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雪鉄

作者: 鳥丸唯史

〈雪鉄〉


 近年まれに見る豪雪だった。たまたま早めに目覚めたのをいいことに、私は出勤のために車庫から雪かきをしなければならなかった。スノータイヤの交換も忘れてはいけない。

 ご近所さんと協力して車道を作った。子どもは冬休みの真っ最中。よその子も頬を(すもも)のように火照らせながらも活発的に雪を掘り進めてくれた。我が息子二人はそろって熟睡している。あの子たちよりもその子にお年玉をあげたいくらいだ。

「みんな車に気をつけろ。交通ルールを守っていても、いつスリップして突っ込んでくるかわからないから」

「はーい!」

 息子二人にも言わねばなるまい。特に次男はせっかちだから、いつもの調子で走って転倒なんてことにならないようにしてもらわなければ。

 湯で濡らしたタオルハンカチで手早く汗ばんだ背中や脇を拭く。今年の父の日に長男からもらったアーノルドパーマーのタオルハンカチセットの一枚だ。傘のマークが紺色の無地に映えて実におしゃれだ。もう一枚は仕事に持っていく。

 妻に一言声をかけると、彼女は一言礼を言いながらヨーグルトをぶっかけたシリアルを食べ続ける。私は湯を沸かし、カフェオレを二杯分作る。

 クリスマスシーズンも怒濤(どとう)に過ぎ去り、来年へのカウントダウンと正月ムードにシフトチェンジしている。百貨店のセールスマネージャーの身としてストレスの鏡餅だ。新人たちが波に持ちこたえてくれるか心配になる。メンタル面でのフォローは欠かしてはならない。

 例えば入社二年目のあの子はメンタルと胃腸の関係性が直結しているらしく、数種類の薬を常備している。しかし二度三度、ピルケースをなくしたからと一階の薬局に向かう場面を見たことがある。彼女は大抵何かあると非常階段でおなかを抱えしんどそうにしているので心配だ。

 百貨店は駅に隣接していて、内部で行き来できるようになっている。バスを降りると、駅側は既にサラリーマンやOLでごった返していていた。ダイヤが乱れているのも原因だろう。また雪が降り始めている。

 様子がおかしい。ホームの方がざわついている。出社時刻を気にしながらも聞き耳を立ててみると、鉄道ファンの中のいわゆる「撮り鉄」と呼ばれる奴が線路に落ちたらしい。

 幸い、電車はまだ来ていないようだ。こいつが押した、と人だかりの向こうから怒鳴り声がする。駅員だかお巡りさんだか、悶着が起きているようだった。人と人の隙間から「撮り鉄」らしき男が一人見えた。

 休憩時間になってから、消費期限が一日過ぎていたオムそばパンを片手に、携帯電話で検索してみると今朝のことが呟かれていた。どうやら「撮り鉄」の二人組は他者の乗り降りの邪魔にならないようホームの端に立っていたが、「撮り鉄」はマナーが悪いというイメージを強く抱いていた男にからまれて、一人が突き落とされたらしい。傷害容疑になるのか殺人未遂になるのか、男は捕まった。元々、電車を待たされてイライラしていたのもあったかもしれないが、機材の弁償は懐を寒くするだろう。

 ふと、見慣れない単語が目に飛び込む。

 雪鉄。

 ユキテツ? ああ、雪景色の中の鉄道か。そういう情緒的な画像が数多(あまた)引っかかった。映画「鉄道員(ぽっぽや)」を思い出させる。その中にひょっこりと、雪国電鉄に関する記事があった。

 それは鉄道ファンのごく一部で語り継がれる伝説の鉄道だった。北海道から北陸にかけて目撃されている、どう考えても運行図表を無視しているミステリートレインだった。車種も不明で、少なくとも公式発表されているものではない。第一、吹雪という悪天候の日にしか現れない。

 おいおい、単純にダイヤが乱れていたからじゃないのか。視界が悪くて車種を見間違えているだけじゃないのか。私は鼻で笑った。

 そういえばそろそろ北海道フェアだ。せっかく駅と隣接しているのだ。間に合うなら、北海道の鉄道関連ブースの設置も検討してみたい。

 SNSを閉じると、ホーム画面には今年のクリスマスケーキに釘づけの次男と、こっちに笑顔を向けている長男がいる。



 久々に十時ごろまでぐっすり眠れた。その代わり朝食は自分で用意する。ひじきを混ぜた納豆トーストだ。妻は仕事で留守だから、見た目も臭いも嫌がられることはない。

 小学校四年と二年の息子がギャーギャー騒いでいる。庭で雪山を作り、そりで滑っていた。四人分の食器を洗い終わった頃には雪合戦をしていた。一つの雪玉が窓に当たった。どん、と鈍い音がした。硬式雪合戦らしい。俺は網戸のある方を開けた。

「おい、窓が割れたらどうする。他の遊びにしろ」

「他って何?」

「あるだろ、かまくらとか」

 次男は「あー」と薄い反応だったが、長男は乗り気になった。これで多少は静かになるだろう。私は録画しておいた深夜の海外ドラマを観賞する。しかし、ほどなくして呼ばれた。そり遊びをしていた山に穴を掘っていったものの失敗したらしい。

