あなたの名を呼ぶ
ゆらゆら。
灯していたあかりが揺れる。障子に映る影は一回り大きく揺れる。
外から届く、ほーほーという何かの声。鳥なのか虫なのか千夜には判別がつかない。
ゆらゆら。
千夜の頭も危なっかしく揺れる。
『帰りは遅くなるだろうから、先に休んでろ』
そう言って今朝蒼藍はどこかへ出かけて行った。広い里の中であればどこへ行くのか告げてくれる蒼藍が、行き先について何も言わなかったということは里の外での仕事なのだろう。
千夜は蒼藍が何者なのか、はっきりと理解しているわけではない。
蒼藍は自身のことを「妖」だと言った。
けれど御伽草子に出てくるそれらの類はたいてい異形の者で、そして人々に災厄をもたらす忌まわしきものと描かれていた。蒼藍や、その他里で見る人たちはそうではない。姿形は千夜の知る普通の人と何ら変わりがない。その上、災厄をもたらすどころかそれから街を守るのが仕事だという。
忌まわしいというより、むしろ、それは。
うとうとしていた千夜は、ごつんと何かに頭をぶつけて飛び起きた。
「~~っ」
床に入ってしまえば絶対寝る、と確信があったため、座って待っていたわけだが、それでも眠気に襲われていたらしい。見ると、目の前に箪笥があった。これに頭をぶつけたのだ。
両手で頭を抑えて声もなくぷるぷると震えた千夜は、は、と息をもらした。
今ので完全に目が覚めた。
あかりを灯してあるがそれでも薄暗い部屋をぐるりと見回して、蒼藍がまだ戻っていないことを改めて確認する。
本当は確認するまでもなく知っていた。
危なっかしく寝ぼけた千夜を、蒼藍はそのまま放っておくことはないだろうから。
しばらく動かずにぼんやりとしていた千夜は、そのままではまたうとうとしてしまうのだろうなと簡単に予想がついたので、眠るまじ、と立ち上がった。
たす、たす、と小さな足音。
耳に届く音と言えば自身のその足音と、相変わらず鳴き続けるほーほーという声だけ。
障子を開け、廊下に出る。更に進んで縁側に出ると、忍び寄る寒気に体が震えた。
「あ、満月」
遠く、ほのかに周りの空を輝かせながら浮かぶ丸い月。
始めに月は蒼藍のようだと思ったのは、いつのことだろう。
あの時から、不安になるたびに千夜は夜空を見上げて月を探すようになった。朔の晩や曇っていて見えない時はしょげかえって終わるが、月の姿をみると何故だかほっとする。千夜自身はお転婆なこともあって、名前に似合わず朝が似合うとよく言われたが、蒼藍は千夜とは対照的に夜がとても似合うと千夜は思う。そう言えば幼い頃、蒼藍と逢うのはたいていが夜だった。だからだろうか。
「遅い……」
いつもの千夜なら一時は前に眠りについていただろう。無理に起きているから、眠たくて仕方がない。
あと一刻。
一刻ほど待っても帰ってこなければ諦めて眠ってしまおう。でないと明日が大変だ。
「……蒼……」
ぽつりと呟いて、もう一度千夜は夜空を見上げた。
蒼藍が帰ってきたら、ずっと鳴いている生き物が何なのか、聞いてみよう。
「……」
夜も大分更けた頃里へ戻ってきた蒼藍は、そこにいる千夜を見て、呆れかえった。
遅くなるから寝ていろと言ったのに。
どうして千夜は縁側で座ったまま眠りこけているのだろう。
「……千夜」
名を呼んでも、反応しない。
大方意地でも起きていてやると奮闘していたが途中で眠気に負けてしまったに違いない。千夜はこうと決めたら聞かない頑固な性格なのだ。
その肩に触れると、随分冷たくなっていた。せめて被衣にくるまっていればいいものを、単衣のままこんなところで眠っていたせいだ。寒かっただろうに、それでも起きないほど、遅くまで我を張って待っていたのか。
「千夜」
膝裏に腕を入れて、抱え上げる。
「ん……」
寝息を漏らすが起きる気配はない。ただ、ようやく暖を得られたと思ったのか、無意識のまま千夜は蒼藍の肩に頬を押しつけた。その頬も、肩と同じくすっかり冷たくなってしまっている。
風邪でもひいたらどうする。
起きていたらそう説教の一つもしてやるところだ。
開け放してあったままの障子をくぐると、寝具に眠ったあとはなく、あかりは消えていた。
そっと寝具に降ろして、自身の肩にかけていた千夜の腕を解く。
他人に好きなようにされて全く目覚める気配がない。
「……俺じゃなかったらどうする気だ、おい」
まあこの妖しの者の里でそのようなことがあるとは思えないけれど。
すうすうと眠りこける千夜に少々むっとした蒼藍は、その白い頬をふに、とつまんだ。
「うむう……」
千夜が嫌そうに眉根を寄せる。さすがにこれには反応するらしい。
蒼藍の指から逃げようと寝返りをうった千夜は、指先に触れた蒼藍の衣の裾をきゅっと掴んで。
「……蒼……」
安心しきった無邪気な笑みを浮かべて、呟いた。
「……」
衣を掴む指を外すこともせず、蒼藍は脱力する。
相手が蒼藍だと分かっているからこそのこの無防備さなのか、それとも単に警戒心がないだけなのか。
不覚にもその寝言に動揺させられてしまった蒼藍は、再び深い眠りに落ちていくらしい千夜を恨めしげに見つめた。
起きたら説教、決定。