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千の夜を越えて  作者: 皐月
本編
3/10

03. 夜を数えて願う

 気紛れに交わしたような、口約束だった。

 思い返してみれば、あれは屋敷の男達が集まったため、その場しのぎで漏れた言葉だったかもしれない。勿論自分にとって彼らが障害になるようなことなどあり得ないのだが。

 それにしても自分らしくなかった。初対面の相手に本当の名前を教え、更には再び逢う約束までしている。弥栄がからかった通り、相手が絶世の美女であれば自分でも納得できるのだが、相手は年端のいかない子供だ。断言できるが、自分にそのような趣味はない。

 馬鹿なことを、と蒼藍は小さくため息をついた。


 子供が気まぐれ口にした約束に百年以上も歳を重ねた自分が付き合うことはない。そう心の内で呟きながらも、蒼藍は真っ直ぐに足を動かしていた。

 里を出ると途端に純粋な人の匂いが鼻につく。

 弥栄の里は奇妙なほど心地良い場所だからか、里とそうでない場所の境界がくっきりとよく分かった。桁外れの嗅覚を持つ蒼藍は一度顔をしかめた。この匂いは不愉快ではあるが、里から出て少しもすればすぐに慣れる。もう随分と慣れた匂いだからだ。一年のほとんどを里の外で過ごす蒼藍は、嫌でもこの匂いに慣れるのである。

 それでも以前は人の多い場所など進んでいこうとはしなかった。

 里を出たとしても出歩くのは夜で、人の多い町へはあまり行かない。どうしても行かなければならない仕事の場合は可能な限り迅速に終わらせて早々に引き上げていた。

 それなのに自分が今向かっているのは、人の匂いの充満した京だ。

 夕方を過ぎていてもまだ人の匂いが濃い。店じまいをする人々や、足早に家に向かう人々がさざめいている。そんな人通りの多い大通りを歩きながら、蒼藍は途中で一つ角を曲がり、更に進んだ。

 蒼藍にとって、普通の人間の五年くらいが一年にあたる。普通の人間の一年は蒼藍には一年の五分の一である。だから一年前にふとした好奇心で寄った巨大な屋敷への道も鮮明に覚えている。ついこの間の出来事のようなものだ。


『あの……蒼、また逢えるか?』


 そう言った少女の顔もありありと思い出すことができる。

 勝ち気な物言いをするかと思えば捨てられた子犬のように怯えながら手を伸ばそうとする。

 不安定な子供だと思う。失言に気付いてこちらの顔を窺った時の顔にははっきりと怯えがあった。蒼藍に害意はなかったのだが、あの時の子供の顔は明らかにこちらを……というよりはおそらく大人の男を恐れていた。あのように大きな屋敷に暮らして「姫」と呼ばれる身の者だ。絶対的権力者である父親の影でも見たに違いない。

 そうして怯えたのに。

 また逢いたいと言う。

 蒼藍にとって人とは不可解なものであったが、やはりあの子供も人間であり、不可解だ。

 何故、妖しの身に逢おうと望むのか。物珍しかったから、という理由はあの子供には当てはまらない気がする。勘でしかないのだが、もう一度逢いたいと言った彼女は、妖しの者を求めたのではなく、蒼藍自身を求めたようであった。

 自慢ではないが由葉は別として、芳影を始めとする子供には敬遠されがちである。

 それなのにあの子供は蒼藍自身を恐れはしなかった。

「不思議な人間もいるものだ」

 独りごち、蒼藍は紺色に暗く染められていく空を見上げた。「蒼」と「藍」というどちらも青い色を指す言葉から成る名前は、自分がこの色をした空の時に産まれたかららしい。

「……楽しそうな名前、ね」

 蒼藍はくすりと小さく笑った。


 千夜が覚えていなければそれでもいい。騒がれたとしても幸い運動能力には自信がある。あのように鈍くさい人間の男達など蒼藍の相手にはならない。難なく行って戻ってくることができるだろう。捕まることは、まずない。