 こういう時ぐらい父親として力になってやった方がいいのだろう。冬休みの思い出作りに貢献するため、足の筋力を振り絞りながらスポーツウェアの上にジャンパーを着込んだ。

 まずはひたすら雪をかき集め、大人ぐらいの高さまで山を作る作業だ。先に円を作る。スコップの裏で壁の凹凸を整え、雪をすくい上げ、また整える。円の中に雪をじゃんじゃん入れる。壁の部分は踏みしめて硬くするが、時々水も使う。真ん中はあとで掘るからあまり力を入れない。

 大人ぐらいの高さになったら少しずつドーム状に盛っていくのだが、途中で息子らは飽きた。次男が先に「つまらない、疲れた」とさっさと家に戻ってしまい、私が与えたテレビゲームをする始末だ。長男も弟に何度も呼ばれて中に入った。おそらくもう冬休み中の雪遊びはしないだろう。

 私はやけになり、意地でもかまくらを完成させて驚かせてやることにした。

 帰ってきた妻は興味がなさそうだった。せっかくの休みの半日をそれに費やしたなんてと内心馬鹿にしている。彼女にとってあれはちらちらと視界に入る異物に過ぎなくて、できれば早く溶けてなくなれと思っている。

 あいにく、正月明けの休日まで雪のドームは健在だった。予定通り、硬い仕上がりだ。朝から作業に入りたかったが、その前に洗濯ものだ。パタパタママを意識してポイポイスイッチオンする。妻の黒いランジェリーが回っている。

 かまくらの入り口は小さめに、壁の厚さを気にしながら掘り進めた。

 夢中だった。正月の次は成人の日。次は節分。次はバレンタインデー。そろそろチョコ売り場がざわつく頃だろう。今年は誰の名前をひたすら書かなければならないのか。国民的アイドル? それともアニメキャラクター? バレンタインの次は……。

 私の脳内カレンダーには年間行事と結びつけた仕事のスケジュールが書かれている。行事をおろそかにしては売り上げが伸びない。

 結局、二年目のあの子は駄目になった。お局様に気に入られなかったのが運のつきだったのだ。しかし、私の対応も中途半端だったのだろう。何がセクシャルハラスメントに該当してしまうのか、何がお局様の気分を害してしまうのか、探り探りだったのがかえってあの子の私に対する信頼は薄っぺらなものになり、味方にはなりえないと判断したのだろう。所詮、私もお局様と同じベクトルにあるのだ。

 上半身が発汗する。無心に掘り進めた。立てるほどになった。二メートル弱はある。スコップで壁や天井をなめらかにする。最後に簡易な神棚を壁に掘った。お供え物も置けるスペースも作った。これが重要だ。

 私は大きく息をついた。蒸気機関車のようにぼうっと白い気体がのぼって、青白いかまくら内で拡散した。

 満足感に浸りながら湯船につかった。特に太ももが赤くぱんぱんだ。激しい血流のしびれが心地よい。風呂上がりの缶ビールも最高だ。妻がいれば昼間から何をなどと、ねちっこく小言を使うだろう。

「見ろ。なかなかいいできだぞ」

 息子二人に声をかけたが、奴らはゲーム画面に釘づけだ。コントローラのボタンをがちゃがちゃ鳴らしている。あとで見ると言いながら、今度はアニメやバラエティ番組を優先して忘れるに違いない。

 いくら相手が小憎らしいドロドロゾンビでも死ね死ね叫ばれるのは不快だ。目がしんどくなる前に、ホラーゲームはほどほどにしとくよう忠告してから、もう一缶ビールを手にする。

 ところが珍しく飲む気が失せた。しかし冷蔵庫に戻す気も起きなかった。そこで私は思いつきでかまくらの祭壇に供えた。日本酒の方が(さま)になっただろうが細かいことは気にしない。せっかくだからみかんも二つほど重ねて置いた。かまくらにみかん。何だか可愛らしいじゃないか。

 妻が帰宅するまで部屋にこもり、パソコンでDVDを見ていた。いくら休みだからって長時間ゲームをやらせるな、頭が悪くなる、と妻は怒る。私はかまくらのことを口にするのをやめた。



 真夜中、尿意で目が覚め身を震わせた。妻は背を向けている。子どもが二人できてからセックスレスになりこの状態だ。

 トイレから戻ろうとして、足を止めた。かまくらから明かりが漏れていた。

 すぐ夢に落ちるように維持させていた眠気を飛ばす。ジャンパーを着て、上司から昇進祝いでプレゼントされたゴルフクラブを玄関の物置から出した。すっかり埃かぶっている。まずは姿だけこっそり確認しよう。警察を呼ぶかどうかは相手を見定めてからでも遅くはない。

 雪を踏む音を極力鳴らさないように、ゆっくり近づいた。明りの正体はランタンのようだ。

 中腰になって見ると、いたのは老人だった。

「どなたですか?」

「おお、よく来たな。入って入って」

 老人は堂々とくつろいでいて、私を見ても動じなかった。ぼさぼさの白髭に黄ばんだ前歯。格好はドラマ「北の国から」の五郎を彷彿させた。急に「るーるーるー」とキツネを呼ぼうとしだしても不思議ではない。

