06. 千の夜を越えて
届かない月への願いを、した。
愚かな願いをしたその報いが、棘のように心を苛む。
消えてしまいたいとさえ願いたくなったその時に現れたのは、月のような、蒼藍だった。
千夜はあまりにも掠れた自分の声に驚いた。弱々しく、今にも泣き崩れてしまうような声だったのだ。
いつからこのように頼りない声を出すようになってしまったのだろう。もっと強いはずだった。父に振り向いてもらえなくても歯を食いしばって、唇を噛みしめて泣かないように自分に言い聞かせ、泣かないでいた。大人になればなるほど強くなっていけると思っていたのに、これでは幼い頃の方は強かったではないか。
こんなのは自分らしくない。
そう、焦る。
泣かなかった。耐えていた。どれだけ辛くても父の手を恋しく思っていても、前向きであるようにと頑張り、姉のように周りに人がいなければ生きていけないような女ではなくて一人で何でもするようにした。
こんな、たった一人の人に気持ちを揺さぶられるような女ではない。
これでは、蒼藍に呆れられてしまう。
千夜は慌てて着物の裾で涙を拭った。幸い驚いたせいか涙はぴたりと止まっていて、それ以上溢れてくることはなかった。
簀の子に立っていた千夜の元に蒼藍が音もなく近づき、彼女の頭にぽんと大きな手を乗せた。
頭を撫でてくれるのは、蒼藍だった。
温かな感触に、止まったはずの涙がぽろりと零れる。
蒼藍はずっと変わらないのだ。
初めて逢った時から変わらず、自分のことを子供扱いして、肝心なことは教えてくれなくて、それでも優しく頭を撫でてくれる。
おとぎ話の中の妖しの者は、恐ろしい顔をしていて人を襲う者ばかりだった。人間とは違う力を持って、優しさなど持たないと思っていた。けれど蒼藍は違う。人間の千夜にできないことができてしまうし、不思議な術までしてしまう。けれど、優しいのだ。父よりも、姉よりも。知る人の中では一番優しい。
「何だ、まだ泣くのか」
子供扱いをするなと文句を言うかと思えば、ぽろぽろと新たな涙を流す千夜に、蒼藍は目を見開いて言った。
「そ、蒼、慰めたらどうなんだ」
蒼藍の物言いに呆れて、千夜は文句を言った。
じとっと見上げると、蒼藍は肩をすくめて笑った。
「慰めているだろうに」
ほら、と言いながらくしゃくしゃと髪をかき回す。千夜の長い黒髪がゆるりと揺れて、千夜は悲鳴をあげた。
「蒼のそれは慰めとは言わないっ。子供扱いと言うんだっ」
蒼藍の大きな手の下から逃げ出して、千夜は憤慨しながら髪を手で梳いて直した。女の髪をかき混ぜるだなんて、とんでもないことをする。千夜が長身の蒼藍を睨みあげる。幼い頃よりは近くなったが、それでも蒼藍は随分と長身だったので見上げなければいけなかった。
ぷんぷんと怒る千夜の目から新しい涙は流れてこなかった。
目尻に涙が溜まっているだけである。
蒼藍は笑いながら千夜の目尻に触れ、指の腹で拭ってやった。
「泣くと一応女に見えるな」
「し、失礼だ……」
一応とは失礼な、と呆れた口調で千夜が言うのを、蒼藍は笑って聞いていた。
初めて出会った時からもう六年が経っている。
蒼藍にとっては長い時間ではなかったが、千夜にとっては十分な時間だった。少女が女に変わっていくだけの十分な時間の間、蒼藍と千夜は一年に一度だけの夜を共有した。艶めいた関係ではなく、ただ同じ時間を共有するだけだった。
妖しの者と大きな館に住む姫が共有するはずのない時間は、いつか終わらせなければならない。自分達は愛し合っている訳ではないのだから。
今夜を最後の年にすると弥栄に言った言葉を、蒼藍は忘れていない。
千夜に触れたままで、蒼藍は静かな声を出した。
「――これが最後だ、千夜」
前置きのないその言葉はするりと千夜の耳に入り込んだが、あまりにも唐突過ぎて千夜はすぐには理解できなかった。
「……え?」
結局唇から漏れ出たのは蒼藍の台詞を理解できないという、疑問符のついた言葉で。
蒼藍は顔色を変えないまま、もう一度同じ言葉を繰り返す。
千夜が勘違いをすることなく、きちんと理解できるように。
これが、最後なのだと。
もう二度と、逢うことはないのだと。
「これで、最後だ。今年で約束は終わりにする。もう来年からは俺はここには来ない」
「……っ!」
頭を鈍器で殴りつけられたような衝撃だった。どくんどくんと鼓動が耳につく。瞼の奥が一気に熱くなり、息が詰まった。
どうして、と言いたいのに上手く言葉にできない。喉で言葉が絡まって、震える唇が音を成すことはなかった。
言葉が出ていたところで、このような時に何と言えば良いのか、千夜は知らなかった。
『いやだ』──父や姉にすら言えなかったわがままを?