 だから、千夜があの約束や自分を忘れていても良かった。

 ……良かったと、思うのに。

 あの真っ直ぐな目で見つめてきた彼女が約束を忘れているのではないかと思うと、心が重くなるのは何故だろうか。

 あの約束は、蒼藍にとっても気紛れでしてやっただけの口約束だ。千夜だってそうだったに違いない。人間にとっての一年は長いものだ。その間ずっと忘れずにいるかどうか定かではない。


『……約束』


 妖しの者の血が色濃く流れていると言ったにもかかわらず、名前を訊いてきてあまつ楽しそうだと感想を述べた千夜。

 美姫と名高い朝の妹だったか。確かに顔立ちは市井の娘とはかけ離れて整っていた。肌は白くなめらかで、黒々とした髪は綺麗に伸ばされていて、紅をさしていない唇は桜色をしていて幼さが残り、勝ち気そうな瞳は黒曜石のように黒い。妖しの血が流れている里の者達も見目の良い者が多いが、比べても引けを取らない顔立ちであった。

 だが、それにしても子供だ。まだ父母に甘えていてもおかしくない年頃なのだろう。

 ふうとらしくもなくため息をつくと、蒼藍は自重を無視するかのようにひょいっと塀に手をかけ、広大な敷地にお邪魔することにした。

「相変わらず緊張感のない……」

 これだけの敷地を持つ屋敷なのだからもう少しくらいぴりりとした空気を持っていてもおかしくはないのだが。一年前も思ったことを、蒼藍はもう一度思った。これでは噂の美姫とやらはいつ襲われても仕方ないのではなかろうか。



 音もなく着地してひとまず慎重に辺りを見回す。

 着地したすぐ横手には一年前に千夜と話をした大木が記憶と違わずどっしりと構えており、庭の様子も一年前と変わらず整然と整えられていた。

 そこまで確かめて、はてと足を止める。一年前彼女に会った時は木の上だったのだから、蒼藍は彼女の寝所を知らない。


 約束を破るつもりはなかった。ここまで来たのだ。今更顔も見ずに引き返すのも割に合わない。

 一目だけでも顔を見て帰ろうかと、蒼藍はふと目に入った灯りのついた部屋に目を向けた。闇の中、その部屋だけがほんのりと灯りを灯しているのが分かる。一か八か。口の端に不敵な笑みを浮かべ、蒼藍は足音も立てずその部屋へ近づいた。

 簀の子まで近づいてみて分かったのだが、部屋にいるのは人が一人。

 ……そしてその人間は眠ってはいない。

 ほぼ確信に近いものを抱いた蒼藍は足下に舞い寄ってきた木の葉を拾い上げ、ふっと息を吹きかけた。

 濃い血を持つ者が得意とする簡単な術だ。木の葉は蒼藍の息を受け、ふらふらと舞いながら落ちていき、足下に着くと同時に黒い影を作った。

 これで上出来だろう。少なくとも普通の女の影に見える筈だ。

 影は灯りの点る部屋のすぐ傍に「立つ」と、声を発した。

 由葉あたりが見れば「影が喋るなんて反則です!」とでも言うのだろうが、この場にはそのようなことに口だししようとする者はいなかったので、影が咎められることは全くなかった。


「千夜」


 影の発した声は恐らく千夜の姉である朝のものと同じなのだろう。蒼藍は直接朝の声を聞いたことはないが、影のやることは完璧な模写なのだから、きっと朝もこのような艶やかな声なのだ。

 反応は早かった。部屋の中で人の動く気配がし、慌てたようにこちらへ駆け寄ってくる。

「姉様!?」

 姉に気を遣ったのかできるだけ静かに蔀戸を開けながら、千夜は顔を上げた。


「こんな夜にいかがされまし────」


 目の前にあると思っていた姉の姿はなかった。あったものは、口元を緩めた男の姿で。

 このような夜に寝所に男がやってくるなど、初めてのことだったので千夜は目を丸くして口を開いた。

「曲も……っ! ……じゃ、ない。……蒼か……」

 思わず人を呼びそうになった千夜は、大声を出しきる前に一度口を閉じ、じっと男の姿を見てから噛みしめるように呟いた。


 待っていたのだ。


 この一年間、毎日あと何日なのかと数を数えて、心待ちにして。

 この屋敷に囲まれて暮らすつまらない自分の人生を変えてくれるかもしれない、蒼藍とまた逢える日が待ち遠しくて。

 女中達にはしたないと思われそうなほどそわそわして、この日を迎えた。

 いつもより早く起きて、お気に入りの着物を選んで、昼を待った。一年前に逢ったのは日が暮れる前だったのだが、蒼藍はいつ来るかとは言わなかった。どこで逢おうとも決めていない。しばらく考えた後、千夜は家の者の目を盗んでそっと部屋を抜け出し、庭の木に登った。