 ホームレスだ。警察を呼ぶまでもないだろうが、放っておくのもよくない。ここは従っておいて、自然に出ていくように仕向けることにした。乱暴ごとは避けたい。

 ありがたいことに座布団が敷かれている。まるで客人を待っていたかのようだ。

「ほら、食べて食べて」

 ホームレスは皆、火鉢を所持しているのだろうか。老人は餅を焼いていた。みかんも焼いて食べたのか焦げた皮だけになっていて、缶ビールも凹んでいた。

「神様がわざわざこんな面白味もない家に何の用ですか」

 私の皮肉に、老人は大受けした。

「おいらはそんな大それたもんにならねえよ。それにしても、随分と丁寧に作ったなあ」

「おれが一人でやったんです」

「おう、おう」

 霜柱のように盛り上がった餅を小皿に移し、私に押しつける。醤油と砂糖の香ばしく甘い湯気が、寒さでつんとする鼻をくすぐった。

「けど誰も褒めてくれないんです」

「おいらが褒めてやるよ。おいらはかまくらを鑑定するのが得意なんだ。こいつは百点満点のかまくらだ。重労働だったろうなあ」

「うーん、そんなに疲れてはないです。あまり深く考え込まずにやれましたし」

 よく伸びる餅だ。どちらかというと焼かずにレンジでチン派だったが、これはなかなかうまい。噛めば噛むほど甘くとろける。焦げた部分がほどよい苦みだ。

 老人はにこにことこっちを見ている。長居は良くない。明日は(いやもう今日か)仕事があるし、妻までトイレで目が覚めないとも限らない。

「まさかここで寝泊まりする気ですか? 凍死しちゃいますよ」

「大丈夫だ。すぐに出ていくよ」

「それならいいんですけど」

「もうちょっとしゃべろうよ。ずっと一人で寂しかったんだ」

「別にいいですけど……」

 拒否し切れない辺りがお人好しだ。まったく嫌になる。

「お前さんは今、どんな仕事をしているんだ?」

「百貨店のマネージャーです」

 ほう、と老人は感嘆の口を開けてしわを伸ばす。

「順調か?」

「まあ……」

「上司や部下とうまくやってるか?」

「まあ……」

 特にお局さまに可愛がられている。フロアマネージャーに昇格できたのも彼女の口添えのおかげでもある。だから下手な立ち回りはできない。部下に対し平等な態度を取るにも彼女の目が光る。相手が若い女なら尚更だ。私のせいで辞職に追いやられるのは勘弁だ。

 それからゴルフのレッスンも。キャディー経験があるからと言って、手の甲を後ろからなで回されるのは一回ぽっきりでいい。後にその不快感が皮膚に現れて、ごまかすのに苦労した。皮膚病はストレスに左右されるのを実証した日だ。

「家族とはどうだ?」

「どうって……」

「お嫁さんは可愛いか?」

「さあ……」

 容姿はいい。昔に比べて丸くはなったが、可愛いというより美人だ。昭和の映画に出ていそうな、白い柔肌を持っている。黒髪のセミロングで、何着ものワンピースを着こなす。もちろん下着も。

「子どもは可愛いだろう?」

「うーん……」

 妻に似て、将来は美形になるだろう。それで可愛い子ぶった女の子がたかる。女たらしにならない誠実で賢明な男にするにはどう育てればいいのだろう。特に次男のことだ。同級生に茶髪の奴がいるらしく、それが格好いいと言うのだ。

 老人は子どものような目をしている。無邪気で無知。深く考えずに切り込んでくる。それが年食った相手だとたちが悪い。

「可愛いと思いますよ、嫁さんの血が入ってますもん」

 私は沸々と笑いが込み上げてきた。

「へえ、そうなんだ」

「そうなんです」

 途端に、老人は泣きそうな目をした。

「みんなにいじめられてない? お父さんやお母さんに悪口言われてない?」

「それは大丈夫ですよ」

「よかったあ」

 老人の涙が引っ込んで、また笑顔だ。悪い人ではないのは確かだが、訳のわからない人だ。

「これ、いります?」

 私はゴルフクラブを差し出す。プロゴルファーになりたいと息子が言い出さない限り、一生ゴルフ場なんて行くつもりはないので必要ない。

「いいの?」

「たぶん、そこそこいい値段で売れる気がします」

「売らない、売らない。やったあ。宝物が二つになった」

 老人は目を輝かせながらゴルフクラブを胸に引き寄せた。

「すいません。おれ明日も仕事なんで寝たいんです。そろそろ引き上げてくれませんか?」

 空き缶とミカンの皮を手に、極力穏やかに言った。私の体が睡眠を欲している。

「うん。わかった。おやすみ」

 老人はすんなりうなずいて、満面の笑みで手を振った。これが嘘なら警察を呼ぶ。不法侵入に加えて、窃盗だ。

 私は外気に身震いする。そして考える。私の足跡がサンルーフから続いている。老人の足跡がない。あっとなって、振り向く。もぬけの殻だった。匂いも熱も失われている。私の体温も。

