恋水 後編
大人になれば蒼に近づけると、ずっとそう思っていた。
でもそんなことはなくて。わたしは今でも子供のままで。まだ、拒まれてしまうくらい、蒼から遠い存在なんだ。
千夜は屋敷にいた頃から考えごとをする時一人で木に落ち着く癖があったのだが、この里ではこの年になってそのようなことをしても誰も咎めないことを知っていたので、千夜は気の済む限りそうさせてもらうことにした。
黒羽達によって里へ帰ることができた弥栄と蒼藍は今は里長の家で療養している。
あの場所で意識がなくなった弥栄だけでなく、里につくまでは多少なりとも意識のはっきりしていた蒼藍も、眠るように意識を失ってしまったのだ。
だが里に流れる血のせいだろうか。受けた傷の治りも人以上に早く、貧血さえなおればいつもと変わりないらしい。
本当に千夜とは違う存在なのだ。
見晴らしの良い木の上でぼんやりとしていた千夜はその考えにいき辺り、小さなため息をもらした。
普通の人間なら致命傷にもなる傷が簡単に治ってしまうような弥栄と蒼藍。そしてその血に触れてももう影響を受けない由葉。
彼らと千夜は、時間が違う。
だんだんと蒼藍に対する怒りが湧いてくる。
どうして拒まれなければいけないのだ。千夜は生半可な気持ちで蒼藍を選んだのではないのに。あの屋敷から出るために蒼藍を利用したのではないのに。
まだ蒼藍は千夜が本気ではないとでも思っているのだろうか。
「……蒼の分からず屋」
呟いた言葉は子供じみていて、弥栄には千夜とそう歳の変わらない由葉がつりあっていたのに、蒼藍と自分では到底釣り合わない気がして少しまた落ち込んだ。
千夜だって怖くない訳ではないけれど、蒼藍と一緒にいることを選んだのは自分なのだから、血に触れることだって何だって構わない。むしろ一緒にいられる時間が長くなるのなら良いことだらけじゃないかとさえ思う。
だって千夜には、朝という姉や父もいたけれど。
彼らだけが老いて死んでいくのを見ることはないのだから。
蒼藍は今どうしているのだろう。
眠っているだろうか。
それとももう起き出せるようになっているのだろうか。
結局自分のことよりも蒼藍のことの方が気になってしまい、軽く反動をつけて千夜は木から飛び降りた。
由葉と同じようなさっぱりとした着物を着ていても、由葉より格段にその動きは軽かった。けれど由葉のようにざっくりと切った髪ではなく、屋敷にいた頃と同じように艶やかな髪の千夜はどこか不釣り合いな雰囲気があって。
それを何となく知っていた千夜は、いつか髪を切ろうと思った。
里長の家は里の中心部の方にある。
良家の娘だったとは思えない足取りで駆けていた千夜は、途中で水を汲みに出ていた由葉を見つけ、足をとめた。
由葉の隣にいるのは、彼女の母だろうか。由葉よりも大人の落ち着いた雰囲気があり、自分を生んだ妾の母親のことなど知らない千夜には未知の存在だった。
声をかけようかどうしようかと悩んでいた千夜に由葉が気付く。
「千夜様っ」
嬉しそうににこりと笑い、由葉は千夜を呼んだ。
実は千夜は未だに『千夜様』と呼ばれるのに慣れない。屋敷で姫様と呼ばれていたあれは称号のようなものだったし、身近な人は彼女を名前で呼んでくれた。
けれど由葉のことは嫌いではない。
「こんにちは、由葉様」
ぺこりと頭を下げてから、由葉の母らしき女性にも挨拶を済ませ、水くみを手伝った。
この時期、だんだんと井戸の水温は下がっていく。元々夏でも冷たい水を与えてくれる井戸なのだが、秋にかかると水温は少し下がるのだ。急激な温度変化はなく、冬でも氷りはしないがそれでも冷たいことには変わりない。
しかも千夜は良家の娘だったこともあり、髪を結ったり着物を着たりする手はずはきちんと習っていても、上手い水の汲み方を教わったことはなかった。よって折角水桶を引き上げることができても、はねた水で着物を濡らしてしまうのだった。
