01. 千年の恋
――千年の時を越えて出会うことができたのなら。
その恋は、一生消えることのない「本物」になる。
昔、はっきり顔も覚えていない母様が読み聞かせてくれた物語の文を、忘れることができなかった。
「姉様、姉様!!」
ばたばたと、床を蹴るようにして軽快に走る少女の足音が屋敷に響く。
肩より少し下まで伸ばされた黒い髪がその動きに合わせて大きく揺れ、胸元の合わせが乱れたその様子はあまりお淑やかとは言えない。さすがに裾をからげて走っている訳ではないところだけが唯一の救いと言えた。
姉様と呼ばれた女は駆け寄ってくる小さな風の塊におっとりと微笑んだ。
「千夜、あまり走ると危ないですよ。転んで怪我でも作ったらどうするのですか」
その優美な外見に違わず、声もゆったりとした柔らかなものであった。
姉の目の前まで駆けてきた少女・千夜はぴたりと急停止し、ぱぱっと髪と合わせを直してにこりと笑って答えた。
「大丈夫、そんなへまはしないよっ」
「……千夜。その言葉遣い、一体どこで覚えてきたのですか? おやめなさいな」
まるで市井の子供のような娘らしくない千夜の言葉遣いを、姉は微笑みながらもぴしゃりと注意した。姉の厳しい言葉に千夜は反省するように俯くが、いつまでも引きずらないのが彼女の短所であり長所。
彼女はさっと顔を上げ、姉の羽織を掴んで嬉しそうに笑った。
「姉様っ! 父様がこの館へいらっしゃるって本当ですか?」
幼い顔に嬉しさを溢れさせて笑う。
父には滅多に会えなかった。
千夜がいるこの屋敷は大きくはあるものの、本邸の屋敷はここの倍以上の広さを誇る大屋敷だと言う。この家の当主である父はそちらで生活をしていて、千夜や姉の暮らすこの屋敷には滅多に顔を出さなかった。
千夜はその父に会いたくてたまらないのだ。
そんな千夜の頭にそっと手を置くと、姉は少し哀しそうに微笑んだ。
「父様は……既にお帰りになられました」
「え……?」
「父様はご多忙です。千夜、あなたのことを厭っていらっしゃる訳ではありませんよ」
「……はい」
また、だ。
父はこの屋敷に来ても姉の顔を見るだけで、決して千夜の顔を見ようとはしなかった。それは千夜が生まれ、そして千夜の母が亡くなってからも変わらない。
たった二、三度だけ逢ったことのある父は、いつでも千夜を見る時は眉間に皺がくっきりと刻まれていた。
姉は父が忙しいから、と言うが。ここまで徹底的に避けられるといくら子供の千夜でもその意味くらいは分かるのだ。
歯を食いしばってこくりと頷くと、千夜はずっと掴んでいた羽織の裾から手を離して駆けだした。姉に注意されたばかりであることは解っていたが、足を止める気はなかった。
姉はそんな千夜に何も言わなかった。
一歩も足を止めることなくたどり着いたのは庭にある大きな木。どっしりとしたその木の枝で落ち着くのが、千夜の癖だった。
着物の裾がめくれるのも気にせずに枝に乗り上がり、生い茂る葉で周りから見えなくなるくらいまで登り続ける。幼な子の体重に、大木はびくともしなかった。
ここは静かな屋敷の中なのでほとんど音がしない。耳に入るのは風に揺れる葉の音と、遠くの鳥の鳴き声だけだ。
太い幹に身を任せて千夜はゆっくりと目を閉じた。
「……泣かない」
泣いたってどうにもならない。
泣いたところで父が戻ってくることはないのだ。
母は父の妾だった。「めかけ」という言葉の意味を知ったのは、父や母の口からでも姉の口からでもなかった。口さがない女中たちがこそこそと話しているのを聞いてしまったのだ。「千夜さまはお妾さまの子だから」というひそひそ声。
正妻の娘である姉と、妾の娘である妹。二人とも同じ父を持つが、千夜は一度たりとも父に父親らしいことをしてもらったことはなかった。
眉間に皺を寄せ、まるで千夜をただの置物のように扱った父。そんな父でも千夜にとってはたった一人の父なのだ。だからいつか認めてもらおうと思っていた。姉に負けないくらいの教養だってあるのだと面と向かって言いたかった。
それなのに。いつも、千夜だけは無視される。
必死で身につけた教養も何もかも、見せる以前に父は千夜に声すらかけなかった。
「泣くもんか」
いつかこの屋敷から出て行ってやるのだ。