 幻覚だったのだろうか。ビールやミカンは無意識に自分で腹に収めたのか。餅ではなく。いや、ゴルフクラブがなくなっている。まさか、本当に神様だったのだろうか。わからない。

 ベッドもすっかり冷えていた。隣の体温を感じられるほどの距離もない。先ほどの出来事を面白おかしく、怪談めかせて話してやれるほどの気力は朝になってもないだろう。



 朝になって確認した。おそらく幻覚ではない。完全な殻になった訳ではなかった。ぽつりと紙切れが落ちていた。(しな)びた厚紙だ。「100えんきっふ。」と幼い字で書かれている。手に取ってみると、何かを思いだしそうだった。何かが懐かしい。しかし、どんなに頭をひねっても脳内は吹雪いて答えが見えなかった。

 なぞの老人のことも気になるが、それよりも長男がインフルエンザにかかってしまった。職場に一言連絡を入れ、徒歩十分のところにある小児科医院に連れていった。うつされては困るので私もマスクをした。久しぶりに長男をおぶったが、ますます重くなっていた。

 予想通り満席で、私は壁際にもたれた。長男は私の腹部にもたれてきたので、ジェットコースターの安全ベルトのように腕を回す。

 保護者は全員女性だった。母親か祖母。男の私は異質だった。向かい側の老婆が私を奇異な目で見ていた。「お母さんはどうしたんだろうねえ」と嫌らしい口調でリンゴのほっぺたの孫娘に問いかける。私は聞こえていないふりをした。それから老婆は「どんな育て方をしてんだろうね」と嫌な顔をする。見下ろすと、長男はしんどそうな顔をしていた。にらまれたと思ったのだ。

 昼食用の雑炊を作り置きしてから仕事へ行こうとしたが、長男は弱弱しい声で一人にしないでと言った。私は仕事を休み、栄養補給でチョコのアイスクリームを買い与えた。マスクも交換し、古いのはビニール袋に密封して捨てた。

 夕食は鍋焼きうどんにした。長男は猫舌だから頃合いまで冷ました。

 妻は同窓会で遅くまで帰ってこない。一度帰宅してそれらしく着替え、いつもと違う口紅を塗って出ていった。洗濯機を見るとベージュの下着があった。いちいち確認してみるあたり、私は変態の類なのだろう。

 来るだろうメールの文面を予想してみる。友だちの家にお泊りすることになりました。あとはよろしく。



 次男は免疫力が高いのかインフルエンザが移る気配がない。今日も元気よく学校に向かった。

 私もそれに倣って潔く出勤してみる。体に悪そうな寒さが顔を襲う。これを我慢すれば春は来る。ランドセルの売り上げは上々だ。ピンクにパープルに……。

 バスに乗り込んでも、やはり体に悪そうなぬくみが充満していた。おじさんだかおばさんだか聞き分けつかない、とんでもないくしゃみが後方で起こる。あまりもの声量のでかさに、前席のイヤホンをつけた女学生が振り向くほどだ。

 渋滞している。これを見越して冬場は一本早いバスに乗るのだ。しかし、今日は予想以上ののろさだ。どこかでスリップ事故でもあったのかもしれない。調べてみようと携帯電話を開く。今どこら辺で止まっているのかと、曇った窓を拭きながら。

 奇跡というのはポジティブなものとは限らないものだ。ちょうどそこに妻の車があった。助手席に彼女がいるのがはっきりと見えた。穴が開きそうなほど見つめてみたが、気づかれることはなかった。ちょうど運転手側の方へと体が傾くところだったからだ。

 私のところでも扱っているメンズのコートの袖が見える。マネキンが着ていたやつだ。あの手袋もそうだ。お得意様なのかもしれない。それらしき人を探してみるのも、ウォーリーを探すみたいで面白いのかもしれない。ちょうど赤いボーダーのセーターが売られている。お局様が新人に似合うと言ったやつだ。

 ……またお局様が、今度は研修生を駄目にしようとしているのだ。二年目のあの子がいなくなって標的を変えたのだ。今回は周囲にもそれを促しているようだった。理由は外見というありがちなものだ。自分のことは棚上げにして、百貨店の顔にふさわしくないと言っている。

 いい加減うざったいので、研修生にボイスレコーダーを渡してある。もう音声を取りためているだろうから、いい具合に編集して人事部か取締役あたりにでも送ろうと思う。ぐずぐずするようであれば他の手を考える。お局だろうが何だろうが、仕事の効率や売り上げの邪魔を延々繰り返す奴はいらないのだ。

 休憩時間に非常階段に行くといた。ここは心の避難場所でもあるらしい。思い返してみれば、この子は二年目のあの子によく懐いていたから、この秘密の場所を教わっていたのかもしれない。

