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遅刻は許しません!

「マスター、朝ですよ。起きてください」


 鈴を転がしたような愛らしい声が、鳥の鳴き声と共に翔の鼓膜を震わせた。

 母親はこんな声をしていないし、兄妹もいないし、何より家族は自分をマスターとは呼ばない。

 ゆるりと瞼を開けて確認すると、そこには学士帽を被った少女がいた。

 大きな瞳をぱちぱちと瞬かせ、目が合うと嬉しそうに微笑む。


「遅刻しちゃいますよう?」

「え? ……ああ!? やっばい!」


 少女の背後にある目覚まし時計に目を向けると、時刻は八時をちょっと過ぎたあたりだ。

 今から朝食を食べている時間など全くない。

 慌てて起き上がりハンガーにかけられた制服を掴んで一階へと降りる。

 両親は既に仕事へ向かった後らしく、ラップのかかった朝食がぽつんとテーブルに置いてあるだけだった。

 

 そうだ。

 昨晩はラジエルが押しかけ女房をしてきたせいで色々混乱し、

 目覚ましを掛けることをすっかり忘れてしまっていたのだ。

 帰れと言っても一向に帰る様子のないラジエルに遂に折れた翔は、

 自分が普段使うベッドを明け渡し、自分は冷たい床にクッションを枕代わりにして就寝した。

 

 その結果がこれである。

 

 朝食を作ってくれていた母には申し訳ないが、すべて冷蔵庫に突っ込むしかない。

 急いで制服に着替えた翔は朝食を冷蔵庫にしまうと、夢中で玄関へ走った。

 革靴に足を滑らせ、ブレザーのポケットを探り自宅の鍵を探す。

 遅刻なんてしたら、あの癖のある担任がなんていうか分からない。


「マスター、間に合いそうです?」

「間に合わせる! 学校に着くまではとにかく走る!」


 忘れ物がないかを確認すると、翔は勢いよく家を飛び出した。

 閑静な住宅街は車の数こそ少ないものの、朝の散歩を楽しむ住民の姿はいくつかあった。

 昨日はこんな道があるのか、こんな店があるのかと楽しむ余裕があったが、今は全くと言っていいほどない。

 途中転びそうになりながらも必死に走っていると、すぐ横からマスター、と声を掛けられる。

 ラジエルも翔に併せて走ってるらしい。

 天使なのだから飛べばいいのに。


「遅刻しそう、そんなときはラジエルさんにお任せください!」

「は、はあ!? ちょ、いま、きみと話している余裕、ないんだけど!?」

「まあまあ、大船に乗っちゃってくださいよマスター」


 ラジエルはそう言うと、あの広辞苑ほどの大きさを持つ本をどこからともなく取り出した。

 よくそんな小さな体で、しかも走りながらページを捲ることが出来るなと余裕がない中感想を抱いていると、突然ラジエルが持つ本が輝き始める。

 いったい何が起きているんだ。

 翔の驚きもそっちのけでラジエルは翔の手をきつく握る。


「行きますよ~……大聖典(ホーリーブック)よ、我が声に呼応したまえ! 飛翔せよ(ぱたぱた)!天空の羽!(わんだほー)

「え、何そのゆるい呪文……うおッ!?」


 もっとかっこいいスペルじゃないのかと言おうとしたその時、突然体が浮遊感に襲われた。

 内臓が浮かぶような感覚に不快感を覚えながらも、自分が置かれている状況を視界に焼き付ける。

 人が、コメ粒ほどの小ささに見える。

 空気が少し薄く、冷たい。

 足の裏に固いアスファルトの感覚が、無い。


「う、うおおおおおっ!? と、飛んでるううう!?」

「こっちの方が早いですよう」

 

 純白の羽が生えたラジエルは、恐ろしいほどの速さで空を滑空する。

 まさか人間が飛行機の力なしで空を飛べるとは思ってもいなかったのだろう、鳥たちが驚いたように羽ばたいて飛んでいく。

 驚きたいのはこっちだ。

 あまりの速さに風が爽やかさを通り越して、痛い。

 

「見てください、マスター! 桜が綺麗です!」

「俺は今綺麗な川が流れるお花畑が見えてるよ……」

 

 無邪気に話すラジエルの声がだんだん遠くなっていく感覚がする。

 少しでも気を抜いたら本当に三途の川を渡ってしまいそうだ。

 

