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月下のテーゼ

 花の塔に来て、初めて過ごす夜だった。慣れない環境のせいか、どうしても眠れない。寝ようと意識して目を閉じても、かえって目が冴えてしまう。今は、諦めた方がいいのかも。

 ネグリジェにガウンを羽織って部屋を出る。本当は夜の散歩にでも繰り出したいところだけど、これから住む場所とはいえ、今日初めて訪れたこの塔で、深夜の徘徊というのはまだ少し恐ろしい。おかしな人も、多いと聞くし。

 仕方なく近くの窓辺に腰を預けて、ぼんやりと外を眺めた。今夜は三日月で、月灯りは強くないけれど、代わりに星が綺麗に見える。

 街を飛び出したあの晩は、確か今日とは正反対の満月だった。嫌味なくらいに大きくて、明るくて、前の晩に元カレと別れた私を嘲笑ってるみたい。全く似ていない月を見上げてるのに、あの時の惨めな気持ちが蘇る。そんな自分が滑稽で、酷く情けなくて、視界は夜露に濡れたみたいにぼやけてしまった。


「ねえ、フェリシア……」


 驚いた。

 驚いて勢いよく振り返ったせいで、下瞼に溜まった水が頬を伝って落ちたけど、そんなことには構っていられないくらい、驚いて、混乱した。

 この人は、いつの間にそこにいたんだろう。そもそも私がここに来たのは今朝のことで、知り合いなんているはずもない。名前を呼ばれるなんて、思ってもみなかった。ここに来る前からの知人だろうか。でも、知り合いの誰かが花の塔に登ったなんて話、聞いた覚えもない。


「だ、誰ですか?」

「レンナルト・アルムグレーン」


 名前を聞いても、ちっとも思い出せない。職場のお客様かとも思ったけど、従業員のネームプレートにはファミリーネームしか書いていなかった。一レセプショニストの私の顔なんて、お客様がいちいち覚えているわけもない。

 静かに近づいてきたその人は、自然な動作で私の頬に手を添えて、涙を拭った。改めてその顔を確認して、やっぱり知らない人だと確信する。

 月を映した夜露の雫から生まれたような、美しい男の人だった。こんなに綺麗な人、一度会ったら忘れるはずがない。それでも、彼が私を知っているのは、どうしてだろう。


「君は、何を思って涙を流す?」


 アルムグレーンさんが隣に腰を下ろしたので、なんとなく距離をとる。その拍子に、溜め込んでいた涙が落ちた。私の顔を覗き込んでいたアルムグレーンさんが、またそれを拭ってくれようと手を伸ばしたから、私は慌ててガウンの裾を頬に押し当てた。さっきはアルムグレーンさんの幻想的な美しさに見惚れて拒めなかったけど、本来の私は初対面の男の人に触れられるのを大人しく受け入れられるような性格ではないから。


「故郷には、帰りたくない?」

「え……?」

「すまない、冗談だ。女性が月を見て泣く理由が、他に思い当たらなくてね」

「御伽噺ですね」

「知っているのか」

「昔、お客様に教えて頂いた事が」


 勤めていたホテルで、満月の夜にお客様から教えて頂いた遠い異国の物語。竹から生まれた美しいお姫様は、実は月の住人で、貴族たちの求婚を手酷く袖にして、遂には優しい育ての親から離れ、月へ帰らなければならなくなる。そんなお話だった。

 私は確かに月を見上げて泣いていたけど、その御伽噺とは状況がかけ離れていて、アルムグレーンさんの引用は冗談を通り越して、皮肉のようにさえ感じる。私はお姫様のような絶世の美女ではないし、故郷を憂いてもいない。塔に登って、花に“こころ”を捧げた身なのだから、願っても帰れはしないのだ。他の共通点を挙げるとしたら、目の前にいるこの人が、自分は月の使者であると嘯いたとしても、疑いようのないほど美しいということくらいだった。


「それで、あの、……アルムグレーン、さん? 私に何かご用でしょうか?」


 なんとなく気圧されてしまって、口調が固くなる。けれど、アルムグレーンさんは気にした様子もなく、さっきまでの私と同じように、月を眺めた。


「この塔に入ってから、時の流れに疎くなってはいるが、私の記憶が正しければ、君があの男を振ったのはもう随分と前の事のように思う。それでも君が涙を流すのは、どうしてだろう?」

「どうして、知ってるんですか?」


 まさか知り合いでもないこの人に、彼と別れた事を知られているとは思いもしなかった。あまりの衝撃と動揺に、尋ねる声が少しだけ大きくなる。尋問みたいな聞き方になってしまった。それでも、アルムグレーンさんは微笑みを絶やす事のないままでいる。


