五ツ眼
二階は部屋が二つある。だが映像通り、一方は襖が歪んでいて開けることができなかった。私はそちらを諦めて、廊下を進んだ。左手にあるのは、襖がすでに開かれているもう一方の部屋、床の間のある部屋だ。
異臭は埃っぽさを加え、痛んだ伊草のニオイが鼻につく。
床の間に視線をやった。何を書かれていたのかわからない掛け軸が見えた。私は瞬間、身を硬くした。
映像では、あそこに寝そべる女児がいた。こちらをじっと凝視する女児。
私は何かに操られるように懐中電灯を向けた。しかし掛け軸の下には、女児などいなかった。
やはりあれは、映像に映りこんでしまった影か何かがそう見えただけで、実際には何もいなかったのだろう。私はそう解釈し、この場をあとにしようとした。
が、寸前で足を止める。掛け軸から眼を切った視界の端で、何かを捉えたのだ。
掛け軸の下にもう一度眼をやる。懐中電灯を向ける。そこには、
「……あれは」
ノートが開いたまま落ちていた。映像にこんなもの、あっただろうか。
私は部屋に入り、そのノートを手に取った。持ち上げると、何やら濡れているらしい。紙が湿った感触が指の腹にじわりと滲み、不快だった。
開かれたままのページに懐中電灯を向ける。そこには赤黒い色のした、子どもの書いた幼い文字で、文が記されていた。
私は少し迷ってから、読んだ。
しにたくないしにたくないしにたくないしにたくない。
くる、あいつがくる。わたしをころしにくる。
みてたから。わたしはみてたから、ぜんぶみてしまったから。
しんだふりをしよう。わたしはもうしんだことにしよう。
みてません、ごめんなさい。みてません、ごめんなさい。
あ。
あいつが、きた。
血で書かれている。他にも文はあるが、ほとんど読めなくなってしまっている。
「ここで、一体何があったんだ」
――とん、とん、とん……
肩が震えた。心臓がどくんと跳ねた。
廊下を歩く音がする。私の背後に気配がする。
振り返る。誰もいない。一階から階段を上ってきているようだ。
まずい。そう思ったとき、
――スゥ………
襖の引く音がした。そして、私は瞬時に理解した。
二階の部屋は二部屋。一部屋は階段を上ってすぐ左手の襖の向こうにあり、それは歪んでいて開かなかった。が、いまの音は間違いなくそこを開けた音。私がいるこの部屋は、その一室目の奥、つまり襖で仕切ってあるだけの、連続した部屋なのだ。
要するに。二部屋は繋がっており、この音の主とはもう襖一枚しか隔てるものがない。
「……っつ……」
息が、詰まる。
一瞬にして空気が重くなってきた。
何かがもう目前にまで迫ってきている。私の身は固まり、動けなくなってしまっていた。
どうする。もう間もなく、何かはここに入ってくる。隣の襖の向こうに、それはいる。
脂汗が出てくる。心臓がおかしくなりそうだ。まばたきすらもできず、呼吸すらままならない。
私の視界は隣の一室と隔てた襖と、ちらりと見える掛け軸のみ。あとは、手に持つ懐中電灯といま拾ったノートぐらい。
すると、懐中電灯の光がふっと消えた。瞬間、真っ暗になる。ここに入ってずっとまとわりついてきた視線が、一気に増えた気がした。
刹那、私は自分の右隣に強烈な気配を感じた。そこには、女児が床の間で寝そべって私を凝視していたのだ。
暗闇なのによく見える。
血走った眼、生気をなくした黒眼。口をぽっかりと空けて、髪を無造作にして顔の横を隠していた。服装は、黒いワンピース一枚。青白く細い脚と腕が力なく床に放り出されている。
私を見ている。じっと、見ている。何かを訴えかけるように――。
私は、彼女と同じ体勢を取った。その場で横になり、眼を瞑った。
背中の方で、襖が開く音がした。
心臓の鼓動が激しくなる。
服の中で汗が噴き出す。
手が小刻みに震えている。
気がどうにかなりそうだった。
――とん、とん、とん…………。
足音が近づいてくる。私の方に近づいてくる。
私は眼を瞑っている。暗闇のなかで、何かの息遣いが聞こえてくる。
水滴の落ちる音がする。何かはやがて、私のすぐ後ろで足を止めた。
瞼の向こうで、動きがある気がする。しかし私は恐怖で身が縮み、固まり、息もできなかった。瞼一つ、あけられなかった。
しばらく、無音が続く。耳に痛いほどの無音。
わからない。何が起きているのか、何も起きていないのか。
何かは私の寝顔を覗き込んでいるのだろうか。じっと、私が気を抜いて眼を開ける瞬間を、待っているのだろうか。
顔に、冷たく生臭い空気の流れが当たる。瞼の向こうに、ある。
私の顔を覗きこんでいる顔があると、わかる。
向こうにいけ。向こうにいけ。向こうにいけ。向こうにいけ……!
私は胸中でそう念じていた。しかし瞼の向こうにある顔は、私をじっと見ている。思い違いではない、眠っている私を、見ている。
やがて、その気配がふっと消えたとき、私は暗闇である音を四つ、耳にした。
一つは男の声だった。「見るな」という低い声。
その声と共にした、もう一つの声。女の子の短い声だった。言葉になっていない、短い悲鳴だった。
そのあとの音が、私の背筋を凍らせた。
一つは、水の音。しかしそれは清流のような美しいものとは真逆の、醜くくどい音。果物を乱暴に潰したときにする、果汁の吹き出た音に似ている。でもそれ以上にどこか、音に生温さがあった。
とにかく、気持ちの悪い音がしばらく続いた。
その後、四つ目の音は、何かを引きずる音だった。
それは映像で見たあの音と、同じものだと私は思った。それに派生して、書斎で男性に引きずられた女児を思い出した。
眼窩が闇に染まった、女児の顔。
私は何かの気配が消えてからも、もうしばらくその場で眠ったふりをしていた。腹の底は冷え、心臓はまだうるさかった。全身が痙攣しているかのように震えていた。
恐怖で動けなかったのだ。
辺りには、血のニオイが充満していた。
眼を開ける。
何もない。誰もいない。寝返りを打つように後ろを確認する。掛け軸の下にいた女児はいなかった。
と、確認したときだった。
ぱさっと乾いた音を立て、掛け軸がすとんと床の間に落下したのだ。その音が張りつめた私の神経を過剰に反応させ、私は短い悲鳴をあげた。
沈黙が保たれている。誰も来ない。落ちた掛け軸は裏向きになっている。
ややあって、私は何気なしにその掛け軸に手を伸ばした。
ゆっくりと手を伸ばす。端をつまむと、あの何が書かれているかわからない表面を向けた。
そこには文字が書かれていた。さっき拾ったノートと同じ幼い文字で、こう書かれていた。
しんだふりしてたら、しんだ。