「……千夜様、蒼藍様のことをお聞きにならないのですか?」
千夜よりもずっと手慣れた様子で水桶から水を移しながら由葉はぽつりと尋ねた。
また着物の裾を濡らし、冷たさを身にしみて味わっていた千夜は手を止める。
「口止めされていないのですか?」
尋ね返した千夜の言葉に由葉はぱちぱちと目を見開き、それから頷いた。
「されました。『千夜には言うな』と蒼藍様は仰っていましたが……それでも、千夜様はお気になさらないのかと思いまして」
やはり。蒼藍はいつだって千夜にはそういうことを教えてくれない。
「蒼ならきっとそう言うと思ってました。……一度、怒られたんです。ですから……蒼が許してくれるまで、逢いに行けないと思います」
そう言ったきりしゅんと俯き、千夜は黙々と水をくみ上げ続けた。由葉も押し黙り、水桶から運ぶ用の桶へと水を移していく。
由葉の母がそれでは多すぎると呆れるまで、二人とも単純作業に没頭してしまっていた。
千夜から見て由葉はとても大人だと思う。
蒼藍と同じ体質の弥栄の傍に居て。何よりもその血をもらえる程に弥栄に信頼され、そして千夜ができないようなこともあっさりとやってのける。
ばっさりと切った髪でさえ女らしく見えてくるのだ。
それに対してみるとどれだけ自分は幼い子供なのだろうか。
一方由葉からすれば、千夜ほど物わかりの良い人はいなかった。
普通、由葉が弥栄に対してしてしまったように、恋人が何らかの傷を負えば、たとえその相手に拒まれても怒られても駆け寄ってしまうのだ。
それなのに彼女は引き際というものをわきまえた。蒼藍のことを的確に知っている。
弥栄に血をもらって喜んでいるだけの自分と比べると、何て彼女は頭の回る人なのだろうか。
考えれば考えるほど勝手に落ち込んでいく二人の娘達を見て、由葉の母はくすりと笑った。
この年頃は、相手の行動に一喜一憂するものなのだ。
「由葉も千夜さんも思いきり悩んでみるのも面白いものですよ」
「……母さんの言葉ってよく分からないものばかり」
母親の前では幼い表情を見せ、由葉は頬を膨らました。
実際千夜にも彼女の言葉はよく分からなかった。悩み続けることが面白いと言うのか。悩んでいる今は面白くともなんともないのに。
「後は、相手にぶつけてみることですね」
まるで師のように笑う由葉の母。
千夜は、ぶつけてみることとはどういうことなのかちらりと考えた。
蒼藍に『ぶつけてみる』と何か変わるだろうか?
上半身を起こして包帯を取り替えながら蒼藍は弥栄のことを傍にいた黒羽に尋ねた。
「黒羽、弥栄は今どうしてる?」
「弥栄様は……健康そのもので寝てますよ。長老達にうるさく言われないのを良いことに好きなだけ寝続けています」
「全くあいつは……」
蒼藍が苦笑する。
何だかんだ言いつつも、蒼藍よりも弥栄の方が血は濃いので治るのは早い。蒼藍はまだ完全に傷口がふさがっていないのに弥栄はもう完治したというのだ。しかも治っているくせに好きなだけ寝ているとは。
「由葉が傍におりますし」
「……そうか」
元気の塊のような由葉が傍に居れば治るのも早いだろう。
「蒼藍様は千夜さんを呼ばなくてよろしいのですか」
弥栄にからかうように言われたならともかく、黒羽のような真面目な男に真剣に言われると言葉に詰まる。
包帯を巻きかけていた手をぴたりと止め、蒼藍は小さくため息をついた。
「千夜は──」
すぱんと。
勢い良すぎるほど勢いよく障子が引かれ、蒼藍と黒羽は同時にそちらへ視線を向けた。
「そ──」
そして再びすぱんと音を立てて障子が元に戻される。
千夜だった。
勢いに任せてここまでやってきたといった表情だった彼女は、障子を開けた途端に飛び込んできた蒼藍の姿に驚いたのだろう。何せ彼は上半身裸だったのだ。
ものの数秒にも至らない早業だ。