 歯を食いしばって何とか意識を保っていると、ラジエルと翔の二人はあっという間に学校近くの公園に着いた。

 自宅から学校までは二十分ほどかかるのだが、天使ラジエル超特急(そう言いたくなるほどの速さだった)ではものの五分程度で到着してしまった。

 次も遅刻しそうになったら彼女の力を借りようとは思わないだろうけれど。

 空中滑空のせいで気持ちが悪くなったが、男の意地で吐き気を堪えネクタイを締めなおす。

 ラジエルが甲斐甲斐しく制服の皺を伸ばしてくれたが今は放っておいてほしい。

 身なりがある程度整ったところで、にこにこと笑みを浮かべる少女へ向き直る。

 きちんと言い聞かせなければ、彼女はついてくるに違いない。


「じゃあ行ってくるから、きみは本来のお家に帰ること。いいね」

「そんなぁ……ラジエルさんはマスターのお嫁さんなのに」

「認めませんッ!」


 風圧でぼさぼさになった髪を手櫛で整え、校門を目指す。

 翔と同じ制服を着る生徒の姿がちらほらと見えたあたりで、一度公園の方へと振り返った。

 ラジエルの姿は、ない。

 半分安堵、半分心配の気持ちを抱きながらも翔は生徒の波に器用に溶け込む。

 玄関の辺りでは生活指導の教師たちが厳しい目つきで生徒に目を向けていた。

 何人かが髪の色や制服の乱れで注意を受けているのを横目に、するりと通りすぎていく。

 自慢ではないが、今まで平々凡々と過ごしてきた身だ。

 制服を着崩したり髪を染めたりしたいという欲求が全く浮かばない。

 裏を返せば勇気がない、洒落に興味がないと言われてしまいそうだが。


「――天原君! おはようございます!」

「さ、佐伯さん! おはよう!」


 下駄箱から上履きを取り出していると、隣の席のサーシャ姫――いや、佐伯林檎が柔らかな笑みを浮かべて朝の挨拶をしてくれた。

 ああ、なんて可愛いんだろう。

 この子にだったら押しかけ女房されてもいい。

 

「そういえば昨日は図書館に行かれたんですか?」


 何気ない林檎の質問に、分かりやすいほど肩が跳ねあがってしまった。

 あの図書館には天使が住んでいた、などと言えば彼女はどんな反応を見せるのだろう。

 会ってみたいというのだろうか、それとも翔を変人だと気味悪がるだろうか。

 いずれにせよ黙っておいた方がいいだろう。

 

「行ったよ。すごい本の数だった」

「本当? 近いうちに私も行かなくちゃ!」


 その時は一緒に行こうね、と誘ってくれた林檎に、とうとう鼻の下が緩む。

 こんなに可愛い同級生に話しかけてもらえて、しかも一緒に図書館に行こうと誘ってもらえるなんて。

 これは人生の春がいよいよ来たのだろうか。

 そうであってほしい。いや、きっとそうに違いない。

 でれでれとしながらも自教室につくと、翔は席に座り教材を取り出すために鞄の口を開けた。

 

「酷いですマスタァ……ラジエルさんという天使がいながら他の女性にデレデレするなんてぇ」


 最初に言っておこう。

 これはホラーではない。いや、目の前で起こっていることはホラー映画顔負けなのだが。

 教科書の隙間からぬるりと伸びてきた手と、わずかな隙間からこちらを覗く双眸に、翔は思い切り悲鳴を上げた。

 ずるずると鞄から出てこようとする少女を鞄ごと抱きかかえ、

 何事かとこちらに視線を向けるクラスメイトに微妙な笑みを浮かべると、一目散にトイレの個室に駆け込んだ。

 乱れた呼吸を何とか整え鞄に目を向けると、丁度ラジエルが鞄から顔だけを出して頬を膨らませていた。


「おい、ここは三条河原じゃないんだけど」

「ラジエルさんだって生首じゃないですよう。ちゃんと繋がってます」

 

 むすっとした表情のまま話すラジエルに、翔は深いため息を吐く。

 何故この少女がここまで自分に好意を抱いているのか全く分からない。

 容姿だって芸能人並みに良いわけでもないし、

 頭脳もずば抜けているわけでもなければ、運動神経が並外れているわけでもない。

 正直、天使に好かれる理由が一切浮かばないのだ。

 もし自分が天使で人間に恋をするならば、もっと見た目も性格も完璧な人間を選ぶ。

 

「図書館に帰れ。あと本を通して現れるな」

「でもマスター、嫌な気配がするんですよう……むずむずするというかなんというか」

「はあ? 気配?」

「とにかく! 何かあってからでは遅いので、ラジエルさんが本の中で待機してますね!」


 どういうことだ、と問い詰めようとしたが、生首はずるずると鞄の中に戻っていき、やがてその姿を消した。

 ラジエルが現れた教科書を上下に振ってみるが、なんてことはない普通の教科書だ。

 こんな教科書の中に待機しているなんて、いったいどういう仕組みなのだろう。

 それに、彼女の言っていた「嫌な気配」というのも気になる。

 取り敢えずは教室に戻らなければ。

 翔は鞄を抱えると個室の扉を開けて教室に向かうことにした。

 あんな大きな悲鳴を上げた後だから、皆不審に思っているだろうか。

 心なしか重い足を引き摺るようにトイレの扉を開けると、己より大きな人影が目の前にあった。

 ゆっくりと視線を上にあげると、そこには棒付きキャンディを咥えた虻川が出席簿片手に翔を見下ろしてた。


「あ、虻川先生……」

「貴様、腹痛でも起こしたか。長い厠だったな」

「い、いや、そういうわけじゃ……」

「まあいい、さっさと教室に行け。俺より後に教室に入ったやつは皆遅刻と見なす」


 お前は遅刻したいのか?

 虻川の言葉に慌てて駆けだした翔は一目散に教室を目指した。

 冗談じゃない、入学早々遅刻なんてしたくない。


(……あれ?)


 教室に向かっている途中でふと疑問に思う言葉が浮かんだ。


 ――長い厠だったな


 虻川は一体いつからトイレの前に居たのだろう。

 長い厠と言っているところを考えると、偶然鉢合わせたというわけではないらしい。

 いろいろと疑問に思う点はあったが、今はまず遅刻認定されないことが大事である。

 虻川が教室に向かっている気配を感じながら、翔もまた今日へ走った。



 背後で虻川が品定めをするように見ているとも気付かずに。


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