四ツ眼
地方の山を越えた場所に民家が並び、そこをしばらく抜けたところに、田圃が広がっていた。友人の撮った写真と同じ田園風景、凸凹の田舎道。人の気配のない、寂しいところだ。
ここに来るまでの道のりで蝉が鳴いていたというのに、いまは一切聞こえなくなっていた。蛙のぬめついた鳴き声は田圃から聞こえてくるが、それもどこか気の抜けたもので、すぐに止む。風はぬるく、滲む汗を増やすだけだった。
田舎道を進む先に、またしても山へ入る山道が見えた。色の剥げた薄紅の鳥居が傾きながらも構えており、半分獣道のような荒れた山道が山の中腹へ消えている。
――鳥居がみえました。それから、山。疎林の内部にひっそりと、一軒の家があります。
女主人はそう言っていた。きっと鳥居と山というのはこれだろう。
となればこの先に、あの写真や映像に残されていた廃れた家がある、ということだ。彼女の占い師という能力を信じるのならば。
私は、山道に足を踏み入れた。きっと私は女主人を信用していたのだろう。というより、疑うという気持ちが微塵も沸かなかったというだけかもしれないが。
鳥居をくぐり、しばらく荒れた山道を進んでいたとき、私は感覚的に漠然と感じていた。
周囲の空気が、冷え始めてきたことに。
背の高い木々がドーム状に緑の屋根を作っている。奥に進むにつれ、辺りは薄暗くなっていった。
私は写真とあの映像にあった家を見つけた。その頃には、夜になっていた。
(二)
懐中電灯を片手に、私は玄関の戸を横に引いた。立て付けが悪そうだったが、すんなりとスライドし、音も障害なくカラカラと鳴るだけだった。
三和土の玄関。ひび割れ、黒い染みができている。光を照らすと、私はこの黒い染みの正体をすぐに理解した。
「血か……」
黒い染みは、正確には赤黒い汚れだった。それと同時に立ち込める異臭。腐った鉄のニオイが強い。私は顔をしかめた。肺がきゅっと、拒否反応を起こした気がした。
あまり長居するのはよくない。呼吸も少し浅いくらいの方がいいだろう。
鼻と口を覆い、私は先へ進む。
軋む床、誰かに見られているような感覚。
肩に手を置かれているような気がする。
振り返る。誰もいない。玄関が閉まっているのが眼に入るだけだった。
「…………」
玄関を閉めた覚えは、ない。
異臭は、奥に進むにつれ強くなる。腐った鉄のニオイに混じり、腐敗した木材のニオイとかび臭いニオイ、腐葉土。気分が悪くなる。
一階には誰もいなかった。私は映像通り、廊下突き当りを右に折れようとした。
そのとき。耳につくコール音。
黒電話が鳴ったのだ。
「……っ」
コール音、――コール音。回数を重ねるごとに大きくなっている。いや、私の気が動転しているからそう聞こえるのかもしれない。――コール音。この音は、心をかき乱される。――コール音。早く出ろと、私に訴えかけているようで。――コール音。
私はこの黒電話の音が苦手だった。だからではないが、次第に大きくなり主張するこの着信を、無視することができなかった。
受話器を掴み、私は勢いに任せて耳に当てた。
「……はい、もしもし」
無音。回線の音すらもない。
いや……、
『…………』
微かに、聞こえる。
電話の向こうに、人がいる。空気の動く音だ。
『……厳、』
私は眼を剥いた。
「お前、まさか――」
『来て……ったのか……厳……』
「お前いまどこにいる? ここにいるのか?」
『みている……お前を見ている……。あの子は……ぶ、……ていた』
「お、おい、何を言って――」
『はや……逃げろ……、あの子の……らだがうご……前に……』
ぶつ切りの通話は、一方的に切られた。私は混乱する頭の中で、友人が何を伝えようとしていたのかを模索した。
――来てしまったのか、厳――
――みている。お前を見ている。あの子は全部、見ていた――
――早く逃げろ、あの子の身体が動く前に――
どういう意味だ。あの子というのは、一体……。
まさか、
――みるな……その眼で……みるな……
背後で呻くような声がした。私は勢いよく振り返り、声のした方を見た。
男性が、何かを引きずって二階に上がっていた。