04. 新月に抱かれ
恋や愛はよく分からない。
おとぎ話も母もそのようなことは教えてくれなかった。何が恋なのか、どのような気持ちになればそれを恋と呼ぶのか、恋と愛の違いは何なのか。
今自分が抱いているこの気持ち。
あの人に、逢いたい。
この気持ちは、一体何なのだろう……?
「蒼……どうして、来ないんだ?」
一年前と同じく部屋の中を整え、女中に頼み込んで灯りをつけたままにしてもらい、千夜はずっと蒼藍を待っていた。
一年前が夜遅くだったから、昼に蒼藍が現れなくても千夜は落ち込みはしなかった。今年は夕餉もきちんと口にしたし、そわそわし過ぎて女中に不思議がられることもなかった。期待に胸を高鳴らせながら夜を待ち、ただひらすら蒼藍が現れるのを待っていた。
蔀戸を何度も開けては、庭を確認する。
どこからともなく蒼藍が現れてくれるかもしれないと、千夜は体が冷えるまでずっと暗闇を見つめていた。
そうしてついには朝になってしまい、朝の灯を入れに来た女中にひどく驚かれるはめになってしまったのだった。
『また一年後、な』
「……約束を忘れるほど……ぼけたのか、じいさま」
こてりと立てた膝に頬を乗せ、千夜は愁いを帯びたため息をついた。
蒼はじいさまだから日付を間違ったのかもしれないと自分に言い聞かせて次の日も、また次の日も待ち続けたが、蒼藍は現れなかった。
そんな日が十日を過ぎた頃、千夜は半ば諦め、恨めしげに庭を見つめて言ったのだった。
「一年目の約束を守って期待させるくらいなら……最初から、期待なんかさせるな……」
期待した自分が馬鹿みたいで、寂しかった。
まるで、頭を撫でてくれる父の手を願い続けているのと同じようで。
父は結局まだ一度も頭を撫でてなどくれないが、蒼藍は一度約束を守ってくれている。
その嬉しさを知っている分だけ満たされない自分がみじめで、千夜は何度もため息をついた。
千年の恋。
日を数え、月を数え、年を数え。
今はただ。あの人に逢える日を待ち望んでいる。
肩の位置よりも長く伸びた髪を元気に揺らして、由葉がぱたぱたと地面を蹴るようにして駆け寄ってくる。二年前にざっくりと髪を短くしてからはまた伸ばしているため、長さも丁度良いほどになっている。どうせまた邪魔になれば切ってしまうのだろうが。
「蒼藍様っ!」
さすがに真っ直ぐに懐に飛び込むことはせず、由葉は蒼藍の腕に抱きついた。
一応一年前よりは成長したのである。許嫁である弥栄は何も言わなかったが、両親や他の里の者に言われてからは弥栄以外の男性には抱きつかないようにしている由葉なのだった。
「由葉、久しぶりだな」
蒼藍は苦笑しつつ、やんわりと由葉の腕を解いてやった。
「はい、お久しぶりです! 蒼藍様、由葉は随分と女らしくなったでしょう?」
由葉は解かれた腕を自分の胸元に引き寄せ、にこにこと嬉しそうに笑って蒼藍を見上げた。
一年前に蒼藍に逢った時よりも更に背は伸び、すらりと伸びた手足は若々しく健康的に灼けている。黙って微笑んでいれば由葉の言う通り、娘らしいのであろうが、由葉は分かっていないのだろうか。歯の覗く笑い方が彼女をまだ幼く見せていることを。
蒼藍はふっと笑い、由葉の頭をぽんぽんと撫でた。
「まだまだだな」
まるきりの子供に対する物言いに、由葉は頬をふくらませて唇を尖らせてみせた。
思わずその頬をつつきたくなるような顔をするのだから、そういったところもまだまだ幼いのである。
「まだ、由葉を子供扱いなさるんですね。弥栄様と同じ」
「弥栄はまだ子供扱いなのか」
