05. くまなき月の下
月は、千年の恋を優しく見守ってくれると言う。
おとぎ話の中の月はいつだって優しく温かく守ってくれる。母親そのもののようで、今はもう、手を伸ばしても届かないほど遠かった。
――まるで、あの人のように。
簀の子に出てじっと空を見上げている細い背中に、美鈴は声をかけた。
「千夜様。今宵は月が綺麗ですねえ」
墨で塗りたくったかのような黒い空に、満月に近い月がぽかりと浮かび上がっている。月の周りには星がきらめき、灯りが必要ないくらいに明るかった。
美鈴が声をかけた先の千夜は単衣の上に羽織を羽織っただけの姿で素足のまま簀の子に立ち、月に恋をした者のようにずっと月を見つめていた。時折切なく揺れるその瞳は、幼い者のそれではなく、恋を知る者の瞳であった。
美鈴に声をかけられてもしばらくの間ぼんやりとしていた千夜は、振り返らずにそっと返事をした。
「……ええ、そうですね。とても、綺麗」
本当は返事をするつもりなどなかったのだが、姉から礼儀を教え込まれている千夜は返事をせずにはいられなかった。
小さなため息をつき、簀の子から部屋へと戻る。
部屋の中は外と同じくらいに明るかった。
「千夜様、灯りをお落としいたしますね」
寝具へと潜り込みながら、千夜は美鈴に頷く。
一昨年は、一日遅く蒼藍が逢いに来た。遅れてすまなかったなと笑いながら。
そして去年は二日遅かった。
遅いじゃないかと憤慨すると、彼は肩をすくめて悪い悪いと謝ってくれた。
仕事が忙しいのだと言っていた。何の仕事をしているのかと尋ねるとまた黙り込まれてしまうので、千夜は蒼藍の仕事の内容を未だに訊くことができないでいる。また前と同じように冷たい表情で拒絶されたら、耐えられないような気がして、怖かったのだ。
そして今日は、その約束の日。
けれど、今年も今日は来ないだろう。
明日も来ないかもしれない。三日くらい遅れるかもしれない。
それでも蒼藍はきっと会いに来てくれると信じている自分がいる。蒼藍は二年目の約束を守ることができなかったのを気にしているのか、毎年遅れてでも来てくれたから。だからきっと、今年も遅れてでもきっと来てくれる。遅れて悪かったと、肩をひょいと竦めて笑いながら。
そう信じて、ずっと待ち続けている。
それは一体、何を表しているのだろうか。
交わした約束を守ってくれる蒼藍の律儀さか。
それとも、一年に一度しか逢えないのにその日のことばかりを考え、夜を数え続ける自分の愚かさか。
「……もう……六年目……」
油に浸した紐を切って灯りを落としていた美鈴は、耳に届いた小さな声に気付いて千夜を見た。じっと天井を見つめたまま動かない千夜の唇は引き結ばれていたが、確かに声が聞こえたのだ。
「千夜様、何か仰いましたか?」
「いいえ。何でもありません」
固い声色でそう返され、美鈴は首を傾げた。
長く朝に仕えていた美鈴は、妹の千夜のことは詳しくは知らない。主人の妾の子だからと屋敷の者達は千夜を軽視する傾向がある。そんな中では美鈴は千夜に純粋に仕えている方なのだか、その彼女でも千夜の考えていることはよく分からなかった。
千夜は一年前に他家に嫁いでしまった朝に似て、顔立ちは整っている。
朝は見るからに気弱そうな人だったが、千夜は気丈である。それを美鈴は知っていたのだが、最近の千夜はあまりそうは見えないのだ。どこか憂いを帯びた表情を浮かべることが多く、先ほどのように一人で月を見上げているところをよく見かける。
このように閉鎖された館の中、しかも下男達とは関わりを持たない千夜が恋をしているとは美鈴には思えない。姉がいなくなってしまったことが寂しいのだろうかと思いながら、美鈴は「おやすみなさいませ」と礼をして部屋を後にした。
一人になった千夜は真っ暗な天井を見つめたまま、そっとため息をついた。
もうすぐ月が満ちる。
どれだけ手を伸ばしても温かさを感じられない、ひっそりと輝く月が。
蒼藍は普通の人間の五倍も生き続ける。千夜が五年かけて成長する間、蒼藍は一年分しか成長しないのだ。
実際に、蒼藍と出会ってから千夜は背が伸び、髪が伸び、顔つきも姉のように女らしさが出てきて、体つきも変わった。そうして千夜は変わっていくのに、蒼藍は時を経ても千夜のようには変わらない。千夜が子供であったということと蒼藍が大人であるということの違いを差し引いても、蒼藍の見た目は変わっていない。
最初は、千夜は蒼藍の容姿に追いつくことができるとわくわくしていたのだが、だんだんとそれが怖くなってきた。