姉の目を盗んでこっそりと屋敷から出ることは今までもしてきた。だが本格的に帰らないとなると姉は何としても探しだそうとするに違いない。自分だけでなく他人の身の回りの世話もできる千夜は、昔から姉の傍にいた。その関係は姉妹ではない。ほとんど姫と女中のようなものだった。
ごそごそと着物を探り、探していたものを手にとる。
千夜の小さな手のひらに乗っていたのは、木の実で作られた遊び道具だった。この間、屋敷を抜け出して遊びにいった先で、市井の子供達が千夜にくれたのだ。見たことがないと言ったら彼らは惜しむことなくその駒のようなものをくれた。
千夜の初めての友達。屋敷の中では存在を無視されるだけの自分と遊んでくれた彼ら。
逢いたい。逢いに行きたいけれど。
今この屋敷を出ていくと、彼らに迷惑がかかる。
良家の娘である千夜はともかく彼らはただの子供。見つかった時役人から厳重に注意されるのは千夜ではなく彼らだ。
「……誰か、わたしをここから連れ去ってくれれば良いのに」
きりりと歯を食いしばり、涙を堪えながら千夜は小さな声で呟いた。
「――物騒なことを言うものではない」
「わ……っ!」
自分一人だと思っていた。それなのに上方から聞こえてきた男の声。
千夜は驚きの声を上げた瞬間に崩した体勢を整えるため、枝をしっかりと掴んだ。
「な、何者ですっ」
誰かに聞かれているのかと思うとついつい言葉遣いが日頃姉に教え込まれたものになる。
千夜が屹然と顔を真上に上げると、人がいた。子供の千夜だからこそ揺らぎもしない木に、千夜よりも彼女の姉よりも年上だと見える男が立っている。
千夜は枝が折れてしまうのではないかと思った。だが枝はみしりと軋む様子もない。
「……相手の名を求めるのであればまず自分から名乗るのが筋であろう」
着物を着流しただけの男は、ふわりと飛び降りると音もなく千夜のいる枝に着地した。
千夜が目を見開く。そう太い枝ではない。子供二人でも乗れば折れてしまうような枝だ。それでも枝はやはり軋む様子を見せなかった。
「……お前……人なのか……?」
「さて、何だと思う? 妖しの者とでも言っておこうか?」
にっと口の端を上げた好戦的な笑み。
千夜は彼に胡散臭げな視線を投げつけると、子供には不似合いな抑えた声で言った。
「人を呼ぶぞ」
もう既に姉に教え込まれた口調ではない。相手が怪しい者ならば、口調を改める必要などないからだ。
「呼べるものならば呼んでみるが良い。お前の望み通り、攫ってやるさ」
「……攫ってくれればいいのに……」
ぽつりと呟いた千夜はそのまま俯いた。
馬鹿なことを言ってしまった。この家の娘である千夜を攫うということは、即ち死を意味する。命がけで連れ出してくれるような人は千夜は思い当たらなかった。
「……お前、朝姫か?」
「それは姉だ。わたしは千夜という」
「何だ。まあやっぱりそうだろうと思ったが。絶世の美女だと名高い朝姫がこのように色気のない子供だと笑い話にもならないからな」
先ほどから失礼な男だ。
どうせ興味本位に姉の顔を見に来ただけなのだろう。
「姉様は妖しの者などにはお逢いにならない。……わたしが名乗ったのだから、そちらも名乗るのが筋だろう」
「ふうん。姉は気弱、妹は気丈ってところか。俺が妖しの者だと認めておきながら名を訊くのか?」
妖しの者の名は、彼らにとって命と同等に貴重なもの。そしてまた彼らの命を脅かすものでもあった。
親から与えられたその名前を彼らは決して仲間と認めた者以外には口外しない。
名前は力を持つと言われるからだ。特に妖しの者の間ではそれが顕著である。相手の名前を知るということは、相手を支配する力を得るということ。それ故に妖しの者の名を聞いた者は、運が悪ければ口封じをされる。そのことを千夜は知ってはいたが敢えて訊いた。
顔を上げる千夜の瞳には賢さと凛々しさだけがある。そこに不安や怯えの色はない。
彼はまたふっと笑うと、千夜の頭に手をおいた。
「蒼藍だ」
「そーらん? ……随分と楽しそうな名前だな」
自分に言い聞かせるように言ったその言葉は、蒼藍の予想に反していたのか、彼は笑みを深くした。
「そーらん……そうらん。……呼びにくいな」
『朝』だとか『千夜』だとかいう簡単な名前の人しかいなかった千夜は眉をひそめる。
蒼藍は千夜の頭に置いたままだった手をかすかに左右に動かして撫でてやってから、笑みを深くしたままで言った。