許嫁となってからもう大分経つのではなかっただろうか、と頭の隅で考え、蒼藍は少し驚いたように尋ねた。
蒼藍の知る弥栄は女との関わりを楽しむ男である。言ってしまえば、女性関係はかなり派手な男であった。それでいて別れ際は鮮やかなもので、蒼藍は弥栄とは長い付き合いになるのだが、未だかつてこの男が女と問題を起こしたところを見たことがない。後腐れなく、というのはまさしくこのことである。
そんな弥栄だから、由葉のこともきちんと女として見てやっているのかと思えばそうではない。
確かに一年前はまだ幼かったかもしれないが、蒼藍の目からして由葉は言葉で言うほど幼くは見えない。
不思議なものである。
蒼藍の驚きに、由葉は唇を尖らせたまま拗ねたように呟いた。
「……そうですよ。由葉はもう十六になりましたのに。いい加減由葉に血を下さっても良いと思いませんか? 由葉が弥栄様よりも老いたらどうするんですか。弥栄様より老けた由葉が妻になるだなんて、そんなの嫌です。蒼藍様もそう思われませんか? 実際には弥栄様の方が由葉の何倍も生きているのに、妻の由葉の方が老けていたらおかしくないですか?」
兄と慕う蒼藍に、由葉は立て続けに問いを投げつけた。
蒼藍はやれやれと肩をすくめるだけである。
弥栄の血には力がある。蒼藍も同じだ。この里に生きる者の内、妖しの者の血を色濃く受け継ぐ者達に未だ残る能力。彼らは、同じ命を持たない者に、時を与えることができるのである。
彼らが不老不死ではないために、相手にも永遠の命を与えることはできないが、彼らと同等の時間を永らえることができるのである。つまり、普通の老いを止めてしまうのだ。
血の儀式と呼ばれるそれを施さなければ、由葉は人と同じように成長し、人と同じ速度で老い、朽ちていくだろう。
弥栄はいつまで血の儀式を渋る気なのだろうか。
だが蒼藍は弥栄の渋る気持ちが分かる。
長く生きるのは良いことばかりではない。親や友人が老いていくのを間近で見ることほど辛いことはないのだ。それ故に一生を添い遂げる者にしか血の儀式を行ってはいけないことになっている。互いの血を少量注ぐだけの儀式は、たったそれだけでもう取り返しがつかない。
「弥栄には弥栄の考えがあるのだろう」
深く議論をするつもりはさらさら無かったので曖昧にかわしておいて、蒼藍は由葉の頭をもう一度撫でてやった。
不服そうに俯いていた由葉はそれで機嫌を直し、子犬のようなくるりとした瞳を蒼藍に向けて、幾分楽しそうに声をあげた。
「そうだ! 蒼藍様、ここへお戻りということは例のお約束ですか?」
「ああ、そのつもりだ」
蒼藍はそう返答しながら、ふと千夜の様子を思い出して口元に微笑みを浮かべた。
芳影が怯える笑顔ではない、柔らかな笑顔であった。
蒼藍がこのように笑うのを見たことがない由葉は、ほんのりと頬を染めて笑った。
「由葉は羨ましいです、その方が」
「何故だ?」
「蒼藍様にそんなに想われるなんて、その方はお幸せですね。妬けてしまいます」
ふふ、と由葉は両手を合わせて笑う。
けれど蒼藍は不思議そうに軽く首を傾げた。
「……想う? 俺が?」
「はい。弥栄様の前にいらしても、そのように優しい笑顔は見たことがなかったです。蒼藍様は、その方を想っていらっしゃるのでしょう?」
にこにこと笑ってみせる由葉にへえと呟きを返して、蒼藍は思案するように自分の顎に手を当てた。
自分は千夜に惹かれているとでもいうのだろうか。
百を越えた自分が……十を越えたばかりの子供に?