障子越しに見えた千夜の影はわたわたと慌てていた。
「ご、ごご、ごめん! 包帯取り替えてるところとは思わなかったんだ……っ!!」
折角の勢いも台無しだった。
走り込んできたくせにとんでもないことをしでかしてしまった。姉に知られていたなら何と言われたことだろう。嫁入り前の女がすることではないと手酷く怒られただろうか。
部屋の中にいた蒼藍と黒羽は顔を合わせ、それから二人して苦笑した。
「ではわたしはこれで」
取り替え終わった汚れた包帯と水桶を抱えて黒羽が立ち上がる。蒼藍はああと答えて、はだけさせていた着物を再び羽織った。
見てはいけないものを見てしまったような罪悪感に苛まれながら頬を抑えていた千夜は、急に傍の障子が引かれたことに必要以上に驚き、すっと身を引いた。
ぬっと大男が出てくる。蒼藍よりも縦にも横にも大きい。
「千夜さん、どうぞ」
「あ、はい……」
障子を開けたままにさせておいて黒羽はすたすたと廊下を歩いて行った。
少しの間逡巡してから千夜は部屋に足を踏み入れる。既に蒼藍は身繕いをしていて、ほっと息をついた。
「千夜」
「……はい」
「来るなと言った筈だぞ」
予想していた通りの言葉だった。
蒼藍は怒っている。だがしかし、千夜には前もって考えていた言葉がある。
「何度言われたって……何回拒まれたって怒られたって、わたしは蒼に逢いに来る」
「千夜、聞き分けのないことを言うんじゃ──――」
「蒼は!!」
足に力を込めて大きな声を上げる。
滅多にこんなことをしなかった千夜は、自分でもその声の大きさに驚いてしまった。
「蒼は……わたしのこと、いつまでたっても子供扱いするんだ」
「お前は子供だろう」
確かに千夜は子供だ。けれど千夜の気持ちはもう子供の頃の好奇心だけではない。
あの頃とは違う。頭を撫でることさえしてくれなかった父親とは違い、一つ一つ話を聞いて返事をしてくれた蒼藍を、父親のように思っていたあの頃とはもう違う。
「蒼の分からず屋っ」
「分からず屋って……」
額に手を当てた蒼藍が唸った。
頑固者だとかは色々言われたことはあるが、分からず屋は初めてだ。
呆れたような表情を浮かべて千夜を見ると彼女は泣いていた。
「千夜」
「わた、しが、どれだけ……蒼が好きか、分かってない……」
つっと涙が頬を伝っていく。
千夜は滅多に泣いたりしない。蒼藍も千夜の涙を見たのは数回だけだ。それについ先日涙を流したのを、蒼藍は覚えていない。
「蒼しか! 蒼しか……頭を撫でてくれなかったんだ……」
あなたが恋しい。
だから涙が溢れてくる。
「蒼の分からず屋……頑固者……馬鹿……じいさまめ……」
「待て待て」
何だか妙な方向へ文句が言っているのに気付き、蒼藍は制止をかけた。じいさまと言われて少なからず傷ついたのもある。
千夜はじとっと蒼藍を睨み付けた。いつもは大人しい彼女にしてはこれは珍しい。けれど何年前かを思い出させるその表情に、蒼藍は表情を緩める。
「全く千夜は……何を言い出すか分からないから不思議だ」
「じいさまの説教なんか聞きたくない」
自分の着物の裾で涙を拭ったが、それでも千夜の涙は止まらなかった。
蒼藍を睨みつけながらぽろぽろと涙をこぼす。
「蒼は頑固だ」
「……千夜も頑固だろう」
「聞き分けがない」
「それは千夜だ」
「じいさまめ」
「……結局はそこに行き着くのか」
苦笑し、蒼藍は千夜を手招く。未だ涙を流し続けたまま、それでも千夜は素直にそれに従った。布団に上半身を起こしたままの蒼藍の隣へ、ぺたりと座り込む。
蒼藍は手をゆっくりと持ち上げ、千夜の頬に触れた。
「泣くとそれなりに見えるな」
「……蒼はやっぱり失礼だ。分からず屋な上に失礼だなんて、嫌われるぞ」
「嫌いなのか?」
唐突にそんなことを尋ねられる。
千夜はふいっと顔を逸らすと、唇をとがらせて呟いた。
「蒼がこれ以上分からず屋になるなら嫌いになるからな」
