3.人間ってこわい
「じゃあヒヨリ、お父さんとここでおとなしく待ってるのよ?」
そう言って母はお店の中に消えて行った。私達を置いて行った理由は簡単。母が入った店は化粧品販売店で、子供の私達には匂いがキツかったからだ。それに子供が商品に何かしたら大変だしね。まぁ私も弟もそんな店で暴れたりはしないけど。
父は気恥ずかしかったらしく、私達のお守りという名目で店の外に残った。
店の近くの公園にあったベンチに座り、一休みをする。
この辺りは人が少ないらしい。さっきジョギングをしているおじさんが通り過ぎていったきり、誰も見ていない。変な場所に店を建てたものだ。
朝から今まで色々な店を巡ってきた。
それは例えば服屋だったり、小洒落たカフェだったり、手芸店だったり、雑貨屋だったり、何かの出店だったり、まあ、要するに歩きづめだったのである。おかげで私も弟もくたくただ。
弟と手を繋いで歩いていた父もずっと中腰で疲れたらしく、満場一致の休憩だった。父は意外と背が高い。
しかし、ただ待っているだけというのもいかんせん暇だ。
きっと母はしばらく戻っては来まい。なんせ、女の買い物は長いのである。
私は短かったけど。あんまり身奇麗にしてると誰か狙ってるって疑われたしね。訳わからん。閑話休題。
いかにも暇そ~に足をぶらつかせる私に気を使ったらしい父は、私の行為をたしなめつつ、「母さんには内緒だよ?」と近くにあったアイス屋でアイスを買ってくだすった。
うへへ、さすがお父様わかってらっしゃるぜ。
2つのアイスを3人で美味い美味いと食べていると、父が顔を青くして立ち上がった。お腹を擦っている様子から鑑みるに、どうやら腹を下したらしい。
……人間誰しも寄る年波には勝てないんだね。
父は私に「いい子で待ってるんだよ。君はお利口さんだから無いとは思うけど、知らない人には付いていっちゃだめだからね」と言って、弟を連れて去って行った。行き先はおそらくこの公園内にある公衆トイレだ。
私が置き去りにされたのは、この辺りはそれなりに治安が良い上に近くには母のいる化粧品販売店があるし、私が"お利口さん"だから勝手に移動したりしないだろうと考えたからだと思われる。
思えばこの時、私は例え自分のお腹が痛くなくても父に付いて行くべきだったのだろう。
いくら治安が良くても犯罪発生率が0%ということはありえないし、私が勝手に動かなくてもトラブルは向こうからやって来るのだから。
なんで付いて行かなかったのかな。私ってバカ。
*****
「君、迷子かい?」
そう声をかけてきたのは、ほわわんとしたオーラを纏っていて、いかにも人が良さそうなお兄さんだった。
「いいえ、家族といっしょです」
「そうか。家族はどこに行ってるんだい?」
「母はあそこのおけしょー屋さん、父はおなかがいたくてトイレに行ってます」
「なるほど、一人で待ってるのか。偉いねぇ君」
「でも子供が一人で居るのは危ないから、お兄さんも一緒に待ってようかな」と、お兄さんは私の隣──さっきまで父が座っていた所に腰を下ろした。
「安心してくれ、お父さんかお母さんが来たら帰るからね」
私とお兄さんの間は付かず離れず、例えるならば電車で一人分の席が空いてるくらいの距離がある。遠すぎず、しかしプライベートゾーンは決して侵さない心地よい距離間だ。多分、ものすごく良い人だこのお兄さん。
私のカンも告げている。このお兄さんは根っからのお人好しだ、と。
「いーい天気だねぇ」と呟くお兄さんを横目に、"ま、この人と一緒に居れば大丈夫かな"なんて取り留めのないことを考えた。
*****
いやー、ホント私って馬鹿ですわー。自分の体質舐めてましたわー。
でもさ、思うじゃん?無効になってると思うじゃん?生まれ変わったのにこんな目に会うとは思わないじゃん?
それがそもそもの間違いだったよね。
「誰、その子」
魔女が降臨しました。
いや、魔女じゃなくて普通の人間なんだけれども。
でもさ、どギツい色の化粧して瞳孔開ききった目ん玉カッ開いて、艶のある黒髪を一房加えて前のめりの姿勢でただならぬオーラ纏っていればそう思うのも仕方ないと思いませんかね。ね?私悪くないよ、なーんにも。
多分、お兄さんの知り合い──いや、恋人だろう。この感じ、覚えがある。
あれだ、私に彼氏が盗られたと勘違いした女の重くて黒くて醜すぎる嫉妬が向けられている感じ。こんな子供に本気の嫉妬とか、大人気ねーなお姉さん。倫理感備わってます?