『はい』──納得もしていないのに、また従順な言葉を?
心の奥底から、熱い何かが奔流のように突き上げる。
それは、突然の衝動。
「蒼……わたしは……あなたが好きだ」
行かないで
逢わないなんて、言わないで
どうか、千年の恋を
とさりと立った音も、頬を撫でた冷たい夜風も、温かさも。
感じたけれど、理解はできなかった。
時が止まってしまったのではないかと思うくらいの静けさの後で、千夜は我に返った。
──ちょっと待て。わたしは今何をしている?
千夜は意外にも冷静に自己分析を始めた。
自分の手のひらに感じるのは上質な布の感触と、誰かの体温。手のひらだけでなく、他の場所にも熱を感じる。そして千夜の視線の先にあるのは……ぞっとするほど整った蒼藍の顔だった。彼が無表情なところがまた怖い。直視し続けていると魂を吸い取られてしまいそうな蒼藍の目から、千夜は逃れることができないでいた。
冷たい妖しの者の顔が、ふわりと柔らかくなる。
その顔は千夜が夜を数えながら何度も思い浮かべて馴染んでいた顔だった。
「……良家の娘にしては大胆だな、千夜」
からかいを含んだその蒼藍の言葉と同時にやっと分析が終わり、結果がはじき出された。
千夜は蒼藍の腹に手をつき、全身で蒼藍を逃がすまいとしていたのだ。つまり端的に言えば彼を押し倒していたのである。とさりと耳元でした音は、突然千夜が押したせいでさすがの蒼藍もバランスを崩してしまった音で、頬を撫でた冷たい風は、倒れ込む時のものだった。
出会ってからこれまで、蒼藍は頭を撫でる以外は千夜に触れてはこなくて。
千夜は、蒼藍の衣の裾を掴むことくらいしか出来なくて。
まともに触れたのは、これが初めてだと千夜は思った。
そう思うと同時に、かっと頬が熱を持ちだし、見る間に千夜の頬は真っ赤に染め上げられた。耳元までほんのりと赤く染まっている。
千夜は、慌てて蒼藍の上から退いた。
乱れた裾を直して、同じく乱れた髪を抑えて、真っ赤になった頬をどうにか収めようと躍起になる。
「ち、違うんだっ! これは、その、今のは……っ」
それきり言葉が続かない。
蒼藍は小さな体に押し倒されていた身を悠然と起こすと、着物についた草を払い落として面白がるように笑った。
「今のは何なんだ?」
揶揄の声にはっと顔をあげる。
自分は狼狽しきって頬を染めているのに、蒼藍は全くのいつも通りだった。それが悔しくて、言い訳をしようとする。
「体が、勝手に……」
「へえ?」
完全に面白がっている。
その様子に千夜は声を大きくした。
「絶対分かっていない! だから今のは……っ!!」
千夜が慌ててまくしたてても蒼藍の表情は変わらない。むしろ更に面白がっている。
何てはしたないことを、とひとしきり慌てふためいた千夜は、暫くすると落ち着いてきた。
自分のしたことをまざまざと思い出す。
俯いて、謝罪の言葉を口にした。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
色んな意味を込めての「ごめんなさい」だった。
六年という長い間、蒼藍は千夜に付き合ってくれていたのだ。千夜が蒼藍を縛ることなどできない。蒼藍はただ千夜のわがままに付き合ってくれていただけなのだ。それを彼の都合でやめることになった時、自分が責める権利などないことは分かっているつもりだったのに。
闇にひっそりと輝く月は決して自分のものにはならないと分かっていた筈だったのに。
手に入れられれば良いと。
ずっと傍に居てはくれないのかと、願った。
また涙が溢れそうになり、千夜は強引にそれを瞼の奥に押し込んだ。
熱を持った瞼はとても熱く、喉の奥に何かが詰まったような息苦しさに襲われる。何度も経験していることだった。泣くことを我慢するのは千夜にとって容易ではない。けれど泣いてはいけないと思った。泣く権利などないと知っていた。
だから千夜は俯いたままで、きゅっと拳を固く握り、言葉を続けた。
「ごめんなさい。……ごめ──」
「もういい」