 早く、早く逢いたい。

 それだけを思ってずっと木の上で待っていたのだが、日が暮れだしても蒼藍は現れなかった。

 夕餉の時間になり、女中達が騒ぎ出す前にと慌てて部屋に戻らなければならなかった。そうして口にした夕餉は味気なく、食べた気がしなかった。その後も庭を気にしながら部屋の中でじっと待っていた。女中が現れて灯を消すからと言われたのだが、頼み込んで点けたままにしてもらった。

 まだ「今日」が終わった訳ではない。

 だから、待っていたかった。

 そうしてまんじりともせずに部屋で一人思案していたのだが、そんな時に外から姉の声が聞こえてきて千夜は飛び上がりそうになった。姉はもうとっくに就寝していたはずだからである。

 このような時間になってわざわざ自分の部屋を訪れるなど、何があったのだろうかと、まろびそうになりながら駆け寄ってみれば、見えた影は紛れもなく姉の影で、急いで蔀戸を開けた。

 顔を合わせるのは、姉のはずだったのに。

 そこに立っていたのは、約束をしていた相手で。

 最初は曲者なのかと思い声を上げそうになったが、記憶に残る一年前の男と全く変わらない蒼藍を認めて、千夜はにっこりと笑った。


「蒼、約束覚えていたんだな」

 あんな、単純な口約束だったのに。

 律儀にもまた現れてくれた妖しの者。

「忘れないさ」

 ひょいと肩をすくめ、蒼藍がこともなげに言った。

 千夜は目を瞬かせ、それからいたずらっぽく笑ってみせた。

「じいさまなのにか?」

「……あのな」

 むすりとした顔で低い声が返ってくる。その反応に、千夜は楽しそうに笑った。飾り気のない素直な笑い方に、蒼藍がわずかばかり眉尻を下げる。

「久しぶりだな。大きくなったか?」

「まあな。蒼は、変わらないな」

 少々自慢げに千夜が言ってみせる。寝具の単衣しか着ていないのだが、それを差し引いてもとても豊満な肉体とは言えない少女だった。裳着もしていないに違いないと蒼藍はそこから察した。

「蒼、今そこに姉様がいらっしゃらなかったか? お声がしたはずなんだが……」

 ふと千夜は生真面目な顔つきになり、蔀戸から身を乗り出してきょろきょろと簀の子を見回した。が、そこに姉の姿はない。蒼藍は何気ない素振りで下に落ちた葉を拾い上げ、再びふっと息をかけてやった。そうするとまた先ほどと同じように葉が舞い落ち、その影が人の姿となって柔らかな声で「千夜」と言う。

 一部始終を見ていた千夜はぱっちりと目を見開き、何度か瞬きをした後で蒼藍を見上げた。

「随分とまた……便利なものだな。それも簡単なのか?」

 このように人外の力を見せつけられれば大概の人間は恐れをなして身を固くするものなのだが、千夜は純粋な興味を持って尋ねてくる。思わず蒼藍は笑ってしまった。

「ああ、簡単にできる」

「へえ……」

 千夜は興味深そうにただの葉に戻ったものをじっと見ていた。


 千夜が胸を張ったように、一年前よりも背が伸び、髪も伸びていた。子供の成長というものは随分と早いのだ。お転婆そうなところは少しも変わっておらず、その勝ち気な瞳も、怖じ気づかないところも変わってはいないが。