 あんなに暗く落ち込んでいた研修生の目に一点の火が宿っていた。

「私、辞めたくありません。絶対に誰よりも売り上げに貢献してみせます」

 鼻息荒く怒り肩でロールパンのような拳を突きつけてきた。

「ふんぬ。大量にあのおばさんの声、詰まってます。お聞きください。ふんぬ」

 かたき討ちでもあるのだろう。手を差し伸べていれば二年目のあの子もこんな風になっていたのか、考えてもどうにもならない。少なくとも目の前の彼女は闘牛のように野心に燃え始めている。未来のフロアマネージャーの誕生の瞬間だったのかもしれない。バリバリ働く姿がはっきりと浮かんだ。

 そこからは形式的に三日が過ぎていった。お局様は飛ばされることになり、最後まで何かを喚き散らし、研修生は突き飛ばされ、研修生は派手に転んで頭をぶつけ血を流し。

「すぐ復帰しますから、ご指導のほどよろしくお願いします!」

 わざと攻撃を受けたのだろう。仁王が笑うかのように私に言葉涼しく、その足で病院へ向かった。数針縫ったらしい。彼女はお局様を傷害で訴え、退職に追い込んだ。圧巻だったと言わざるを得ない。

 目の上のたんこぶが消えて、のびのびと仕事ができる。そんな風なことを男性陣は口々に言った。そろって研修生の怪我に触れなかった。誰もがお局様の振る舞いを見て見ぬふりをしてきた奴らだ。営業用の笑顔を多用してやり過ごしてきた奴らだ。

 しかしながら、お局様がいなくなったことは大きな変化だった。私の中の大きな心配事が一つなくなったのだ。

 つまり、残りの心配事に目を向ける余裕ができたということだ。つまり、真正面から向き合わなければならなくなったということだ。私も十分な事なかれ主義だったらしいというのがよくわかった。

 この主義はなかなか厄介な概念だと思う。自身が傷つかないためなら何を犠牲にしても罪悪感も自責の念もやわらげてしまうのだ。逃避主義と密接に結びついているといえる。

 妻の肩へと伸びる、マネキンが着ていたメンズコートの袖。あれが誰なのか考えるまでもない。あれは、マネキンなのだ。それ以外にない。血が通っていない、今時のラブドールみたいなものなのだから、どうってことないだろう? それとも、ドールごときに負けた現実が悔しいのか、認めたくないのか。

 その時、私は崩れ落ちた。

「この裏切り者! 許せない!」

 般若が立っていた。いなくなったはずのお局様が怒りの矛先を私に向けたのだ。壮絶な不快感が背中に押し寄せる。じんましんがシャツの下で生々しく浮き立っていくのがわかった。

「お前のせいだ、お前のせいだ」と鳴く女を比較的に仲の良かった後輩の男が羽交い絞めする。

「大丈夫ですか! しっかりしてください!」

 もう一人の後輩の女が私を起こす。

「ここはどこだ?」

「非常階段ですよ! 突き落とされたんですよ! もう間に合わなくて! 骨折していませんか!? 病院で頭も診てもらってくださいね!」

「まだ昼飯を食べてない」

「早退でいいですよ! あとは自分たちがやっておきますから! 診断書も忘れずに!」

 そう言って私を強引に立たせると、ストッキングの伝線も気にせずに、キーキー鳴いて男の腕に抵抗している女に向かってギャーギャー鳴き始めた。確かこの後輩二人は付き合っていたと思うが、共に名前が思い出せなかった。確かに病院に行った方がよさそうだった。サスペンスドラマだったら死んでいたかもしれない。



 私は非常階段を下ったかもしれないし、上ったかもしれなかった。ナントカ病院へは何番のバスに乗ればいいのか忘れた。タクシーを拾えばよかったのだろうが、どう拾えばいいのか忘れた。コートは……、大丈夫。ちゃんと着ている。財布も定期券も持っている。

 ひとまず何番かのバスには乗れた。運よくナントカ病院前に停車するかもしれない。しかしその願いは通じることなく終点に行きついた。定期券は通じず五百円硬貨を手放すはめになった。運転手に病院への道のりを尋ねればよかったのだが、思いついた頃には一人ぼっちになっていた。

 何もないところだった。どこもかしこも、遠くまで白くぼやけていて目立った建物は見つけられなかった。今になって思い出した頼みの携帯電話も、電波の悪さに使い物にならない。クリスマスケーキに夢中な次男がうらやましくなった。ろうそくの火がとても目に温かかった。

 次のバスの到着時間を確認して、途方に暮れた。歩くしかなかった。

 いつまで経っても車が現れる気配はない。ぐむん、ぐむん、と恨めしい気持ちを込めて雪道を踏みつけていく。同時に前後の感覚が失われていく。雪は私の進んだ痕跡を消して嘲笑っているかのようだ。

 春は一体どこに隠されたのか。適当に掘り起こせば見つかるかもしれないが、無限に広がる白地獄はそんな気力をも奪ってしまう。

 またしばらく経って、黄色と黒の物体が視界の先で発見する。久々の人工物との巡り合いは私をほっとさせた。物体の正体は踏切の警報機だった。

 わっと突風が線路上を通過していく。大粒の雪が目に入った。

 突然の耳鳴りが風の音を消した。収まると、遠くで警笛が鳴った。当然のようにして警報機も鳴る。しかし、それは聞きなれたものではなく、コーン、コーン、と火災を知らせる半鐘らしき音だった。