ぐいっと手首を引き上げられ、固く拳にしていた指を解かれる。爪で傷つけられた手のひらにくっきりと跡が残っており、蒼藍は顔をしかめた。それからじっと千夜を見る。
息がかかるほど近くで見据えられて、千夜は思わず言葉を飲み込んで居すくんだ。蒼藍の目には何か力があるのではないだろうかと思うくらい、その目は抵抗を許さない。
自分で傷つけた手のひらを蒼藍に撫でられ、千夜は背筋がぞくりとするのを感じた。
恐怖ではない。
何か、何か別のもの。
もっと、とねだってしまいたくなるくらいに、甘い感触だった。
「……蒼」
思い切って顔を上げ、千夜は真っ向から蒼藍の目を見た。
今度は大丈夫だった。居すくんだりしない。相変わらず蒼藍の目には何か力があるとは思うけれど、抵抗くらいはできそうである。だから、意地だって。張ってみせる。
「何だ?」
手のひらを撫ではしないものの、蒼藍は未だに千夜の手首を掴んだままである。
けれどそうして促してくれた蒼藍の顔つきは穏やかで、笑んでいた。
また、ずきりと胸が痛んだ。
蒼藍にとって、自分と逢わないことなど躊躇なくできてしまうのだとその笑みが言っているような気がした。
「蒼は、仕事の依頼は……昼夜変わらず受けるのか……?」
声が震える。心が弱る。言うなと頭のどこかで誰かが叫んでいる。
「ああ」
けれど千夜は、迷わなかった。
「それなら……」
そっと手首が解放される。
――行かないで。どうか。
とっさに千夜は、蒼藍の襟元に手を伸ばしてしっかりと掴んだ。そんなにも強く掴んだら着物が乱れてしまうということは考えなかった。必死だった。
もしこれから自分が言うことを蒼藍に拒絶されてしまったら、もう後はない。
父の言う通り顔も知らない相手と結婚して、一生姉が言った通りに心を殺して生きていくしかない。
それは、嫌なのだ。
父や姉にすら言えなかったわがままを、どうか今だけは。
千の夜を、もう二回も越したのだから。
奇跡くらい起こしてくれたっていいじゃないか。
「わたしの……依頼を受け――」
「だめだ。俺と生きるなんて、ふざけたことを考えるんじゃない」
言葉の半ばで遮られ、千夜はびくりと肩を震わせた。
その震えが指先にまで伝わり、細い指が小さく震える。
まるで考えていることを全て見透かされているような気分だった。見つめた先の蒼藍の目は本気だった。からかいの色はそこにない。少しも、笑ってはいない。
ここから連れ出して欲しい。
そう、千夜は言おうと思ったのだ。蒼藍はきっとそれくらいのことは簡単にできる。市井の子供達と違って蒼藍にはその力がある。閉鎖的なこの館から、外の世界へと連れ出してくれるだけの力がある。それを知っている千夜だからこそ、蒼藍に依頼をしようと思ったのに。
心の臓を素手で握られているような痛みが走った。
心が悲鳴をあげている。
「だったらせめてわたしを殺してくれ……っ」
もう何もかもどうでもよくなった。姉の言った通りに心を殺して意味なく生き続けるくらいなら殺してもらいたい。
ずっと周りに見張られているこの館で千夜が自殺などできるはずがない。だからこそ蒼藍の手で殺してもらいたいと思った。
千夜の恋はおとぎ話のように本物にはならなかったけれど、蒼藍の手で殺してもらえるのであればそれはそれできっと幸せだから。
「……俺は無益な殺生はしない」
涙をぽろぽろと流しながら言う千夜に対する蒼藍の言葉は、刺のようだった。
一つ一つの言葉が、柔らかな千夜の心にぐさりと深く突き刺さる。
終わりだと、思った。
何もかも、もう自分に残された道は心を殺すことしかないのだと思った。
千の夜では、恋は本物にならない。
奇跡など、誰もくれない。
千夜は希望を失って今にも泣き出しそうな表情で――実際泣いていたのだが――そろそろと蒼藍の襟元にかけていた指を解いた。
何もかもを失ってしまったような気分というのは、存外あっさりしたものだった。
心の中が空っぽで何も考えられないからかもしれない。
だから千夜は、蒼藍の囁きを最初理解できなかった。
「……惹かれている女など、もってのほかだ……」
その囁きと同時に、蒼藍から離れようとしていた自分の体がぐんっと引き寄せられる。