お兄さんに語りかけてるはずなのに、視線がずっと私の方に向いてるのが怖すぎて鳥肌が立っている。こっち見んな。
「ねえ、誰?」
「ヒヨリ・ハターミ、5さいです」
知らない人には名乗っちゃダメだよと教えられているが、ここでファミリーネームを名乗らなかったら多分お兄さんの隠し子か何かと疑われる。さすがに愛人とは思われないだろうが。
それだけは避けたいとあざとさを前面に押し出しつつ、丁寧に掌で5をつくってまで見せたのに。
「そう、貴方、隠し子ね?」
なぁ、おい、どうしてそうなった。
カツン、カツンとヒールの音を響かせながらお姉さんが近づいてくる。断頭台の方から来た。そんな感覚。
お姉さんの纏う異様な雰囲気に呑まれ、私もお兄さんも身動きがとれな──いや待て、お兄さんは呑まれるなよ。恋人なんだろ、何とかしてくれよ。
私だって逃げ出したいのは山々なのだが、怖くて動けない。
それに、私の本能が告げているのだ。
──目を逸らしたら終わる、と。
生憎周囲に人は居ないし、叫びたくても声が出ない。
陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクとさせていると、ついにお姉さんが私の目の前まで来た。来てしまった。
お姉さんのシミ一つないキレイな腕が私に伸び、あかぎれ一つない柔らかな手が私の首にかかり、逆剥け一つないほっそりとした指が私の喉を締め上げる。
「っ!!」
気道が閉まる。声なぞ出ない。まして悲鳴なんて出る訳がない。出せるものならとっくに出している。
ねぇ、子どもってさ、守られるものじゃないんですか。そりゃ自衛も大事かも知れないけどさ、基本的に子どもが大人に勝てる訳ないじゃないですか。大人でさえ傷つけられるのは怖いのに、子どもが怖くない訳ないじゃないですか。経験って大事だけど、こんな経験必要ないじゃないですか。生まれて5年しか経ってない子どもにこの人はいったい何をしているんですか。
何で死んでまでこんな目に合わなくちゃいけないんですか?
私の頬はどんどん紅潮してゆき、それに比例して手足はどんどん青くなる。それに気づいたらしいお兄さんがようやく現実に戻ってきて、お姉さんの手を引き剥がした。
「っげほ、げほっ………お、お、お父さん!お父さん!お父さん!お父さん!」
地面に落ちた私は力の入らない足を叱咤し、一目散に走り出した。
落ちた時に擦りむいた手足が何だ。そんな事より逃げるのが先だ。
母に助けを求めてはいけない。きっともっとこんがらがる。
おそらく母がお兄さんの浮気相手と疑われて、えーっとえーっとえーっとえーっと…とにかくヤバい。それだけは確かだ。
しまった父はどこのトイレにいるんだったか。公園の公衆トイレか。なんてこった逆方向に走り出してしまった。
これからどうしよう。110番?そんなものこの世界にない。ならどこに行けばいいんだろう。全然頭が回らない。振り向いてお姉さんが追ってきているか確認する余裕もない。そもそも確認したくない。追ってきてたら怖すぎる。
走りすぎて気持ち悪い。こんな全力疾走いつぶりだろう。お腹も頭もぐるぐるしていて、今すぐ全部吐き出したい。
「ゔぁっ!!」
何かに躓いて転んだ。全身を強打する。元々擦れていた箇所がさらに擦れてとても痛い。傷口がR-18Gみたいなことになっていそうで視線を向けられない。
足元には少しだけ出っ張った石。ちくしょうコレのせいで転んだのか。
「………いたい」
体中が痛い。頭も痛い。吐き気がする。もう走れない。
だから何だ。だったら早く隠れないと、お姉さんに見つかってしまうかも知れない。
ほふく前進で近くの植木に近づき、植木と植木の間に隠れる。
なるべく息を潜めて、気配を殺して、身動ぎ一つしないで、そう、背景になりきろう。私は景色、私は自然、私は大地、私は地球、私は宇宙……………
「それはちょっと無理があるんじゃね?」
声に出ていたらしい。私の呟きは誰かに聞かれていた様だ。
バッと勢い良く顔を上げると声をかけてきたその人は驚いたようで、うぉっと小さな悲鳴を上げた。
「そんなにケガして、どーしたよ?」
わざわざ屈んで目線を合わせようとしてくれている、私と同じくらいであろう年の男の子の顔は前髪で隠れて見えないけれど、その声色が優しくて、あまりにも今の私の心に突き刺さるくらい優しくて、私は生まれて初めて他人の前で泣いた。