 どんどん近づいてきた。それは吹雪をまとって走行してきたのだろう。とうとう真っ白なところから黒光りした車体がずずんっと出てきて止まった。

 特筆すべきなのは宮廷を連想させる黄金の屋根だろうか。今にも動き出しそうな龍の像が上で波打っている。

 遮断機が上がる。扉が開かれると同時に折り畳み式のステップが下りる。見上げると車掌が立っていた。二メートルあるかもしれない体躯で、ぬっと背中を曲げていた。顔はよく見えず、紫色に腫れぼったい唇が芋虫のように動くのだけが確認できた。洞穴から這い出てくるような陰気な声だった。

「切符を拝見します」

 途端に手の中に異物感が走った。しわ寄せた「100えんきっふ。」だった。いつから持っていたのか思い出せないまま差し出すと、車掌は迷いなくそれをつまみ上げる。切られた「100えんきっふ。」は金粉となって雪風の中へ消えてしまった。私はなんとも感じなかった。

 寒さから解放されたい一心で、吸い込まれるようにしてこの電車に乗った。四号車「沙羅の間」だった。乗客は私一人だけだった。さっきの車掌の姿が見当たらない。

 黒塗りの天井には螺鈿細工が施されていた。何羽もの鶴が飛んでいる。座席にはなんと畳が敷かれ、上等そうな座布団が等間隔で置かれている。縁には蓮の紋があった。

 適当なボックスシートに座るのを合図に、笛が鳴った。車体はゆっくり動き出し、また吹雪をまとい進み始めた。

 異様に静かだ。特有の振動すら感じられなくなった。そして色あせている。曇っているらしき窓をなでると、指先から熱が吸い取られていくようだった。古ぼけた活動写真の世界に入り込んでいくように、肌の色が抜けていく、

 やがて雪の隙間から景色が見え隠れし始めた。

 すっかり記憶の彼方へ追いやっていた秋田の風景。あれは小さい頃の私だ。

 祖母の葬式で秋田へ行ったのだ。次男だった父は出来のいい長男ばかり愛していた祖母を毛嫌いし、遺産相続も半ば放棄していた。それを母がよしとせず、もらえるものがあればもらってしまおうと父を説得したのだ。

 父の実家である日本家屋は、私には広すぎた。明かりは十分に行き渡らず、角の暗がりから得体のしれない何かが手招きしているように感じ恐ろしかった。避難するように庭へ飛び出した。

 そこにいたのがとっくに死んだ祖父の兄だった。彼がどういった人物か親族らが口々に言っていた。

 長男として喜ばれたのも束の間、知恵遅れと判明するや粗末に扱われた。お見合いして嫁をもらうも子どもはできず、相手家族に種なしだと罵られ離婚。どうにか駅員の職にありつけたのがせめてもの救いだったという。

 幼かった私は話を理解できず、祖父の兄を可哀想とも思わず、ただしがみついた。

「大丈夫だよ。あれは淋しがり屋なんだよ」

 と、祖父の兄は私の行動に理解を示していた。あの人は単なる知恵遅れという訳ではなく、他人には見えないものが見えていて、そっちばかりに気を取られていただけだったのかもしれない。

 あの人は遺産相続の話に加わらずに私と電車ごっこで遊んでくれた。あの人が乗客で、五枚つづりの手作り切符をちぎって運転手の私に渡すのだ。あれは、楽しかった。また遊ぶことを約束した。その証明として、私は持っていた電車のおもちゃをゆずった。あの人はとても喜んでいた。

 景色が変わる。

 母が浮気した。父は興信所に大金をはたき、母が長年小遣い稼ぎに人妻専門の売春婦をしていたことを知った。父は私のDNAを鑑定した。おそらく、祖父の兄の種なしが遺伝しているのではないか、ということもあっただろう。

 私は百%父の子だったにも関わらず、父は私に懐疑的な目を向け続けた。私の一つ一つの仕草を観察しているようだった。二十四時間一緒にいる訳ではないし、学校やアルバイトでの社交で養われるものだってある。父だって自覚していない癖があるだろうに、私の癖はまるで他人から受け継がれたものだと思いこもうとする。いっそ他人の子だった方が潔かったのではないだろうか。

 高校卒業と同時に両親は離婚し、私は自立した。私の実家は売却されもうない。死に物狂いでアルバイトを重ね、単位を一つも落とさずに大学を卒業。今の百貨店に就職した。運が良かったのだろう。いや、そこで溜めていた運を使い果たしたのだ。

 妻は元々そこの雑貨屋で働いていた。花屋も兼ねていて、百貨店全体のフラワーアレンジメントの設置を任されていた。私は死に物狂いのバイト生活が染みついてしまっていたため、仕事一筋人間と化していた。それを彼女が少しずつほぐしてくれた。久しぶりに恋をした。

 恋愛の仕方を忘れかけていたところ、彼女の方から食事に誘ってくれた。プライベートに関しては口下手になっていた私だが、彼女の前では嘘のようにあれこれ話してしまった。彼女は誘導させるのがうまかったのだ。孤独である私に同情し、涙まで見せてくれた。