 しばらく葉を見つめていた千夜は顔を上げ、自分よりもかなり背の高い蒼藍の腕に小さな手を置くと、中に入ってと促した。蒼藍は弥栄に関係を疑われるのではないかと躊躇(ちゅうちょ)したものの、遠慮なく上がらせてもらうことにした。自分にその気がないのだから、これは怪しいことではないのである。蔀戸を越えて室内へ入ると、几帳(きちょう)などの調度が端に退けられており、こざっぱりとした部屋になっていた。

「……御簾(みす)はないんだな」

 ぽつりと蒼藍が言うと、千夜は難しそうに眉根を寄せて言った。

「御簾で顔を隠さなきゃいけないような人はここには来ないんだ。父様は、わたしのことを疎んじておられるから」

 几帳などと一緒に隅にまとめていた円座を二つ持ち上げ、一つを蒼藍に渡し、千夜はもう一つにすとんと腰を下ろした。ほのかな灯りに照らされた小さな顔が蒼藍に向けられ、黒曜石の瞳がじっと見つめてくる。

「何だ?」

 尋ねてやると、千夜は困ったように視線を逸らしてから、ぽつりと言った。

「蒼が約束を忘れていたらどうしようかと思った。あの時蒼は乗り気じゃなかったから……。でも、もしかしたら来るんじゃないかと思って、待ってた。そしたら蒼が来たんだ。夢だったら困るから、見ておくことにする」

「ずっとか?」

「うん」

 時折大人びたことを言うのに、そうかと思えば幼い言葉でこくりと頷く。やはり不安定な子供だと蒼藍は思った。

 立てた両膝に頬杖をついたまま千夜は蒼藍を見つめ、尋ねた。

「蒼は、まだ姉様を攫うつもりなのか?」

「いや、そんなつもりはないが」

 これは意外なことを訊かれたとばかりに蒼藍が不思議そうに答える。

「……そうか」

 千夜は桜色の唇を微笑みの形に変えて、嬉しそうに笑った。


 それでは蒼藍は自分との約束のためだけにわざわざ来てくれたのだ。

 そう思うと、胸の中に灯りが点ったように、嬉しさがぽっと咲いた。


「……そ──」

「千夜様!!」


 蒼藍にかけようとした千夜の言葉が、突然鋭い声に遮られる。ばたばたと、夜だというのに簀の子を蹴るうるさい音が近づいてきた。これでは屋敷の者が全て起き出してしまうではないか。

「……邪魔ばかりする……」

 細い眉を心底嫌そうにひそめ、どうする、と千夜は蒼藍を見上げた。

 一年前の彼を見る限りでは彼はこの屋敷の者などには捕まえられない。妖しの者とはそういう者である。だから千夜は少しも焦っていなかったのだが、当の本人は千夜以上に悠然としていた。口元には笑みさえ浮かんでいる。

「さあ、どうするかな」

「蒼、几帳の後ろに居てくれ」

 千夜はため息まじりにそう言うと、すっと立ち上がった。

「何とかできるのか?」

 面白そうに蒼藍が尋ねてくるので、部屋の端に向かいながら振り返った千夜は、あまりにも余裕たっぷりな彼を見てひょいと肩をすくめてみせた。この仕草は蒼藍がよくするもので、それを見た蒼藍は小さく笑った。

「……これでも、ここの姫なんだ」


「姫様っ!! 千夜姫様はお目覚めでしょうか!?」

 あれほど大きな物音を立てておいて寝ていろという方が無茶である。

 もう大分近くまで来たのだろう。影が見える。……五、六人ほどか。

 千夜は部屋の端まで歩き、静かだがよく通る声で蔀戸の向こうに向けて言った。

「何事ですか」

 口調は姉に教え込まれたものである。

「千夜様、何奴かがこの屋敷に侵入したとのことです! 女中が不審な者を見たそうです。異変はありませぬか!?」

「お部屋を調べ──」

「異変などありません。女の寝所に無断で入る狼藉を犯すというなら首をはねますよ。下がりなさい」

「しかし……っ!」

「異変などないとわたしが言っているのです。信じられませぬか。もう一度言います。下がりなさい」

 少女ながら、威厳のある物言いだった。

「わたしの部屋に異変はございません。姉様のお部屋の方へお回りなさい」

「……御意にございます」

 蔀戸越しの男たちと千夜との会話を聞いて、蒼藍は手を口元にあてた。

 女の寝所、か。十にもなっていないような子供の台詞とは思えない。


 影がばたばたと来た時と同じように簀の子を去って行くのを聞いていた千夜は、ふと後方から聞こえた衣擦れの音に振り返った。一応は几帳の後ろに隠れていた蒼藍だったが、その肩が小刻みに震えている。

