1.運命って理不尽だよね
「誰よこの女!!」
時刻は午後9時。
オフィスビルのとある一室で、私こと傍観日和は困惑していた。
なぜって、私の目の前で、一組の男女が、テレビでもなかなか観ないような、いかにもな修羅場を繰り広げているからだ。しかも、男性に喧嘩を吹っかけた女性が自分を指差しているとくればなおさら。
事の始まりはこうだ。
まず、自分は残業まっただ中で、さっさと仕事を終わらせて帰るべく、猛スピードで作業を進めていた。
私の他に残っていたのは、隣のデスクの青年だけだ。今年入社したての23歳。まだ若い。
青年は気を紛らわせたいらしく、しきりに話しかけてくる。私は「へぇ」「ふーん」という明らかに話しを聞いてない返事しかしないにも関わらず。
話している暇があるなら手を動かせと言いたいところだが、割とデキるタイプな青年の手はしっかりと動いていた。…こやつ、やりおるぞ。
───っと、そんなことはどうでもいいのである。
とりあえず、二人きりであることと、その二人の間には(日和の一方的な)心の壁があることがわかってくれればそれでいい。
恋愛感情?あるわけねーだろそんなもん。まともに話したの今日が初めてだぞ。
とにかく、二人で悲しく残業していたのである。そこへ突然「たっく~ん」という語尾にハートマークが付く程の猫撫で声をあげながら、一人の女性が部屋に突入してきたのだ。
一応、スーツ(タイトのミニだった)に会社の名札を付けていたので、他の部所の人間だろう。同じ部所の人間で、こんなケバ……こほん、化粧の濃い女性は見たことがない。
「たっくん」というのは私の隣の青年のことだろうか。だとしたらあの女性は彼の彼女だろうか。見る目ないな、たっくん。
"たっくん"は「ミカ!帰ったんじゃなかったのか?」なんて、声色こそ普通だったものの、聞く人が聞けば誤解しそうな台詞を吐いた。私は思わず「は?」と言ってしまった。
そして、ミカという女性はしっかり勘違いしたらしい。
顔を真っ赤にして、私を指差し冒頭の台詞を叫んだのだ。
その後も彼女は「私という女がありながら!!」とか、「人の男に手ぇ出してんじゃないわよこのアバズレ!!」だとか、全く見当違いな言葉を延々と吐き出し続けている。
悪いことは言わないから、彼は早く彼女と別れた方が良い。思い込みの激しい勘違い女と長く付き合っているとろくな事がない、と相場が決まっているのである。
全く、勘違いも甚だしい。ただ男女が二人きりで会話をしているだけで浮気だなんだと騒がれるなど、迷惑極まりない。
…まぁ、たしかに彼女としては彼氏が知らない女(知ってる女でも)と二人きりというのは不安しかないだろうが、これは残業という名の不可抗力なのである。
が、そんな言い訳が只今絶賛ヒステリー中で周りが見えなくなっている彼女に通じるはずもなく。
青年が必死に宥めているが、彼女は聞き入れようともしない。
私はというと、上司に仕事を押し付けられ、おかげで本来する予定のなかった残業をする羽目になり、更に女性の乱入で作業が中断され、その上あらぬ疑いをかけられストレスが天元突破する寸前の状態──つまり、M(マジで)K(キレる)5(五秒前)だった。
今口を開けば「お?なんじゃいワレ、仕事の邪魔しおってからに。なんじゃ?私の代わりに仕事してくれるんか?お?お?」という893風の罵倒が飛び出してきそうなので、とりあえず黙っておく。
きっと今何を言っても彼女には言い訳にしか聞こえないだろうし、この状況で口を出せば彼女はヒートアップするに決まっている。嫉妬した女は面倒くさいのである。
がしかし、世の中そんなに甘くはない。
「黙ってないで何とか言いなさいよ、この泥棒猫!!」
うわ、泥棒猫って言葉使った人初めて見た。つかそれもう死語じゃね?流行ったの何年前だよ。
彼氏を押し退け、つかつかとこちらに歩み寄ってくる彼女を冷静に眺めていた。
"何をするつもりなのかなー"なんて、他人事の様に考えていたのが悪かったのだ。
思えば、私は昔からよく面倒事に巻き込まれる体質だった。
カップルの片方にぶつかると、謝ってももう片方に絡まれる。
公園のベンチなんかに男と座っていると、後から来た男の彼女に「私の彼氏になにしてんのよ!」とあらぬ誤解をされる。
外せない用事があるからと会社の遊びの誘いを断ると、「男の気を引きたいんでしょ!」と勘違いをされる。
少し男に優しくしただけで、その男の彼女に「私の彼氏を取らないでよ!」と罵られる。
事務連絡しかしていないのに、「彼に気があるんでしょう!?」と疑われる。
急ぎの用があってカップルの会話に割り込むと、「恋人との仲を引き裂こうとしたんだろう!」と言いがかりをつけられる。
ひどい時には、同じ空間に居るだけで「お前のせいで恋人と別れた!どうしてくれる!」と難癖をつけられる。
私は、なにも、悪くないのに、だ。
さっき、これらのことを思い出せたなら、きっと、私は逃げられたのに。
「ぅぐっ……………っ!」
彼女に首を締められ、何とかしようとして、勢い余って突き飛ばした。
「ぎゃあ!」という可愛くない悲鳴と共に、ドスンと尻餅をついた音が人の少ない部屋に響く。
舞い上がった埃を吸い込みゴホゴホと咳き込む私に、良識ある青年が駆け寄ってくれるが、この状況でその行いは更に私を追い詰めるだけだ。
「ふざけないでよ!」
カチャリという音がして、不思議に思って顔を上げる。
青年越しに見える彼女。視界に入ったキラリと光る銀色の物体に、慌てて青年を突き飛ばす。
くそっ!誰だよ、デスクの上にでっかいキッチンバサミ置いてった奴!!
頸動脈に深々と突き刺さるハサミ。
ああ、熱い熱い。痛い、痛い!!
なんでこの女的確に頸動脈に突き刺せたの?何者だよお前。
ていうか女のくせに力強すぎだろ。めっちゃ深く刺さってるんですけど?腕力ゴリラか?
「何やってるんだよ、お前!!」
「だって、だってこの女が悪いのよ!!この女が、この女が!!」
「先輩がお前に何したって言うんだよ!!ただ話してただけだろうが!!」
そうだそうだ。もっと言ってやれ、たっくん。あと、やっぱりそいつとは一秒でも早く別れた方がいいよ、君の為にも。
「とにかく!早く救急車呼ぶからな!」
「駄目!」
「あっ!?こら、携帯返せ!」
「嫌!」
「くそっ、だったら外に………!」
「させないわ!」
「邪魔するなよ!」
「嫌よ!救急車なんて呼ばせないわ!」
「馬鹿言うな!先輩死んじゃうぞ!」
「死ねばいいのよ、人の彼氏取ろうとする女なんて!」
うるさいなぁ、静かにしてよ眠れないだろ。あと彼女、その言葉絶っっっ対忘れてやらねぇからな。
霞む視界。薄れる音。入らない力。微睡む意識。
確実に近寄ってくる死の足音に、ははっ…と乾いた笑みがこぼれた。
あーあ、私まだ、人生の半分も生きてないのになぁ。
まだまだやりたいこといっぱいあったのに。女らしく結婚とかしてみたかった。
ごめんねおとーさん、おかーさん。ろくにおやこーこーできなくてさ。
わたしもまごのかおがみたかったなぁ。
うんめいって、りふじんでざんこくだね。
おやすみなさい。もうめがさめることはないんだろうけど。