「実はアタシも……」

 似たような境遇なのだと恥じらいながら明かした彼女。私は守ってやりたいと思った。何でもしてやりたいと思った。次第に憧れの家族を求め、幸せで笑顔に満ちた家庭を私自身が作るのだと意気込んだ。

 しかし、可能なのだろうか。子どもは作れるのだろうか。私は前もって検査をした。

 結果、種なしだった。ショックではあったが、不妊治療について医師からアドバイスをもらい自信を少しだけ取り戻した。あとは勇気を出して彼女に説明するだけだった。いや、プロポーズが先だ。

 その矢先だ。彼女が嬉しそうに妊娠を明かしたのは。私は心の中で脱力した。というより萎えた。張り裂けんばかりの風船が、音もなく、よろよろと。

 本当に間違いないのか。

「うれしくないの?」

 涙目で言われ、私は気でも狂ったのか、プロポーズした。孤独の寂しさを老後まで続けさせるのだけはご免だと思ったせいだったのだろうか。

 妻は寿退社をして、長男を産んだ。父親は私の上司だった。いつから関係があったのかわからない。それとなく背中についていた抜け毛をそっと取ってやり、何となく鑑定してもらうと……、判明したというだけだ。あの上司は妙に私を優遇している。恐れているのか、馬鹿にしているのか。次男の父親は転職先の奴で、私よりも若いようだった。妻は何度も出勤日を偽っていた。あっぱれなほどにでたらめな家計簿を書くような女だ。

 なぜ私のプロポーズを受けたのか疑問だ。私よりステータスが高い人間はいたのに。なぜ私の子だと思ったのか。それとも上司の子だと理解した上で、あるいは誰の子かもわからないまま私に任せようと考えたのか。それこそステータスの高い人間のところへ行けばいいのに。それとも私の方が扱いやすいと思ったのか。

 それとも。なぜ。

 理解していることといえば、妻の癖は治らないということだ。そういう自覚のない病気なのだ。そして誰よりも私が間抜けだということだ。

 そして。

 私がかまくらを作っている。かまくらに明かりが灯る。橙色の光の中で私と老人が談笑している。私はハッとなって窓にべったり顔をひっつけた。

 あれだ。私が憧れていたのは。暖かい家庭があそこにはあるのだ。寒さを感じたほど暖かい。そんな家庭が。あそこにあったのだ。

 何度も何度も窓をぬぐって明かりを見つめるしかなかった。くしゃくしゃに笑う老人に対応しているのは業務的な笑みの男だ。今すぐ変わりたかった。今なら家庭的に笑える気がするのだ。

 カトン、と足音に振り向いた。青ざめた老人がゴルフクラブを握りしめていた。

「おじいさん!」

「帰れ。お前はここにいちゃあ駄目だ」

 私は立ち上がる。老人は意外と背が低かった。

「思い出したんだよ。あの電車のおもちゃ。ずっと持っててくれたんでしょ?」

「帰れ! 今すぐ降りろ!」

 恐ろしい形相で、老人はにじり寄った。

「嫌だ! ぼくの家族はおじいさんだけなんだよ!」

「いいから帰れ! お前はここにいちゃあ駄目だ!」

「じゃあいっしょに帰ろうよ!」

「ガアッ」

 老人は奇声を上げながらゴルフクラブを振るった。私は逃げるしかなかった。車両をどんどん逆走した。妻の姿。母の姿。父の姿。どいつもこいつも私を冷めた目で見返しては吹雪の中へ飛ばされていく。

 最後尾まで来た。老人はまだ追いかけてくる。

「早く降りろ!」

 辺りを叩きまくり、窓が割れ、扉が開いた。

 オオ! と、男とも女とも取れない、地獄から沸き立つ悲鳴のようなうめき声のような疎ましい風が耳をつんざいた。

 鉄橋の上だった。真っ白の曇天の下にたたずむ氷漬けの送電等が遠くに見えるや視界がぐるりと回った。背中を押されたのだ。

「お前はひとりぼっちじゃないぞぉ!」

 吹雪の渦へと吸い込まれながら、老人のむせび泣く声がとどろいた。



 衝撃で飛び起きた。同時に男も一歩後退して呆気に取られていた。

「よかった、生きてた!」

 白に見え隠れする男には見覚えがあった。先日、線路に落とされなかった方の「撮り鉄」だ。

「危ないですよ、こんなとこで寝てちゃあ。凍死しちゃいますよ!」

 彼の手には携帯電話。目を覚まさなかったら救急車を呼ぶつもりだったのだ。どうやってここまで来たのか、私はいつもの駅のホームのベンチでぐったりしていた。端の方だったので、下手すれば誰にも見つかることなく居続けただろう。