「ここへ来る途中に立ち寄った街で、君を見かけた。他人のあんな現場に立ち会うような事はなかなかないから、よく覚えているよ」


 なんて不運だろう。まさか人に見られていたなんて。その上、目撃者にこんなところで出会うなんて。人通りの少ない道だから、油断していたんだと思う。余裕も、なかったし。


「お見苦しいものを、お見せしました……」


 申し訳ないという気持ちより、やり場のない恥ずかしさに見舞われて、頭を下げる。穴があったら入りたい。公共の道なのだから、人がいる確率だって、当然ゼロじゃなかった。


「いや、責めているわけではないよ。むしろ、興味深いものを見せてもらったと思っているんだ。私の専門ではないが」


 月を見上げていたアルムグレーンさんは、私の方へ視線を戻して、優しく微笑んだ。


「何処へでも行けると言った君が何処へ向かうのか、それを知りたいと思ったんだ」


 確かに、そんな事を言った気がする。その時はただ、あの人から離れたくて、何処に行くのかなんて、決まっていなかった。


「あの時、私はここへ来る道中だったから、遠ざかる君の背中を、あの男と共に見送るしかなかった。それが、まさかここで君と再会するとは」


 アルムグレーンさんの微笑みが、より深くなった。この人は、いったい何者なんだろう。私を、どうしたいんだろう。何を思って、そんな風に笑うんだろう。聞きたい事がたくさんあるのに、何故だか言葉にできなくて、もどかしい。


「花の塔に来たのは、君なりの決意があっての事だろう」

「もちろん、そうです」


 優しく尋ねてくれるアルムグレーンさんに、私は強く頷いた。ここへ来るのは、相当な覚悟が必要だった。持っているもの、全てを捨てなければならなかったから。私は結局、決断するのに一年もかけてしまった。


「その覚悟は、なんのためだったのかな?」

「本物を、見つけたかったんです」

「本物?」

「はい、本物の、恋です」


 恥ずかしげもなく、こんな事が言えるのは、きっとアルムグレーンさんの雰囲気に圧倒されているからだ。質問をされると、素直な答えが流れるように口から漏れ出てしまう。


「つまり、あの男とのそれは、偽物だったと?」

「結果的に、そうだと思ってます」


 今の私を作るものは、彼との思い出だ。ほんの僅かな月光でさえも、彼との記憶で満ちている。でもそれは、全て偽物だった。だから、捨ててきた。私を形作っていた偽物の世界から抜け出して、本物を手に入れるために、独りで、歩き出した。

 アルムグレーンさんは真っ直ぐに私を見つめていた視線を反らして、難しい顔をした。唇に指を当てて考え込む姿さえも、聖人の絵画のよう。伏せた瞳を縁取る睫毛が、月光を浴びて輝いている。私はその情景を眺めながら、彼の次の言葉を待った。


「……やはり、分からないな」

「えっと、何がでしょう?」

「うん、あの男との恋を偽物だと言う君の目に、嘘はない。だからこそ、分からない。君があの恋を思い出して、涙を流す意味が」


 自分でも、分からなかった。きっと、意味なんてない。心が追いついていないだけだ。


「未練が、あるのかな?」

「いえ、それはないです。もう終わった事ですから」

「そうかい? まあ、そうでなかったとしても、君はもうここまで来てしまったのだから、あの男のもとへ戻れはしないわけだが」


 他人から改めて聞くと、なんだかやっぱり胸が痛んだ。最終的に彼を捨てたのは私自身なのに、そのことで苦しくなるなんて、勝手だろうか。それでも、確かに、本気で彼を好きだったのだ。


「フェリシア、戻りたい?」


 私の微妙な表情の変化を、アルムグレーンさんは見逃してくれなかった。微笑んだまま、容赦なく尋ねてくる。それでも不快感はなくて、私ははっきりと彼の見て答える事ができた。


「いいえ、絶対に戻らない」


 アルムグレーンさんは、満足気な様子だった。立ち上がって背を向けられたので、これで話は終わりなのだろう。そう思うと、なんだか無性に寂しくなる。


「フェリシア」

「はいっ!」


 凝視していたのがバレたのかと、思わず声が上ずった。アルムグレーンさんは、これまでの微笑とは違う、堪えきれないというような笑みを溢した。心臓の音が、とてもうるさい。


「恋は錯覚だと言った人がいる。かくいう私も、それを支持する者の一人だ」

「は、い……」

「だからね、フェリシア、私は君に興味がある。私の定義する恋とは、そもそものところ全てが偽物に等しい」


 否定されているという気にはならなかった。これはあくまでもアルムグレーンさんの見解であって、そこに私の意見を変えてやろうなんていう、傲慢な雰囲気はまるでない。そういう話し方を、してくれている。月の使者のような幻想的な容姿に反して、彼はリアリストなのだ。それだけが、私に伝わった。


「フェリシア、私に教えてくれないか。本物の恋とは何か、君が何処へ向かうのか」


 アルムグレーンさんが宝石のように輝く瞳で私を見つめて、私もそれを見返していた。動揺して、逆に逸らせなくなってしまった。だって、アルムグレーンさんの言葉は、まるで……。


「随分と時間を取らせてしまったね。今日は、ここまでにしようか」

「アルムグレーンさん……」

「何かな、フェリシア?」


 私はもう、彼の術中に嵌っていたのだと思う。


「また、お話できますか?」

「もちろんだよ」


 探そう、本物の恋を。この塔で。

 この月からの使者に、見限られない恋を。


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