「そうか」
蒼藍は口元に笑みを浮かべると、頬に触れていた指に力を込めた。頬を引っ張られる。
「何す……っ」
「仏頂面ばかりなのは可愛くない」
真顔でそんなことを言ってきたりする蒼藍は、きっと千夜のことをからかっているのだ。
千夜は眉間に皺を寄せた。
「じいさまに仏頂面なんて言われたくない」
それから、笑顔を浮かべてくすくすと笑い出した。
指を離してやってから蒼藍は立てていた膝に額をつけ、しみじみと呟いた。
「いつまでじいさまを引っ張る気だ千夜……」
「わたしを泣かせたんだ。暫くじいさまって呼んでやる」
楽しそうに笑い続ける千夜。
額を膝につけて千夜を眺めていた蒼藍は顔を上げて千夜の髪に手を伸ばした。良家の娘だった時のように変わらず綺麗な髪。
何度か梳いているとさすがの千夜も無口になり、じっと蒼藍を見つめた。
「……女扱いしてやろうか?」
口の端を僅かにあげ、にっと笑う。
千夜はそんな不敵な表情の蒼藍を見つめたまま、拗ねるような口ぶりで呟いた。
「何をする気だ?」
「さあてね。目を瞑っていろ」
「何故」
「いいから」
「……美鈴が、そういう男は信用するなって」
以前に傍にいた女中のことを持ち出して、千夜は蒼藍から視線を逸らさずに言った。
「蒼は『そういう男』なのか?」
「言っておくが本気だぞ」
「……なら良い」
潔くあっさりと千夜は目を閉じた。
蒼藍は髪から手を離し、千夜の体を引き寄せる。布団に上半身を起こしたままという少々病弱そうな雰囲気だったが、蒼藍の力は弱くはなく、千夜はつられて蒼藍に寄り添うようになっていた。
「まだ?」
「こういう時は黙るものだ」
そう言われてしまい千夜は文句言いたげに口を噤む。蒼藍は千夜の頬に手を滑らし、そっと口づけた。
唇を離した瞬間に千夜は目を開き、ぱちぱちと何度か目をぱちつかせた後で独り言のように口を開いた。
「初めての口付けの相手はじいさまだ」
「……もう一度してやろうか」
「いやいい。何だか蒼、目が企んでるから」
素早く身を引き、千夜は立ち上がってぶんぶんと首を振る。
これからは蒼藍にじいさまという話題を振ってはいけないと堅く誓う。子供扱いではなく女扱いしてくれるのは嬉しかったが、剣呑な表情の蒼藍を見るのはご免だ。
「黒羽様を呼んできた方が良い?」
障子に手をかけながら言うと、蒼藍は頼むと答えた。半歩外へ足を踏み出して振り返る。
「……包帯、巻いたのか?」
「いやまだ途中だ」
「それなら手伝う」
くるりと身を翻して再び蒼藍の傍に近寄る。蒼藍は険しい顔をしたが、千夜は怯まなかった。
包帯を巻かなければいけないということは、まだ完全に傷口が塞がった訳ではないということだ。つまり塞がってない傷口から血が滲む可能性がある。
血が混じってしまったら。
「千夜」
「……蒼は分かってない。わたしは……由葉様みたいに、蒼に認められたい」
この気持ちを疑うなんて心外だ。
そう付け加えて千夜は枕元に置いてあった包帯を手に取り、蒼藍を見据えた。
「蒼、わたしはあなたじゃなかったら今ここにいなかった。あなただから、外を選んだんだ。……生半可な気持ちなんかじゃない」
「……分かった。分かったからもう泣くな」
再びぽろぽろと泣き出した千夜の目元を裾で拭ってやって蒼藍は笑った。
ずっと千夜は気まぐれで自分に手を伸ばしたのだと思っていた。
大人になればいつか気持ちは変わるのだと。けれど千夜はそんなことを思っていたのではなくて。
「分かった。俺の負けだ」
「いつか蒼の血を分けてくれる?」
「お前がしわしわの老婆になる前にな」
「年齢では蒼はもうしわしわのじいさまだぞ」
機嫌の良い千夜は、くすくすと本当に楽しそうに笑った。
あなたを恋い焦がれて流す涙は。
やがて笑顔になって、消えていく。
“恋水” ──── 恋焦がれる人を想い、流す涙。