4.チェシャ猫はニヤニヤ笑うもの
私が泣いている間、男の子はずっと困惑した表情(顔半分見えてないけど)で私の頭を撫でてくれていた。
途中吐きそうにもなった(ギリギリ吐いてない)が、たくさん泣いたら気が済んで気分も幾分か落ち着いてきた。
そしたら涙も引っ込んで、会話する余裕も出てきた。
思考する余裕もできたから今言うけど、この男の子私と同い年っぽい割には随分と落ち着いてるね?
「おー、やっと泣き止んだか」
少年は歯を見せて笑った。
あぁ、笑顔が眩しい。顔見えないけど。
「ごめんなさい、とつぜん泣き出して…その、安心したの」
「安心した?……それ、オレが聞いてもいい話?」
「そうね、聞いて。話せばきっとわたしの心もかるくなるわ」
少年は真面目な顔で頷いた。
子供に語って聞かせる話ではないが、私だけの胸に留めておくには怖すぎる。彼には悪いが聞いてもらおう。
なに、噛み砕いて説明すれば少年の情緒教育に悪い影響は与えまい。怖い事があったという雰囲気さえ伝われば良いのだ。
*****
全て話し終えたとき、少年は何とも言えないような顔でただ一言「たいへんだったんだなぁ」と言った。まあ、子供の感想なんてそんなものだろう。
と言うか、大人でだってこんな昼ドラ話聞かされてもそういうセリフしか出て来まい。
しかし、おかげで私の心は随分と軽くなった。ありがとう、見ず知らずの少年よ。
「ま、これにこりたらもう一人で行動すんなよ?今回みたいに上手くにげられないかのうせいのが高いわけだし」
少年は苦笑する。
なんと。この少年は私の身を案じてくれるらしい。なんていい子だ。
…してくれたんだよね?心配。
彼の言う事は確かにそのつもりではあるのだが、それだけでは足りない。足りないのだ。
「わたしね、修行するわ」
「………は?」
突然の修行発言に少年は戸惑いをみせる。ポカンと口を開けて呆気にとられる様は、年相応の幼さを感じた。
しかしまぁ、さっきまでめそめそしてた奴が唐突に修行すると言い始めたのだ。驚きもするだろう。
ただ、その驚き方が「“しゅぎょう”って何ぞ?」ではなく「こいつマジで修行する気なの?」といった感じなのが、ませてると言うか耳年増と言うか……本当、よくその年で“修行”なんて言葉知ってるな。
「修行して、何かあってもはんげきできるように強くなるの。あと、自然と一体になってめだたなくなる方法……空気になるすべを身につけてみせるわ!」
立ち上がり、拳を空につき上げ、声高に宣言する。
これからは腕立て、腹筋、背筋、スクワットを毎日やろう。あとは走り込みか。家の周りを周回しよう。しかし、空気ってどうやったらなれるんだろう………座禅でもするか。
私が決意をする傍ら、少年は慌てたように身を乗り出した。
「いやいやいや………………本気か?」
「そうよ」
「なんで」
「自分の身をまもるために」
「そんなの、大人にまもってもらえばいいじゃんか」
「いなかった」
拳を下ろして顔を伏せる。少年は口を閉ざした。
「わたしだってそう思ってた、子供は大人にまもられるものだって。でも、でもね、いなかったのよ、周りにだれも。ゆいいついた味方はかたまってうごけなかった。だったら、自分で自分をまもるしかないじゃない」
ぎゅっと、握った手に力が入る。脳裏にちらつく恐怖を消し去るため地面を睨んでいると、頭にポンと手が乗せられた。
「……がんばれ。オレもがんばるから」
「ええ、そうね。がんばるわ」
彼が何に対して頑張ると言っているのかにはあえて触れない。言わなかったのだから聞かなくていいと思うし、藪をつついて蛇を出すのはごめんだ。今思ったけどこれ子供がする会話じゃないね?
少年がワシャワシャと雑に撫でてくるので髪がぐしゃぐしゃになったが、これは彼なりに空気を変えようとしてくれているのだろう。
その厚意は受け取ってこおう。「やめて、髪がぐしゃぐしゃだわ」と手をはたき落とし、年相応に拗ねてみせる。少年は「わりぃわりぃ」と今度は手櫛で髪を整えてくれた。いや本当に君いくつよ?
「そういやさ、そろそろ帰んなくていいわけ?家族がしんぱいしてんじゃねーの?」
「……………」
しばらく無言の時間が続く。
痺れを切らした少年が再び話しかけてきた。
「………おい、へんじしろって」
「…………のよ」
「は、なんて?」
「帰れないの、まいごなのよ!がむしゃらに走ってにげまわってたの道がわからないのここドコよ!?」
「えっ…なにオマエおもしろ…」
「バカにしないでよまた泣くわよ!ああもうまいごってけっこうクるわね泣きたいわ!」
「わかったあやまる、オレが悪かったごめんなさい。だからおちつけ泣くなオレがあんないしてやるから!」
この少年は今何と言った。案内してくれると言ったか?