「どうだかな」
思案してみても答えは出なかったので、蒼藍はやはり曖昧に濁した。
「もう! ご自分のこととなるといっつもそうなんですから!」
由葉はぷうと頬を膨らましてみせた。
苦笑しながらも蒼藍はそれ以外に答える手だてがなかったのだから仕方ない。自分のことが一番よく分からない。客観的な立場を取ることができないからだろうか。いや、蒼藍は今まで自分を分析することなど簡単にやってのけていた。どんな仕事の時も冷静さは失わなかったし、自分がどのように考えているのか、どのように考えるべきなのかは手に取るように分かっていた。けれど今はまるで自分の考えが分からない。
「……蒼藍様」
「何だ?」
「今宵はまたお仕事ですか……?」
腹の前で手を組み、不安そうな表情で由葉が蒼藍を見上げる。
蒼藍は笑みを漏らして彼女の頭をぽんぽんと撫でてやってから、からかうように言った。
「そういう表情は弥栄だけにしてやることだな」
「そうやって蒼藍様も弥栄様と同じようにはぐらかすんですね。……お気をつけ下さい。一年前のようにお怪我など負ったりしないで下さい……」
「分かってる。必ず近い内にご機嫌伺いに来るから」
これ以上の長話は無用とばかりに由葉から手を離し、弥栄の家の方向に向かって軽く押してやった。
わざわざ悪友の機嫌を損ねるものではない。こうやって弥栄以外にも隙のある表情を見せるから弥栄に子供扱いされるのだ。
踵を返して里の入り口の方へと歩いていく蒼藍の後ろ姿を見つめ、由葉は祈るように眼前で手を組んだ。
里長となった弥栄はそうそう危ない仕事を引き受けはしないが、蒼藍はよく流血沙汰に巻き込まれるような仕事をしていた。そして今日の仕事もまた危ないらしい。
確か今日の依頼は誘拐監禁された姫君を依頼主の元へ返すことだっただろうか。
監禁したのが警吏だというなのだから呆れる。
「由葉はいつも弥栄様と蒼藍様のご無事を祈ってます……」
見えなくなった蒼藍に声が届くことはなかったが、由葉は目を閉じて祈った。
――今夜は月が出ない。
わずかに開いた蔀戸の隙間からぼんやりと闇を見上げて千夜は思った。
初めて蒼藍に逢った次の年、彼は約束通り逢いに来てくれた。だがその次の年彼が顔を見せることはなかった。どうしてもそのことを信じたくなくて、蒼藍が約束を違えたとは思いたくなくて、千夜はずっと彼を待ち続けていた。けれど結局彼が現れることはなかった。
『死んでいなかったら逢いにくる』
……それならば、死んでしまったのだろうか?
「千夜様」
「……どうしました」
「朝姫様がお姿を消されてからというもの、不穏な事件が相次いでおります。どうか、戸をお閉め下さいまし」
姉の世話をしている女中が恭しく頭を下げる。
千夜は反論せずに蔀戸を静かに閉めた。
姉の朝が姿を消した。
ある日突然目覚めたら姉がいなかったのだ。屋敷中を女中や男達が探しても姉は見つからなかった。そしてその後女中伝に聞いた父の言葉。『朝は警吏にその身を監禁されているようだ』と。
少しほっとした……と言えば、周りの人間は皆千夜を蔑むだろう。
だが、同じ姉妹でありながらもあまりにも扱いが違う千夜は、さして姉を好んでもいないのだから仕方ない。
優しく哀れむだけの姉を慕ってはいたけれど、愛してはいなかった。
「寝ます。……下がりなさい」
「い、いいえ! 今宵は……、今宵はっ」
「今宵は何だと言うのですか」
冷めた目で千夜が女中を見据える。彼女は自分よりも幼い主人の妹の視線にびくりとしてから、視線をさまよわせて言った。
「今夜は……お館様が、朝姫様を救出なさるための男を雇った日でして……何が起こるか分かりません。ですから、千夜様のおそばを離れぬようにと」
「父様が……ですか」
もし誘拐されたのが自分なら父は探しだそうとしただろうか? いや、放っておかれるだろう。それどころか腹の底から喜ぶかもしれない。こうして千夜に女中を付けておくのも、どうせ体裁のためだけた。
自嘲の笑みを浮かべ千夜はそれでも下がれと言おうとした。一人になりたかった。
それなのに、がたんという派手な物音に言葉を遮られる。全く、誰かに邪魔されない時はないのだろうか。
「な、なな、な、何者!」