気付けば千夜は蒼藍のたくましい腕の中に居た。長身の蒼藍にそうされると、千夜の頭は蒼藍の胸あたりまでしか届かない。目を白黒させていると、ふと蒼藍の心臓の音が聞こえ、千夜はそれに耳を澄ました。とくとくと規則正しい音を刻んでいる。自然とそれに自分の鼓動が合わさっていき、不思議なくらい落ち着いた気分になった。
誰にも抱きしめられた記憶がなかった千夜は、誰かの体温がこんなにも安心するものだとは知らなかった。
「本当は俺だって連れ去りたいんだ」
頭の上から落ちてくる低く少し掠れた声。
自分を抱きしめているのは確かに蒼藍の腕だと確認すると、千夜は蒼藍以上に掠れた声で言い返した。
「だったらそうしてよ……」
千年の恋が本物の恋になるのなら。
千の夜のこの恋に、どうか、奇跡を。
「そうそう。すればいいじゃないか」
第三者の明るい声に蒼藍がはっと顔を上げる。全く気配に気付かなかった。こんなことができるのは、蒼藍と同じ妖しの者しかいない。果たして、人の足幅程度の幅しかない屋敷の塀の上で器用に胡座をかいていたのは、悪友だった。それでいて全くバランスを崩しそうにないところは、以前木の枝の上で真っ直ぐに立っていた蒼藍と似ている。
堂々と覗き見をしていた弥栄を睨み付け、蒼藍は低い声で返した。
「簡単に言うな、弥栄」
「やえい……?」
千夜が顔を上げようとするのを、蒼藍は彼女を抱き込むことで制した。千夜が何やら文句を言っているがそれはこの際無視する。
「千夜はこの館の姫だ。できる訳がない」
「じゃあお前はこのまま姫君がどこの馬の骨とも知れぬ相手に奪われても良いと?」
「良い訳がないだろう」
即答だった。もう蒼藍は弥栄をごまかそうとは思わなかった。相手は子供だというつもりはない。
「では何故姫君の言うとおりにしない?」
「だから、できる訳がないと言っている」
仏頂面の蒼藍をからかうように、弥栄はぴらぴらと手を振った。
「この朴念仁が。いいじゃないか。話は私がつけてきてやったぞ」
軽い調子で語る弥栄を蒼藍が更に鋭く険のある表情で睨み付ける。問いただす目つきにも、弥栄は楽しそうににたりと笑った。その一方で、蒼藍の腕の中に抱き込まれた状態の千夜は息が苦しくなっていた。
「安心しろ。館の主人には姫君は頂いて行きますときちんと言っておいたぞ。……おい蒼藍、その娘、離してやらないとそろそろ倒れるぞ」
からかい混じりの弥栄の言葉に蒼藍が慌てて千夜を解放すると、顔を赤くした千夜は肩で大きく息をした。
酸欠で頭がふらふらする。離してくれと何度か言ったのに、蒼藍は聞いてくれなかったのだ。
きっと蒼藍を睨むと、蒼藍は罰が悪そうな表情を浮かべて「悪い」と呟いた。
「行くぞ、蒼藍。じきにうるさい連中が来る」
「……それは……話をつけたとは言わない」
「蒼! わ、わたしを連れて行って!」
ふらふらした頭でも蒼藍が立ち上がるのが分かった千夜は、ぎゅっと蒼藍の着物の裾を掴んだ。
屋敷の奥が騒がしいのは先ほどから分かっていた。嫁入りの予定がある娘を攫われては困るのだろうか。……いや、きっと政略の駒をなくすのが惜しいだけだ。
一つ大きなため息をつくと蒼藍はひょいっと軽い千夜の体を抱え上げた。ついでに弥栄を再び睨み付ける。
「弥栄、とんでもないことをしたのだから……後始末はお前がやれ」
そう言って、しがみつく千夜に「離すなよ」と今更ながら忠告し、弥栄のいる塀まで軽く跳躍した。片足で塀に着地し、千夜を抱え直す。ばたばたと床を蹴る足音が聞こえた。
急な浮遊感を覚えた千夜は驚いて更にぎゅっと蒼藍にしがみついた。この塀を越えるのは何年ぶりだろうか。以前は市井の子供達と遊んだこともあったが、年頃になるにつれて周りの目が多くなった千夜は、滅多なことでは外に出ることもなく、それどころか庭へ出ることすらあまりなかった。
「……争いごとは好まぬよ」
のんびりと弥栄が呟く。
蒼藍は振り向かずに言い残した。
「昔俺をぶちのめした男が何を言う」
返事の代わりに、男達の蛙を潰したような声が届き、音もなく塀の外へと着地した蒼藍はふっと笑った。