千夜は毎年確実に大人に近づいていくのに、蒼藍は逢った時とほとんど変わらない。このまま年を重ねていつか蒼藍を追い越し、老女になっていくのだろうか。じいさまだと千夜がからかっている蒼藍が、いつか自分のことをばあさまだと言うようになるのだろうか。
それは嫌だなあと、千夜は子供らしい口調で心の中で呟いた。
――その日、蒼藍は姿を見せなかった。
月が綺麗に見えた夜の翌日は、見事な快晴。
それがまた千夜の表情を曇らせた。十六になるともう木登りはできない。いい加減着物の裾も邪魔だし、以前のように身軽ではない。お気に入りのくつろぐことができる場所がなくなり、千夜はほとんど屋敷の部屋の中で過ごさなければいけなかった。部屋が狭い訳ではないが、それでも閉鎖的な空間は気を重くさせる。
姉の朝が嫁入りしてからというもの、以前にも増して女中や男達の目が増え、自由な時間は数えるほどもない。
先ほどから延々と、もう既に覚え尽くした作法を教え込まれ、正座した足は痺れて感覚がない。今立ち上がれと言われたら悲鳴を上げるだろう。
退屈だと思いながらも真面目に話を聞いている自分はさぞ滑稽なのだろうなと千夜は思った。
自分のやりたい事も言えない。自分の好きな事も言えない。
こんな従順な自分は嫌いだ。嫌いだと思うのに、変えることができない。それもまた、千夜が自分を好きになれない理由だった。
昼過ぎ、今度は裁縫だと言われて大人しく千夜が正座して縫い物をしていると、珍しく千夜を訪れた人物がいた。
父がこの屋敷を訪れるたびに同行していた女中だった。
「千夜姫様、お館様がお越しです。いかがなさいますか」
ここで会いたくないなどと言っても無駄であることは千夜はよく分かっていた。
幼い頃であれば千夜はこの申し出に本心から喜んで出向いていただろう。
けれど、千夜はもうあの頃のようには父を慕っていなかった。
もう諦めていたのだ。どれだけ慕っても、父は愛してくれない。
ここのところ度々父がこの屋敷を訪れていることは千夜も知っていた。姉が嫁いでからは父の様子など全く知らなかった千夜だ。どうせこの屋敷には酔狂で寄っているのだろうとしか思えなかった。千夜は、成長していくにつれて妾だった母にそっくりになっていくのだそうだ。このことも、女中の陰話で聞いたことだった。
父は、そんな千夜を面白半分に見に来たに違いない。
十六年間ろくに話をしたこともなければ、顔を合わせたことも数度しかない。顔を合わせると決まって眉間に皺を寄せる父を、父とはもう思うことができなかった。
そうして逢いたくなどないと思っているのに。
千夜は、それを口にできなかった。
「……すぐに参りますと、父様に伝えなさい」
浮かない気分でそう告げ、手にしていた縫い物を膝に下ろす。
藤が描かれたその縫い物は、千夜が立ち上がろうとするとこつんと音を立てて畳の上に転がった。
ぱっぱっと着物についた土や草を手で払い、蒼藍は顔を上げた。
目にしみる夕日が赤々と輝いている。空が橙色に染め上げられ、上の方はほんのりともう藍色になっている。
視線を下に落とし、目の前にいる倒れた数人の男達を一瞥する。彼らは蒼藍と同じく、普通の人間ではない。手に持つ得物は小太刀だったが市で手に入れられるようなものではなく、特殊なものである。一般的なものよりも更に細く頑丈に作られている。女が扱うためのような小太刀だったが、上手く扱えば一突きだけで相手の息を止めることができるものだった。蒼藍が手にした太刀も似たようなもので、普通では手に入れられない、里だけで造られるものだった。
「……たったこれだけで消そうとするとは。甘く見られたものだな、俺も……」
はあとため息を吐きながら蒼藍がそう呟くと、蒼藍の隣にいた弥栄がのんびりとした口調で言った。
「確かに。我らの里の者がこれほど弱く見られるのは腹立たしい。まして私と蒼藍だぞ……」
今回は珍しく弥栄が里から出ているのであった。
その弥栄も蒼藍もこれだけとは言うが、結構な人数なのだ。因みに弥栄は手を出してはいない。争いごとは好まぬよなどと適当に言い訳をつけて全て蒼藍一人に任せて、木に身を隠し、文字通り高みの見物をしていたのだ。
蒼藍は何も言わず承諾し、容赦なく全員を地に倒した。弥栄が蒼藍だけで相手ができると判断したのは正しく、蒼藍は数ヶ所負傷しただけでものの見事に勝利した。
「弥栄、どこの者か分かるか?」