女中のやけに慌てた声を聞いて千夜は、はあとため息をついた。顔にかかる黒髪をかきあげ、千夜はためらうことなく蔀戸を押し開けた。
冷たい夜風が部屋にそろりと這い入る。
月が出ていない夜のため、頼りになるのは部屋の中に点された灯りだけだった。
「千夜様! 危険です、お閉め下さいまし!」
慌てて追いすがろうとする女中をちらりと一瞥して、千夜は目をこらして暗闇を見据えた。
血の匂いがする。
用心深く千夜は庭を見つめていたのだが、その時突然すっと横合いから影が現れた。咄嗟に悲鳴を上げようとした千夜だったが、暗闇に浮かぶ顔を認めるとはっと息を呑んで蔀戸から身を乗り出した。
暗闇に溶け込むかのような黒い装いをしたたくましい男だった。
直線ばかりで造られたかのような男性的な体。端正な顔立ち。
そのどちらも、千夜の知るものだった。
「……蒼……っ」
二年前に逢ったのと少ししか変わらない蒼藍が、そこにいた。
二年も時は経っていたが見間違える筈がない。
突然現れた彼が千夜の顔を見るやいなや、その体から力が抜けて蒼藍は庭に膝をついた。その彼の額には血が滲んでおり、目にまで流れているのを見た千夜は慌てて蔀戸を越え、簀の子から庭へと裸足のまま駆け下りた。素足に感じる石ころの痛みに頓着せずに蒼藍へと駆け寄ろうとしたところで、千夜は再び息を呑んだ。
自分のものよりもずっと太くて力強い腕の中にいる人物に気付いたのだ。
青ざめた白い顔に、かさついた唇。髪は乱れ、目はきつく閉じられていたけれどそこにいたのは紛れもない千夜の姉、朝だった。
「姉様!?」
「あ、朝姫様!」
女中もそのことに気付き、千夜を追って自らも庭へ降りて駆け寄る。
得体の知れぬ男などに姫を預けてはおけないとばかりに気迫のこもった目を蒼藍に向け、彼女は蒼藍の腕の中から朝を抱き取ってじりじりと後退した。
「蒼……どうして姉様を……」
問いかけようとした千夜は、蒼藍の息が荒く、そして彼の額から流れる血が止まっていないことに気付いた。
目の中まで入り込んだ血が彼の目を真っ赤に染めている。
千夜は血相を変えて手を伸ばし、叫んだ。
「蒼、血が!」
「触るな、千夜」
膝をついたままの蒼藍がひどく冷たく言い、その声の厳しさに思わず千夜はびくりと身をすくめた。
蒼藍の傷に触れるか触れないかのところで千夜の白い指先が止まった。まるで金縛りにでもあったかのようにその指はぴくりとも動かせなかった。
ひどく張りつめた一瞬の後、蒼藍が少し千夜から身を引く。
その動きと同時に自分の指の感覚が戻り、千夜は驚いた様子で自分の指をじっと見つめた。
それから蒼藍を見やる。彼は未だ荒い息をしたまま、正気を保った揺るぎのない瞳を千夜に向けた。
「千夜……今怪我していないか?」
「え? あ……どこも怪我はしていない。怪我をしているのは蒼だろう? それがどうかしたのか?」
もし千夜が血を流していたら、蒼藍が触れれば大変なことになる。血の儀式は案外簡単にできてしまうのだ。
それを危惧していた蒼藍だったが、千夜に怪我がないと分かると眉間の皺を緩めた。
「いや、怪我がないならいい。……手を貸してくれるか?」
「ああ、何本でも使え」
言葉がしっかりとしているところを見てとって安心したのか、胸を張って千夜は言った。
「手は二本しかないだろう」
「そ、それはそうだが……気持ちの問題だ!」
蒼藍に手を貸してやって彼を立たせてから、千夜は蒼藍を見上げた。蒼藍を見つめるその瞳には、信頼と恋慕の光が宿っていた。
「ち、千夜様!! そのような男に触れるなど……っ!」
朝を支えたままの女中が悲鳴をあげる。
千夜は先ほどと同じ冷たい視線を彼女に向け、言った。
「『そのような男』? 姉様をこうしてお連れくださった方をそのような男呼ばわりするつもりですか。無礼も甚だしい」
押し黙った女中を一瞥し、千夜は自分の夜着の袖を裂いて用心深く傷口には触れないように、身をかがめた蒼藍の額に押し当てた。そっと拭うと、真っ白い布にべっとりと赤い血がこびりつく。血は止まらず、拭ったあともまだじわじわと滲んでくる。
どれだけ深い傷を負ったのか千夜は分からなかった。もう一度拭おうとするのを蒼藍は止め、布を千夜の手から取って自分で傷を押さえた。
