夢見ぬ羊
屋内から飛び出してきた女は、必要最低限の荷物を手にし、自分を追ってきた男に告げた。
「ついて来ないで。終わりにしたいの」
女の声は、ひどく冷たく、そして悲しかった。おそらく、痴情のもつれというやつだろう。
「悪かった。もう、こんな事は二度としないから」
一方で、男の声には余裕がある。どこかで、女が思い直してくれる事を期待している、そんな声色だった。
こと恋愛において、男は女に比べロマンチシストが多い。男の現状認識の甘さに、同性であり第三者である私は、居た堪れない思いでそれを見守るしかなかった。何しろ、人通りの少ない狭い道を、彼らによって塞がれてしまったのである。まだ距離があるため、真剣な様子の当人らの視界に入っていないようなのが、唯一の救いと言えた。
「信じられないよ」
「本当だ。なあ、信じてくれ、フェリシア」
名を呼ばれても、女は決して振り返ろうとしなかった。そこに見える決意の固さには、少々好感を覚える。こんな道端で、足止めを食らったのでなければ、だが。
「勝手な事言わないで。無理なの、本当に……」
「俺には、お前が必要なんだ」
「そんなわけない。誰でもいいんだよ。私じゃなきゃいけない理由なんて、どこにもないでしょう?」
「でも、出て行ってどうするんだよ。お前の家は、ここだろう? 一緒に、住んでるんだから」
「いいえ、もう決めたの。私は出て行く。どこにだって、行ける」
「そんな……お前の居場所は、ここだろう?」
尚も食い下がる男が、フェリシアの手首を掴んだ。無理にでも振り向かせようと力を込めているのが、傍目にも分かる。それでも、フェリシアは踏み止まっていた。
「違うよ。そういうことじゃないの」
「じゃあ、どういう事なんだ!」
男の余裕は、すでになくなりつつあった。己の思い描く甘い幻想とは、異なる未来が近づいていることに、ようやく気がついたのだ。
「貴方が私の居場所を用意してくれていても、私はそこにいたくない。私の中に、貴方の居場所は、もうないのよ」
フェリシアの言葉は、男の余裕を更になくすどころか、一瞬のうちに全てを消し去ってしまった。息を飲んだ男の表情は、ただ驚いているようにも、絶望を映しているようにも見える。彼女を掴んでいた手には、もはや力もない。
「さようなら」
力のない男の腕を振りほどき、フェリシアは足早に立ち去った。男は、追いかける気力もなくしたようだった。フェリシアの言葉に、躊躇したのかもしれない。振りほどかれた手を握り締めたまま、ただ彼女の背中を見つめるだけだ。
フェリシアが男を振り返るような事は、ついぞなかった。
「私はそこにいたくない、か」
面白い別れ文句だった。
恋は錯覚だ。フェリシアが求めたのは、錯覚の先にあるものだろう。男は錯覚を錯覚にしたまま、彼女の要求するものを与えられなかった。都合のよい、心地の良い錯覚に浸ったままでいたかったのかもしれない。彼女は、それに甘んじる事に耐えられなかったのだ。最後に興味深いものを見る事ができた。
さて、恋愛について思考するのは、ここまでとしよう。花の塔へは、まだ遠い。今日はこの街で宿をとり、明日はまた塔へ向けて旅を続ける。生とは何か、死とは何か。私は飽くなき探究のために、そこを居場所としたのだから。