「……笑うな、蒼」

 先ほどの物言いとは全くの別人のように、千夜は唇を尖らせて蒼藍を見据えた。

「いや悪い。そうだ、訊きたかったんだが……お前、いくつになる?」

「男が女に年を訊くのは失礼なことだと姉様は仰ったぞ」

「それは失礼。だが俺はお前を女だとは思っていない。お前子供だろう。だから年を訊いても失礼にはあたらない」

「それこそ失礼な……。わたしはもうすぐ十二だ」

 ふん、と胸を張ってみせた千夜を見て、蒼藍は笑うのをやめた。そしてまじまじと千夜の顔を見る。勝ち気な瞳も桜色の唇も、あどけなく幼い。

「嘘はいけないな」

「嘘なもんか」

 思わずこれは夢に違いないと額に手をやる蒼藍だった。十二と言えばこの時代もう嫁いでいてもおかしくはなかった。千夜の姉の朝はいくつか知らないが、彼女は嫁ぐのが遅いのか、それとも父親が嫁がせていないのか。

 しかしどちらにしろ、蒼藍には関係のない話だ。蒼藍は、このことが弥栄に知れたら何と言われることかと苦笑しながら再び円座に腰を下ろした。


 しばらくの間とりとめもない会話を交わし、時が流れていく。

 小一時間経ったかという頃になり、蒼藍はすっと立ち上がった。

「……行くのか?」

「ああ。子供は寝る時間だ」

「だから子供ではないと言ってるだろうが」

「俺から見ればこの世の大多数は子供さ」

 ぐりぐりとまるで子供に対するように千夜の頭を撫でる蒼藍は、無礼な男だ。だが千夜はその扱いが嫌いではなかった。頭を撫でてくれるのは父親ではない。蒼藍なのだ。

 全くの子供扱いにも今度は文句を言わず、撫でられるがままになっていた。

 大きな手が離れてから、そっと上目遣いに蒼藍を見上げる。

 勝ち気な色はそこにはなく、少し不安の混じる自信のなさそうな瞳だった。


「……また逢えるか?」


 蒼藍はふっと軽く微笑み、ぽんぽんと軽く千夜の頭を叩いてからくるりと踵を返した。

 自分の言葉を無視された、とは思わなかった千夜がその広い背中を見つめる。重くはない自分でも歩けば音はたつのに、蒼藍が歩いても床は全く音をたてなかった。


「また一年後、な」


 丁度一年前も同じ事を彼は言った。

 千夜は何だか嬉しくなり、蕾が開くようにぱっと笑顔になり、そっと声を漏らした。

「約束」

「生きていたらまた来る」

 振り返ることなく蒼藍が口にし、そのまま一つも足音を立てずに蔀戸を越えて闇に紛れて行った。




「……約束」

 再び一人となった部屋で千夜は灯りを見つめて呟いた。

 三百六十と少し。初めて蒼藍に会った時から、それだけの夜が過ぎていった。

「千の年は……さすがに蒼でも難しいだろうな……」


 ――千年の時を越えて出会うことができたのなら。

 その恋は、一生消えることのない『本物』になる。


 御伽草子のその話を根本から信じているわけではないが、蒼藍のような妖しの血が混じった存在さえあるのだから、そういうことがあっても何ら不思議ではない。……と思う。

 自分の何倍もの時を生き続けている蒼藍。命の長さも、力も、立場も、何もかもが違う相手。

 それなのにまた逢いたいと願う自分がいる。

 自分は、彼を恋の対象にしているのだろうか。


「恋や愛は……よく分からないが……」


 油に浸した紐を切って灯りを消す。

 真っ暗になった部屋で、千夜は一年後までにはあと何回夜を過ごせばいいのだろうと数え始めた。

 そしてその行為は不思議と、心の中をほんのりと温かくしてくれるのだった。

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