさんです!」
「ラジエル!」
今ほどこの小さな背中が頼もしく見えたことはない。
翔が少女の名を呼ぶと、ラジエルは振り向きにこりと笑む。
その表情はまさに天使だった。
「こんな小さなひよっこ天使が、私の結界を破ったっていうの!?」
「そこは失楽園の英雄様にお力をお借りしました!」
私一人では到底無理でしたよう。
ラジエルの言葉に、翔も、アスモデウスも苦く笑う。
つまりラジエルの言う失楽園の英雄様のおかげで、彼女もここに来ることが出来たというわけだ。
アスモデウスは失楽園の英雄様を気にしているらしく辺りを警戒していたが、
姿を現さないと悟ると、今度は小さな天使を見下した。
「お馬鹿さんたちね……二人共々私の養分となりなさい!」
ずるり、とグロテスクな色の植物が二人の体を絡めとる。
信じられないほどの力で締め付けられ、じょじょに体の力が抜けていく。
苦しいはずなのに、痛いはずなのに。
どこか気持ちよく感じられた。
「痛みはほんの少し……あとは最高の快楽が待っているわ」
意識がおぼろげになっていく。
このままでは非常にまずいと分かっているのに、体に力が入らない。
「マスター!」
ふと力強いラジエルの声が聞こえた。
彼女は植物に絡めとられながらも、決して瞳の光を失ってはいない。
「ラジエルさんを、信じてください」
自分はこの時、どんな返事を彼女にしたのだろうか。
よく覚えていない。
ただ、ラジエルが先程見せた天使の笑顔を浮かべたのはよく見えた。
ラジエルが持つ大聖典が赤い光を放つ。
締め付ける植物の力がわずかに緩んだような気がした。
「大聖典よ!
我が声に呼応したまえ!
刮目せよ! 永久の焔!」
以前聞いたのと似たような緩いスペルと共に放たれたのは、燃え盛る炎だった。
炎は二人を、そしてその場にいた男たちを拘束する植物を燃やし尽くし、炭へと変える。
不思議と熱さは感じず、火傷もない。
「ば、馬鹿な!
そんなダサい呪文で私の植物ちゃんが!」
「ダサいのはあなたです!
今時そんなきわどい服天使だって着ません!」
「はあ!? あんたたち天使はもともと地味な服しか着ないじゃない!」
「流行って言葉ご存知です?
イロモノ悪魔さん?」
「この小娘……ッ!」
天使と悪魔の戦いが見れることになるとは、と思っていたが、
勃発したのは服装に関する言い争いだった。
確かにアスモデウスの着ている服は目のやり場に困る。
反対にラジエルはしっかり着込んであまり肌の露出がない。
いや、今はそんなことどうでもいい、
至極、
本当に。
ラジエルに散々服装の件で小馬鹿にされたアスモデウスは、とうとう顔を髪の色と大差ないほど染め上げて三又槍を振りかざした。
「もう養分なんてどうでもいいわ!
あなたたちは今ここで嬲り殺しにしてあげる!」
ぎらりと光る三又槍の先がラジエルに、そして翔に向けられる。
慌てた様子でラジエルが大聖典を盾にするように構えたが、それではあまりにも心許ないだろう。
翔はラジエルの小さな体を腕の中に収めると、ぎゅうと抱きしめて彼女を庇おうとした。
しかし、いつまでたっても衝撃は訪れない。
おそるおそるアスモデウスの方を見ると、
彼女の太腿や腕から血が垂れ落ちていた。
そして、床には金色に輝く美しい羽根がいくつも刺さっている。
「天使の、羽……!?
しかもこの魔力、相当強い天使が近くにいる……」
まさか、小娘が言っていた失楽園の英雄が――
アスモデウスは悔しそうに表情を歪めると、三又槍をゆっくりと下ろし両手を上げた。
どこからこちらを見ているとも分からない第三者に、降伏の意を示したのだろう。
「やっぱり弱い者いじめは駄目ね。萎えちゃう」
すう、と部屋が元通りに戻っていく。
捉えられていた男たちは安らかな笑みを浮かべて眠っていた。
一応息があるか確認したが、皆無事のようだ。
「ラジエル。覚えたわよあんたの、その乳くさい顔。
――この魔力もね」
そっと足元に落ちている金色の羽を拾い上げたアスモデウスの表情は、どこか楽しそうに見えた。
未だ警戒しているラジエルには目もくれず、アスモデウスは翔の名を呼ぶ。
いや、正確に言えば明日若紅子と言えばいいのだろうか。
すっかり人間に擬態した姿になった悪魔は、ちゅ、と妖艶に投げキッスを飛ばした。
「またね、ボウヤ。
モンブランごちそうさま」
そう言うとアスモデウス――紅子はすう、と空気に溶けてその姿を消した。
どっと体の力が抜け、汗が噴き出る。
ラジエルが来ていなかったら、今頃どうなっていたのだろう。
「マスター、大丈夫です?」
「大丈夫、助けに来てくれてありがとう」
「お安い御用なのです!」
とん、と小さな拳で胸を叩いたラジエルの頭を、翔はそっと撫でた。
ラジエルのことといい、アスモデウスのことといい。
自分は本当に物語の中に入り込んでしまったのではないだろうか。
いや、もし本当にそうならば何かチートな技の一つでも覚えられればいいのに。
翔はゆっくりと立ち上がると、傍らに控える少女に目を向ける。
疑うということを知らないような瞳を向ける少女に、思わず笑みがこぼれてしまった。
「助けてもらったお礼しなくちゃな。
甘いものは好き?」
「はい! 大好きなのです!」
「じゃあ特大パフェでも食べに行こうか」
転がっている男たちはそのうち目を覚まして各々帰宅するだろう。
翔はそう考えてから、豪華な部屋をラジエルの手を引いて出た。
ちょっと年の離れた妹が出来たような感覚を覚えながら。