だが結局は布が血で使い物にならなくなってしまい、千夜は再び布を裂いて蒼藍に手を伸ばした。
「蒼……もしかして……父様が依頼したのが蒼だったのか……?」
「それ以外に手傷を負ってまでして俺が朝姫を助ける理由は?」
「ないな」
「即答か」
大人しく千夜に額の血を拭われながら蒼藍がふっと笑う。
それから大きな手を伸ばしてぐりぐりと頭を撫でると、千夜は子供扱いはやめろと睨み付けてきた。けれどその瞳に嫌悪の色はなく、じゃれあう兄妹のような親しさであった。
その様子にあんぐりと口を開けていた女中に気付き、手厳しく彼女に言いつけた。
「美鈴、姉様を部屋の中へお連れして。すぐに温めてさしあげなさい」
「ですが千夜様……」
「お黙りなさい。姉様に仕えるのなら、姉様の身を一番に案じるべきでしょう」
毅然とした物言いだった。
彼女はまだ何か言いたげだったが、四苦八苦しながら自分よりも背の高い朝を慎重に移動させ始めた。彼女と朝の姿が見えなくなるまでじっとその後ろ姿を追っていた千夜は視線を再び蒼藍に戻し、新たに布を裂いた。
「蒼、もう一度かがんでくれないか。届かない」
「いや、もう大方止まった。あとは放っておけば治る」
そのように軽い傷ではないはずだったが、蒼藍はきっぱりとそう言うので、千夜は何も言わず新しく作った布で血に汚れた自分の指を拭った。そうしながら、ぽつりと言った。
「……蒼は嘘つきだ」
「何故?」
「一年前……死んでいなかったのに来なかったじゃないか……」
「悪い。死にかけていたのでな」
「……は?」
思わず間抜けな声が出る。
目の前の蒼藍は、少し気まずげに顔を背けてもう一度繰り返した。
「仕事の途中でやられた。一月くらい歩けなくてな」
そう、あの時は本気で困った。
今日も実は朝を助ける際に集団で襲われて不覚にも手傷を負ったのだが、一年前は本当に死ぬかと思ったのだ。
弥栄に頼まれた仕事ではあったが、ひどい手傷を負ってしまった。体の丈夫な妖しの者が聞いて呆れるほどの大怪我で、治るのも早いはずの蒼藍でさえ一月ほど身動きが取れなかったのである。
「蒼でも失敗するのか。……と言うか、おまえ、一体何の仕事してるんだ……?」
「何だと思う?」
「そうやってはぐらかされるのは嫌いだ」
子供扱いをして本当の理由を誰も教えてくれない。父のようなやり方は嫌いだった。
悔し紛れに手を伸ばして額を軽く叩くと蒼藍が眉をしかめた。傷口を叩くのは頂けない。
「千夜。俺はお前に名前を教えた。それだけでも充分俺にとっては不都合なんだ。――俺は、人ではないんだぞ」
言外に仕事のことはこれ以上訊くなと言われた気がして、千夜は衣の裾をぎゅっと掴んだ。
初めて逢った時から三年が経ったのに。もう千以上の夜を数えてきたのに。蒼藍の心は未だによく分からない。
「……はい」
従順な答え方に蒼藍がじっと千夜を見つめる。
良家の娘である千夜は、確かに女中達に対する言葉遣いはそれらしくしていた。けれど蒼藍に対しては普通の子供の話し方だった筈だ。
「千夜」
何だと蒼藍を見返した千夜は、大人しそうな顔をしていた。
子供らしい笑顔を浮かべていればいいのに。
そんなことを考えながら蒼藍が千夜の頬に手を触れる。まだまだ子供らしく柔らかで温かい頬だった。
「怒った訳じゃない。千夜、俺に対してまで『構える』必要はないんだぞ」
「……うん……」
「よし。それで良い」
くしゃりと千夜の頭を撫で、蒼藍は手を離した。
「……来年は……」
小さく掠れた声で千夜が言う。
何となく不安だった。もしかしたら来年こそ蒼藍は本当に来てくれないかもしれない。今日蒼藍が来てくれたのは、仕事のためだったかもしれない。そう考えると目の奥が熱くなった。
「足を引きずってでも来るさ」
蒼藍の答えに千夜がほっと肩から力を抜く。嬉しかった。
父のような兄のような、そんな蒼藍とまた逢いたい。哀れむ姉でも、声すらかけない父でもない。きちんと千夜の話に耳を傾け、相手をしてくれる蒼藍を、千夜はいつしか本当の家族のように感じていたのだ。
「蒼が来なかったら、わたしから逢いに行くからな」
千夜が勇ましくも挑むようにそう言うと、蒼藍は「俺の居場所を知らないくせに」と柔らかく笑ってくれた。