「電車はまだ来ませんから、中に入りましょう!」

 上唇の鼻水をちろりと舐めながら、「撮り鉄」は私の肩に手を回した。その時にようやく、夜であることに気づいた。

 電車に乗る気がないことを伝えると、彼は構内のラーメン屋に連れていってくれた。豚骨の匂いが染みついた空気が凍えた鼻を温める。幸いにも角の席が空いていた。

 ネギチャーシュー麺のスープが全身に行き渡り、トッピングのキムチが血行を促進する。首元の汗をハンカチで拭う。アーノルドパーマーだ。

 息をつくと、「撮り鉄」の(いぶか)しげな目と合った。

「あのう、自殺する気だったんですか……?」

 従業員の熱気でかき消されそうな小声だった。私もそれにならい、「いや?」と返した。

「だったらいいんです」

 神聖な駅で死なれては困るということだろうか。

「雪鉄に乗ったんですよ」

「へ?」

「雪国電鉄です。さっきまで、乗ってたんです。お宅ならご存知じゃないですか? アレのこと」

 大した情報を期待していなかったが、「撮り鉄」は深刻な顔でレンゲと箸を置いた。

「うちのばーちゃんから聞いた話なんですけどね。雪鉄は霊柩車みたいなもんだって」

「霊柩車?」

「魂を運ぶんだって。もし見かけても生きているうちは絶対に乗ってはいけない、帰れなくなるよって、言ってました」

「行き先は天国ですか?」

「ハワイみたいなとこだといいんですがね。……本当に乗ったんですか?」

「おじいさんが鬼のような顔をして降りろって、殴られたよ。ゴルフクラブで」

「ああ、ナイスショット」

 ケタケタと「撮り鉄」は笑った。



 帰宅するや妻が怒鳴った。長男がかまくらにこもって出てこないという。庭を見るとわずかに足跡が残されていた。妻は一歩も外に出てない。

 依然として頑丈なかまくらだ。春先までは残ってくれるかもしれない。覗き込むと、長男は厚着をして腕組みをしていた。

「インフルエンザは治ったのか?」

「うん。明日から学校行く」

「どうした、反抗期か?」

 長男は上目遣いでにらんだ。

「男と男の話」

「おう、聞こうじゃないか」

 私はどんと前のめりにあぐらをかき、両手を膝に置いた。しばらく外気の音を聞いた。

「見た」

「何を?」

「あれ。父ちゃんが大事にしてたやつ。引き出しの中の」

 長男は赤い鼻をすすった。寒さのせいなのかわからない。

「緑色のやつ」

 離婚届だ。私の部分だけ記入してある。

「離婚するんだったら、俺らは父ちゃんとこがいい」

「え?」

「あの人はいやだ」

「なんで?」

「ずっと前にあの人が風呂に入ってる時にケータイ見た。あの人家族のフリをしてるだけだもん。俺らよりも知らないおじさんといる方がいいんだ。この前家に来てさ、俺がいるからすっごい焦ってた。でもあの人、買い物に行くって言って出かけてった。俺こっそりついてったんだよ。そしたらさ、腕組んでたよ。それっておかしいよね?」

 私が見た男なのか、また別な男なのか、そんなことはどうでもいい。

「インフル悪化したらどうするんだ。もう中に入ろう」

「駄目! 最後まで聞いて」

 長男は充血した目でにらみ、何度も涙をぬぐった。

「あの人、父ちゃんがいるのに。父ちゃんは優しいのにさ。こんなでっかいかまくら作ってくれるし。友だちに自慢したんだ。秘密基地みたいだって。友だちの父ちゃんはこんなの作ってくれないんだってさ。父ちゃんはすっごい父ちゃんなんだよ。すっごいすっごい父ちゃんなんだよ」

「そうか」

「うん。ネットで相談したら実の親よりも育ての親だってみんな言ってた。証拠を保管して弁護士雇えばあの人らに勝てるって言ってた。父ちゃんにとって、俺らは父ちゃんの子どもじゃないかもしれないけど、俺らにとって父ちゃんは俺らの父ちゃんだから。だから、見捨てないで。ちゃんとお手伝いするし、おこづかいも我慢する」

 種なしの診断書もDNAの鑑定書も見たようだ。セットにして保管しておいたから当然だ。引き出しに鍵をかけてはいなかった。妻が勝手に盗み見て動揺を誘ってみたい願望が少なからずあったからだ。ほんの少しでも罪悪感を味わってほしかった。

 しかし、良心の呵責どころか、単なる焦りを覚えるだけだろう。いい訳の一つや二つ、あるいは種なしである私への責任転嫁を考える。あの女はそういう性分だ。書類はどうせコピーで、本物は銀行の貸金庫に保管してある。

 それにしても人の携帯電話を盗み見たり、引き出しを開けたり、何を考えていたのだろう。かまくら作りを放棄してゲームをして、それなのに絶賛して。インフルエンザだったのに無理して外出して。倒れたらどうするつもりだったのだろう。裁判をすればこっちが勝利し、親権も慰謝料も根こそぎふんだくれると信じているから、私を選んだのだろうか。ねだれば残酷なゲームも買ってくれるからだろうか。この子の思考がわからない。所詮は赤の他人なのだ。

 老人に押された背中の一点が今になってしびれてきた。長男はずっと嗚咽(おえつ)を漏らしている。その隣で、がちがちに固めたはずの雪の床からふきのとうがぽっこりと顔を出していた。私は天を仰いだ。


〈了〉

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