この分では一刻もしない内に弥栄と合流するだろう。情けないとは思うのだが、蒼藍は未だかつてこの弥栄という男に勝てた例しがないのである。弥栄はのんびりした態度に似合わず、里で最も強い男なのであった。
戸惑いがちに自分の首に手を回した千夜がきょろきょろと周りを見回すのを見て、蒼藍は苦笑した。
千夜はこれまで数える程しか屋敷から出なかったのだから物珍しいものばかりだ。以前に市井の子供達と遊んだ時とは違う風景である。
屋敷から見えていた大きな桜の木も、塀の向かい側の町並みも、そして見上げればすぐに視界に入る蒼藍も、本当に現実なのかそれすらも判別できないほどだった。
「……千夜、今なら戻れるが」
淡々と言いながらも蒼藍は全く足を緩めない。
千夜は彼の首に回した手に力を込めて首を振った。
それは、嫌だ。籠の中の鳥のように育てられてきたあの屋敷には戻りたくない。
「絶対にいやだ」
そんなことをするくらいなら、死ぬ方がましだと思う。
蒼藍に出会って。父からもらえなかった、撫でてくれる手をもらって。安心という新しい気持ちを知った。もう、知らなかった頃の自分には戻れない。戻りたくはないのだ。
「そうか」
蒼藍はただそれだけ答えた。
「迷惑なのは分かっている。でも、わたしはあなたが好きだ。なるべく迷惑をかけないように頑張るから」
臆面もなく言う千夜の目は、初めて見た時とは変わらない。だが、その表情は随分と女らしくなった。
そうだ、この目だ。人の子に過ぎないくせに、蒼藍からすれば赤子の手を捻るように息の根を止められるほどか弱いくせに、蒼藍を真っすぐに見つめるその目。同じ妖しの者からも怯えられる存在である蒼藍は、自らをこれだけ真っすぐ見つめる千夜に、いつからか、おそらくは初めて出会ったあの時から惹かれていたのだろう。
巡る四季と競うように成長していく子供は、知らぬ間に蒼藍にとって無二の存在になっていた。
色事の一つも知らない幼な子とばかり思っていたため、何のてらいもなく告げられる好意が面はゆい。両手で千夜を抱えているせいで使えない代わりに、蒼藍はため息をついて千夜の細い首筋に顔を埋めた。
「そ、そそ、蒼、何をする!」
「殺し文句は頼むから一度にしてくれ」
縋るような蒼藍の声に、一時は顔を真っ赤にして焦っていた千夜にも悪戯心が芽生えてくる。
自分の何倍も生きてきた蒼藍が照れているのだろうか?
妾の子だった自分に父は無関心を貫き通し、姉は優しく哀れむだけだった。
けれど蒼藍は。千夜の話に耳を傾けて、答えて、反応してくれる。
――母様。わたしに千の夜という名前をつけてくれた意味をわたしは知らないけれど。
千の年じゃなくても、千の夜だって、奇跡を起こすことができたのでしょうか。
わたしが蒼と行くことを母様が許してくれるのなら、わたしはこれを奇跡だと思いたい。
ぐったりと首筋に顔を埋めていた蒼藍がわずかに顔を上げて千夜と目を合わせる。髪から除く耳の端が少しだけ赤くなっていた。
この男が、蒼藍が、照れている。
それがどうしようもなく嬉しかった。じんわりと温かい気持ちが胸の中に広がっていく。
殺し文句は一度だけにしてくれと言う。そんなのは、勿体ないではないか。
千夜は蒼藍の首に回していた手に力を込めて彼の肩に額を押し当てた。
柔らかさのないごつごつとした肩だったけれど、とても温かかった。
蒼藍が不思議そうにひょいと顔をのぞき込んでくる。
「千夜?」
千夜は俯いた下で、そっと微笑んだ。
「……あと」
「え?」
ぽそりと呟いた言葉に蒼藍が反応してくれる。それが嬉しくて、千夜は顔をあげて蒼藍の目を見つめた。吸い込まれそうになるほどの力を持った目は、今は少しだけ心配そうにこちらを見つめてくれている。
千夜はそんな蒼藍ににっこりと笑うと、彼にとどめと言えるものを刺した。
「あと千年くらいは、言い続けてやる」
だからあと千年くらい言われ続けてくれ、と千夜が言う前に。
蒼藍は大事そうに抱えていた千夜を落としそうになり、慌てて抱え直さなければならなかった。
千の夜を越えて――
この恋に奇跡を。