「蒼で良い」
撫でられる感触に心地よさそうに目を細めて、千夜は笑った。
今まで撫でてくれたのは姉だけで。彼女の手は小さく、頼りないが、蒼藍の手は違う。父の手を千夜は知らないが、もし万が一父が頭を撫でてくれるのなら、このような大きな力強い手なのだろう。
「それなら覚えられる。……蒼、名前まで聞いてしまったんだから、ついでに正体を訊いても良いだろう?」
「どういう理屈だ、それは」
蒼藍は皮肉げに少し呆れたが、先ほどと同じように今度はふわりと枝から地面へと飛び降りると、木の上で呆然としている千夜に声をかけた。
「父は妖しの者。母は人。……だから俺は、人にはできないことができる」
例えばこんなことも、と呟くと蒼藍は地面を軽く蹴って、千夜のいる枝まで跳躍してみせた。普通の脚力ではまず不可能なことをあっさりとやってのけた蒼藍に目をぱちくりとさせてから、千夜は興味津々の顔で蒼藍に詰め寄った。
「それはすごいな、簡単にできるのか?」
「身軽だからな」
ひょいと蒼藍が肩をすくめてみせる。
身軽だと言うが、薄い布で作られているらしい衣の上からでも、彼がたくましいということが分かる。姉や自分とは全く違う、男の体だった。
肩幅は広く、胸は厚く、腕はひょろりとした千夜の腕とは比べものにならないくらいに太くて浅黒く、顎から首へかけての線は直線的で柔らかなところがどこにも見あたらない。どう考えても千夜の倍は体重がありそうな男だった。いや、千夜は幼い少女である上に細いため、三倍にしても彼の方が重いであろう。屋敷に仕えている下男達よりも遥かにがっしりとした体格の男だった。
だがそれでも粗野には見えない。
直線ばかりで作られたような体だが、精悍な顔立ちは醜くはない。むしろ端正であると言えた。
年の頃は二十を幾分か過ぎたあたりだろうか。そう見当を付けた千夜だったが、何しろ彼女の周りには比べる対象というものがない。屋敷で働く下男達とはあまり顔を合わせないし、彼らの年齢を知っている訳ではないので、蒼藍がいくつなのか千夜には分からなかった。
「蒼、今いくつなんだ?」
するりと、言葉が零れた。
飾り気のない言葉は、市井の少女らしい。
「百は超えてるな」
蒼藍はまた肩をすくめてあっさりと答えた。妙にその仕草が似合う蒼藍である。ふざけているようにも見えるのだが、その表情にからかいの色はない。こちらもまた、飾らない物言いだった。
「……なんだ。じいさまか」
「なんだとは何だ」
まず容姿に疑問を持て、と蒼藍に言われて千夜はまじまじと彼を見る。
どう見ても百を超えているようにはみえなかった。先ほどは二十を超えたあたりだろうかと思ったのだが、どれだけ高く見積もっても二十後半だ。さすがに千夜でも、百を超えた老人がこのような若い外見をしているとは思えなかった。そもそも百を超える者など聞いたことがない。
「……不老不死。……まさか……時が、止まっているのか……?」
ふと思い出した物語の一文が頭によぎる。
母は色々と物語を読み聞かせてくれた。その中には妖しの者を描いた話もあった。彼らの中には、不老不死の者がいると。原始の妖しに近い者ほど時を支配し、願えば時など簡単に止めてしまえると。
信じられないけれど、という表情の千夜を見て、蒼藍は彼女をからかうことなく答えた。
「それは違うな。俺は時が人より遅いだけだ。人間の五分の一ってところだが。俺だっていつか死ぬさ。死なない者はいない。この世に生を受けたものはいずれ土に還るものだ」
「ふうん……。蒼」
「何だ」
「長く生きることは、楽しいか?」
不躾なことを訊いたなとぼんやりと思った。蒼藍もそう感じたのか、無感動な瞳をじっと千夜に向けただけで答えはくれなかった。
「ごめん。聞かなかったことにしてくれないか」
俯いてぽつりと呟けば、低い声が「ああ」と返してきた。
千夜は俯いたまま、今度は言葉を選んで慎重に問いを重ねた。
「蒼……ここに何をしに来た?」
「朝姫を、攫いに」
がん、と千夜が隣にあった幹に頭をぶつける。あまりに驚いてまた体勢を崩してしまった。
先ほどの気まずさも忘れて痛い痛いと頭をさする千夜に、蒼藍は笑った。
「首に金がかかってる男だぞ」
さらりと言ってのけ、仰天する千夜を見てくつりと喉で笑う。