「恐らく真羅の手の者だろうよ。余程私が気に入らぬらしいな。以前から難癖ばかりつけてきて……いつまでもこちらが大人しくしているとでも思ったか」
「どうせまたお前の態度が逆撫でしたんだろう」
「これは手厳しい。私は特に何もしていないさ。ただ、あそこの里長を蹴り飛ばしてきただけだ」
けろりとした顔で弥栄が言うので、蒼藍は痛む額を抑えてもう一度ため息をついた。
「……それを逆撫でするというのだ。里長を足蹴にされて黙っているような者達ではないだろうが」
「いや、しつこかったものでな。京での仕事を我らばかりがしているのが相当気に入らぬらしく、取り分を寄越せと言う。黙って聞いていれば、しまいには京から手を引けと。冗談にもほどがあるというものだぞ」
京での仕事を取り仕切っているのは弥栄の里の者と、真羅という別の里の者だった。もめ事を解決するのが仕事と言えば聞こえは良いが、簡単に言えばただの雑用処理である。表だって言えないようなことまで何でもしているのである。その分の見返りはしっかり頂いているのだから文句を言える立場ではないが。
その内、半数以上が弥栄の里が請け負っており、それが気に入らなかったのであろう。
弥栄が里長になってからは更に仕事の依頼が多くなり、それが原因でこのようないがみ合いに発展したのである。
弱い犬ほど何とやら、と呟き弥栄は腕を組んで蒼藍を見た。
立ち姿も凛々しい蒼藍を見つめながら、からかうようにして尋ねる。
「それよりもいいのか?」
「何がだ」
手際よく倒れた者を縛っていく蒼藍は顔を上げない。弥栄の言いたいことは分かっていた。
昨日は千夜と約束した日だった。一昨年も昨年も遅れてしまった。今年こそは遅れることなく逢いに行こうと思っていたのに、今年もまた遅れてしまう。
最後の者を縛り終え、ふと蒼藍は自分の思考に疑問を持った。
何故こんなに遅れることを申し訳なく思うのだろうか。
相手は自分より八十も下だ。年の差にも程がある。祖父と孫娘ではないか。まして自分は千夜の恋人ではない。ただの話し相手である。それなのに毎年律儀に彼女の元へ足を運ぶ自分は、一体何なのだろう。
「お前が通っている姫のことだ」
ちらりと弥栄に視線をやり、蒼藍は何度も口にした言葉を口にしようとした。
「だから……」
「あれから何年経ったと思っている。子供だ、では済まさんからな」
弥栄は真剣な顔をしているつもりなのだろうが、目が笑っている。本当にからかうのが好きな男だ。
蒼藍は弥栄の目をそれ以上見ることなく、ぽいっと縛った者達を茂みの方へと放り出す。枝で傷つこうが蒼藍の知ったことではない。
「あれは子供の気まぐれだ。……もう……逢いに行かなくても俺は必要ない」
「本当か? 顔はそうは言ってはいないがな。おまけに最後に放り投げられた男、かなり八つ当たりされていたようだが」
考え込んでいたので相当に力強く投げてしまっていたらしい。そこまで見られていたのかと弥栄を見ると、にたりと笑っていた。さすが里長たる者だ。のらりくらりと生きているだけではないのである。
「……からかうな」
弥栄がふっと笑う。からかいの笑みにむっとして、蒼藍は弥栄を無視して歩き始めた。
「姫のところに行かなくていいのか」
「……今夜で最後にする」
「そうか。由葉が残念がるな。お前の通う姫にたいそう興味があったのに」
どこか含みのある笑顔を浮かべ、弥栄は腰を上げた。蒼藍が縛っていく間も腰を下ろしてのんびりしていたのである。
弥栄は藍色に染まりつつある空を見上げ、一つため息をこぼして悪友の背中を見やった。
まったく、正直ではない男だ。
里へ帰って由葉に話してやろうと思う。蒼藍にやっと佳き人ができたぞ、と。
彼はきっと、今夜を最後にはできない。
千の年を越してはいない。けれど、千の夜はとうに越したのだから。
少しくらい夢を叶えてくれてもいいじゃないか。
『お前に縁談があってな。素晴らしく良い家だ。決定でいいな?』
ずきりと胸が痛む。
「蒼……」
逢いたいと思う。今この瞬間に顔を見たいと思う。
彼が傍に居てくれて、頭を撫でてくれたらと。
それだけで涙が出てくるほど幸せなのに。
唐突に館に現れた父が千夜にした話というのは、縁談の話だった。姉が去年嫁いだ。世間一般では大分遅い結婚であった。千夜にしても、十六でまだ結婚していないというのは遅い方である。けれど千夜は自分の結婚のことなど考えたことがなく、ずっとこの閉鎖的な館で生きていくしかないのだと思っていた。