「───ほんと?」
「ほんとほんと」
私を安心させるためか少年は笑顔で頭を撫でてくれる。しかしやっぱり手つきが雑だったので、せっかく手櫛で整えられた髪はまた彼の手でぐしゃぐしゃになってしまった。
慰めてくれるのは嬉しいけどもう少し優しく撫でられないものだろうか。
いや、そうでなくて。
「ほんとのほんとに道がわかるの?親とはカールマー通りのフェルモーソっておけしょー屋さんではぐれたんだけど」
「あぁ、あのひとけがない……わかった、行ける。こっちだぜ、はぐれるなよ」
少年は自然な動作で私の手を取り、引っ張ってくれる。ねぇ本当に君いくつ?ちょっとカッコよすぎじゃないですか?
*****
「オマエはさ、自分がいちばんふこうだって思うか?」
少年は私に案内をする道すがら、そんなことを尋ねてきた。話が唐突かつ重い。私が言えた事ではないけれど。
「たしかについてないとは思うけれど、それをふこうだとも、いちばんだとも思わないわね。そもそもふこうもこうふくも、わざわざゆうれつをつけるものではないわ」
「………オマエほんとに子供なわけ?」
「あら、それをあなたが言うのかしら」
彼なら“実は私と同じで転生者です”と言われても納得できる。もしくは良いとこのお坊ちゃんだ。少なくとも平民ではあるまい。
「なまえだって聞いてこないしさぁ、くうき読みすぎだろ。かわいげがないし子供らしくない」
「そう言うあなたはやけに大人びていてちしきもほうふで、ほうようりょくがあってませてるわね」
私がにっこり微笑むと、少年は唇を尖らせてそっぽを向いた。相変わらず目元が見えないから憶測でしかないが、どうやら機嫌は良くないらしい。
「ぶっちゃけなまえなんてどうでもいいわ。知らなくたって仲良くはできるもの。子供のつきあいってそういうものよ」
「…ほんと、子供らしくねーな。大人の言うことじゃね、ソレ」
「そうね、子供らしくないものどうし仲良くしましょ。たとえこの場かぎりのつきあいでもね」
そう言うと彼はこちらを向いてニカりと笑った。
この少年はどこか掴みどころのない雰囲気をしている。なんと言うか、不思議の国のアリスに出てくるチェシャ猫を相手にしている気分だ。
がしかし、子供らしくないおかげで私は素で話すことができる。繕わなくていいというのは実に気が楽だ。
その後は二人とも無言で歩いていると、どこからか人を呼ぶ声が聞こえてきた。
「ヒヨリー、ヒヨリどこなのー!!!ヒヨリー!!!」
「ヒヨリー!!!もう怖い人はいないから、出ておいでー!!!」
「ねーねー!!!ねーねどこー!!!」
「あっ…」
この声、母と父と弟の声だ。
認識した途端、安心感から涙腺が緩くなったのか、視界が少しだけジワリと滲んだ。
「おっ、そのようすだとおやが見つかったみたいだな。いやー、よかったよかった」
「口調がおっさんくさいわね…」
「うるせー」
少年の拗ねたような声色に吹き出してしまう。ごめんて。
しかしそのやり取りで涙は引っ込んだ。もしやこれも少年の計算の内なのだろうか?だとしたらつくづく子供らしくない子供だ。イケメンすぎる。
「それじゃ、わたし行くわ。今までいろいろありがとう、じゃあね」
少年の手を放し、声のした方へ駆け寄ろうとした──の、だが、できなかった。
彼が私の手を握ったままだったのだ。いったいどうしたというのだろうか。
「………オマエはさぁ、心強いよな。オレのダチに見習わせてーくらいだ。っつーか見習わせる、今きめた」
………はあ。その友達とやらがどういう人なのか、何があったかは知らないが、彼にこんなことを言わせるとはそんなにアレな人物なのだろうか。
私を見習ってもどうもならないと思うのだが。
そもそも心を見習わせるって、どうやるんだ。
「オレはさ、しあわせになるためには自分はふこうだって思わないことがだいじだと思う。だから、まぁ、オマエならダイジョーブだろ。なにもかもとは言えないけど…あー、うまく言えねーわ。何言ってんだろうな、オレ。ごめん…うん、それだけ。じゃあな」
少年は今度こそ私の手を放し、来た道を走って行ってしまった。何だったんだ、今の。とりあえず応援されたことだけはわかる。
彼とはもう会えないのだろう。ろくにお礼もできなかったが、お礼は言えたので良しとする。また奇跡的に会えた時にはお菓子でもあげよう。いつになるかは知らないし、その日は来ないかも知れないけれど。
少年が消えた方へ数度大きく手を振ってから、私は家族の元へと駈け出した。