千夜はぽかんとした表情をし、間抜けな声を漏らした。
「……ここに居てもいいのか……?」
「いや、見つかれば確実に捕まるだろうなあ。……ほら、おいでなさった」
あざけるような物言いをした蒼藍の視線を千夜が辿る。
下方、緻密に造られた静かな庭に今は緊張が走り、たくさんの者が詰めかけていた。この屋敷に務めている者達だ。姉や千夜――主に主人と正妻の娘である姉を守るために父が遣わした者である。
「千夜様!!」
「侵入者、貴様何者だ!? 姫様を大人しく離せ!」
「姫様を守るのだ!」
……守るも何も。既に蒼藍のすぐ傍にいるのだが。
しかも何も腕を掴まれている訳でも、縛られている訳でも、脅されている訳でもない。千夜が進んで蒼藍の傍にいる訳ではないが、今更逃げようとも思っていなかった。丁度良い話し相手だと思っていたのである。
愚かな男達への失笑を堪えると、千夜は蒼藍に向き直った。蒼藍はふらつくことなく木の上に器用に立ったまま、腕を組んで超然としている。集まってきた下男達のことなど少しも気に掛けていないらしい。
「……姉様の代わりにわたしを攫う気なのか?」
それも良いと思ったのは口にはしない。
「冗談。色気のない子供など攫う気にはなれぬな」
「……」
少し、むっとする。
千夜は何か言い返そうとしたが、その声に下からの声が重なった。
「貴様、降りて来い! 姫様から離れろと言ってるんだ!」
周りがうるさい。険しい形相の下男達が口やかましくわめきたてる。それでも弓を使わないのは蒼藍のすぐ傍に千夜がいるからである。間違って千夜に当てようものならどのような咎めが待っているか分からない。当の千夜は、父が自分の身に傷が付いたところで取り乱すとは思っていないが。
妖しの血を持つ蒼藍からすれば下にいる男達など相手にもならないのだが、厄介事はご免である。
さっさと退去しようと思った蒼藍は、自分の衣の裾を握る小さな手に気付いた。
「俺を捕まえる気か?」
「……いや、そんな気は、ない……。あの……蒼、また逢えるか?」
え、と蒼藍は目を見開く。このような立派な屋敷の娘は、決して見知らぬ男に声をかけたり、また、逢おうとしたりはしないものだ。絶対的な権力者である父親の言う通りに育ち、そして顔も知らぬ高貴な相手の元へ嫁いでいく。
蒼藍は興味本位で噂の朝姫とやらを見に来ただけで、その妹の千夜になど興味はない。だいたい面倒なことは嫌いな性格なので、彼女のような者に関わって警吏に追われるのはご免だ。
だが小さな手をなるべく優しく衣から外すと、蒼藍は再び千夜の頭を撫でてやった。
「忙しいんだ」
「なら、いつなら逢えるんだ?」
木の根本ではようやっと枝に足をかけることができた男達が騒いでいる。もう時間はなかった。
重さを感じさせない動きで枝から屋敷と外を隔てる塀へと飛び移ると、蒼藍は千夜を見据えて言った。
「一年後。俺が死んでいなかったらな」
「……約束」
ああ、という蒼藍の返事は、男達の騒ぐ声で聞き取れなかったが、千夜は口元に笑みを浮かべた。
また逢える。もしかしたら人生が面白くなるかもしれない。
こんな、屋敷の中で閉じこめられるだけの面白くもない人生が。
「千夜様! ご無事ですか!?」
みしりと軋む枝をものともせず一人の下男が登ってくる。少女の千夜と、妖しの者の蒼藍だけだったからこそ枝も耐えていてくれたのだ。蒼藍よりも小柄ではあったが、蒼藍とは違って枝がしなりつつある。放っておくと枝が折れてしまいそうだったので、千夜はその場から離れることにした。
「何もありません」
言外に登ってくるなと言っておいてから、千夜は枝を伝って降り始めた。
どうせ下にいる男達は、「千夜」を守ったのではなく「朝姫の妹姫」を守っただけなのだ。千夜がいなくなれば朝の身の回りを完璧に世話できる人間がいなくなるからであろう。自分の存在価値が朝の妹であることだけかと思うと少々嫌気がさす。そうしてずっと生きていたけれど、それでも本当はこのように閉じこめられた世界で生きていたくなどなかった。
それでも……もし、一年後。蒼藍に逢うことができれば、自分の価値が変わるような気がした。
千年を越すことはさすがにできないだろうけど。
一年くらいなら、越えることも待つこともできるかもしれない。