だから父が縁談の話を口にした時、まずは信じられない、と思った。
顔も知らない相手と結婚しろと、何とでもない顔をして父が言う。
幸せになれとも言わず。千夜が頷くことが当然であると思っているような顔をして、告げた。
父はさぞかし喜んでいることだろう。妾腹の自分と良家の息子が血族関係になれば父にいいようになる。所詮千夜は父の駒でしかない。
「……泣きたくない」
ぐっと堪えてみても、瞼の熱は冷めてはくれない。
無理に唇を噛みしめて我慢すると、唇がじんじんと痺れた。眉根を寄せ、手のひらに爪を立てて千夜は何とか涙をやり過ごそうとしたが、いつまで経っても瞼は熱を持ったままだった。気がゆるむとすぐにでも嗚咽が漏れそうになる。
泣かないと、決めたのに。
「千夜様……。お風邪を召されますのでお部屋にお戻り下さい」
「放っておいて」
美鈴の言葉にも今は耳に入れたくなかった。
朝が嫁いでからずっと千夜の世話をしてくれている美鈴が心配してくれていることは分かる。自分の身の回りのことくらい自分でできるのだが、周りはそうはさせてくれない。特に仕事熱心なこの女中は何かと千夜を気遣ってくれていた。それでも、今は放っておいて欲しかった。
冷たい風に当たり続ける千夜を心配そうに見つめて、美鈴はためらいがちに言う。
「ち、千夜様。余計なことかもしれませんが……以前、朝姫様が仰っておいででした」
千夜は振り返らない。
それでも美鈴は続けた。
「何事も、心を殺してしまえば良いのだ……と。ご結婚はおめでたいものですが……千夜様にとって幸せかどうかはわたしには分かりません。けれど、幸せになって頂きとう存じます……」
姉らしい言葉だと千夜は思った。きっと彼女は簡単に心を殺すことができる女なのだろう。
千夜には、できない。したくない。
「……ありがとう、美鈴」
本当は結婚などしたくないと父に言いたかった。けれどもし承諾すれば父が喜ぶのかと思うと、何故だかあの時黙り込むことしかできなかった。
愚かな娘だと我ながら思う。
振り向いてもくれなかった父が。姉しか可愛がろうとしなかった父が。
……喜んでくれるかもしれない。
そんな、予感がした。
何を期待していたのだろう。結局父は千夜のことをただの都合の良い娘だとしか思っていなかったのに。愚かな期待を、抱いた。
夜空を柔らかく照らす月が、見下ろしている。
愚かな期待を抱いた娘を。
手を伸ばしても、もう届かない。
千年の恋など本当はどこにもないのだと知っている。月は、突き放すようにただ全てのものを明るく照らしてくれるだけで、温かく包み込んではくれないのだ。
どれだけ父に冷たくされても、姉に哀れまれても、蒼藍を待ち続けなくてはいけなくても、月だけはそこにいてくれた。
けれど成長していくにつれて、月は遠くなっていく。
ただひたすら夜空を見上げる千夜にそれ以上何も言うことができず、美鈴は隣の部屋へと下がった。
千夜という自分の名前。
千の夜。
もう二千の夜を越した。千年まではほど遠いけれど……どうせなら、あと千くらいの夜は一人でいたかった。
毎年、蒼とたった一夜だけの話をしていたかった。触れはしない。愛を語ることもない。そんな艶めいた関係ではない。ただ話をして頭を撫でてもらって、終わり。ただそれだけなのだが、出会った頃からの変わらないその時間は千夜にとって何よりも大切な時間だった。
どうして自分はあの時、蒼藍の頭を撫でてくれる感触よりも、知りもしない父の手を期待したのだろうか。
その手は、撫でてくれることはなかったのに。
撫でてくれたのは。
たった一人だけ。
千夜が手を瞼に当てると、濡れた感触がした。
制御できない胸の痛みに余計に熱いものがこみ上げてくる。初めての経験に、千夜はそれを抑えることができなかった。
「泣きたくない……」
泣けばその途端に自分が弱くなってしまう気がした。
今まで張りつめていた何かがからからと崩れ落ちてしまう気がした。
月にさえ見放された愚かな自分。何も考えずにこのまま消えてしまえたらと、願ってしまいたくなる。
「……ふ、ぅ……っ」
これは、届かない月を願った自分への罰なのだろうか。
蒼藍の傍に居たいと。月に願った、報いなのだろうか。
「おやお嬢さん。何か哀しいことでもありましたか?」
かけられた声に千夜がはっと顔を上げる。
放っておいてと言おうとした口は、立っていた人物を見るとそのままぽかんと開いた。
長身のその人は。
満月が良く似合う、その人は。
「そ、う……?」