浅き夢見し酔いもせず 2/2
最終話です。本作を最後までご覧いただいた方々、大変ありがとうございました。
五
――明後日。文化祭の最終日。
昨日あれだけ壮絶な戦いを繰り広げた僕らは、さすがに精神力を使い果たしてしまって、目覚めたあと学校に行くだけの気力も残っていなかった。
僕はみんながそれぞれの家に帰るのを見送ったあと、またすぐにベッドへと戻って泥のように眠った。今度は超明晰の力を使わず夢も見ないほどの眠りに就いて、丸一日中、心と体を休めていたのだ。
そして今日、昨日一昨日とは打って変わって爽やかな陽気の中、僕は万全の体勢で文化祭へと臨んだ。
去年はたいして気にも留めていなかった文化祭だが、今年は違う。せめて文化祭実行委員として最後の日ぐらいは、自分たちの作り上げた祭典をゆっくり見て回ることにしようと思って、僕は全校舎を練り歩いてみることにした。
登校して、廊下に出た時点で僕はすぐに驚いた。廊下には生徒たちはもちろんのこと、OBや他校の生徒、周辺地域の住民などの一般客まで多く行き交っていたのだ。その人の多さたるや、歩く度に誰かしらの体に肩やら肘やら接触するので、人ごみの中を、平手を切って頭を下げながら進んでいく必要があるほどだった。
初日、二日目と文化祭を休んだ僕は、その二日間の様子がどんなものだったか知らない。だけれど、きっと今日の賑わいには及ばなかったことだろう。そう思えるほどに学校中が活気に満ち溢れていて、どこへ行っても生徒たちの喧騒は絶えることがなかった。
各教室を彩るポップボードや折り紙の輪繋ぎなどの装飾品が学校中に華を添え、放送部によるラジオ番組が群衆をより一層盛り上げている。体育館に行ってみると、中にはコスプレして客呼びをしている生徒もいたが、それは何というか宣伝自体が目的というよりも、この機に乗じて仮装を楽しんでいるだけのような気もするが。
まぁとにかく、文化祭としてはこれ以上ないってくらいの大盛況。閉祭まで何があるか分からないとは言え、実行委員会による文化祭運営は大成功を収めたと言ってしまって構わないだろう。僕もその一端を担っている者として、鼻高々だ。
二年生教室前の廊下を歩いていると、自然と二年二組の教室が目に入った。篠倉のいるクラスだ。
せっかくなので少し覗いていこうかなと思って入り口の前まで行くと、そこでまた僕は驚く。
教室の窓から、せっせと紙コップにコーヒーを淹れている篠倉の姿が見えた。いや、それだけならさして問題ない。生徒会だけでなく自分のクラスの仕事まで真面目にこなしているんだな感心感心ってなもんで、それで終わり。……しかし、しかしだ。今僕の目の前にいる篠倉は全く問題ないことなくて、メイド服を身に纏って仕事をしている。これは何故だ?
ぼっーと立ちつくして外から眺めていると、ふとした拍子に篠倉と目がかち合ってしまった。
「あっ」
聞こえてはしなかったが、仕草で篠倉が小さく声を上げるのが分かった。
気づかれたからには無視するわけにもいかないので、僕は「……よっす」と軽く手を挙げて挨拶をする。すると、向こうは気まずそうに顔を赤らめたあと、近くのクラスメイトにコソッと内緒話をするように一言断って、僕のいる廊下まで出てきた。
「……やっ、トミシ。その……、あの……加減はどうだ? きっ、昨日は十分に休めたか?」
何だか体をいじらしくもじもじさせながら、妙に上擦り気味で篠倉は声を掛けてきた。
「僕は別に大丈夫だけど……、お前はどうしたんだよ……その格好」
言いながらじっと見つめると、篠倉は「ううっ……」と唸って、手に持った丸いトレーを盾にして体を隠す。
「これは……、無理やり着せられたんだよ……。私だけみんなと違うのは変じゃないかって進言したら、じゃあ篠倉さんもってこの格好を迫られて……。とんだ災難だ……」
言われて教室の中をぱっと見渡して、僕はやっとこのクラスの出し物がメイド喫茶だということに気がついた。教室の入り口にも、やたら自己主張の激しいポップで、〝メイドカフェ?〟と書かれたスタンド式の黒板が立っていた。
「……ふーん。変な格好って……、初めはどんなだったんだよ?」
「それは……その……、もう! そんなの別に何だっていいだろ! それより何か言うことあるんじゃないか!」
突然プンスカ怒りだす篠倉。よく分からんけど、メイド服姿の感想を言えってことだろうか? こういうときに何と言ってやれば正解かよく分からなかったので、とりあえず僕は思ったままを口にする。
「その……何だ。結構似合ってると思うぞ、そういうのも。たまにはそんな女の子っぽい格好でもいいんじゃいか? ほら、夢の中じゃお前、ほとんどジャージだから――」
「分かったもういい! 十分だ! やめてくれ! お願い! 恥ずかしい!」
まだ途中だったのだが、篠倉に顔をトレーで遮られて続きを無理やり止められてしまった。
「周りにたくさん人がいるだろうがっ……!」
篠倉は耳元まで真っ赤にさせて、周囲の人に聞こえないように小さな声で怒鳴った。
「お前が言えって言ったんだろ……。ってか、誰も僕らの会話なんて聞いてないと思うぞ?」
「それは間違いだ! 私たちが二年生の間でなんと噂されているか知らないのか?」
言いながら、篠倉は教室内を気にしている。彼女の視線の先で二人の女子生徒が慌てて後ろを振り返った。
「なんて噂されてるんだよ?」
「それは……、あれだ。あれだよ、うん。とにかく、良くないことだ」
僕が聞くと、急に篠倉は曖昧に言葉を濁し始めた。気まずそうに唇をもごもごと動かして、ついには黙ってしまう。表情からは徐々に赤みが引いていくが、まだ頬にはほんのりと薄紅色が差している。そんな顔でちらっとこちらを上目使いに見られると、どうしていいか分からなくなる。次のセリフに困ってしまって、今度は僕も黙ってしまった。
しばしの沈黙――耳に聞こえてくるのは周囲のざわめきと、篠倉の熱の籠った呼気。僕にはそれがどうにもむず痒くて、体がぞくっと緊張するのを感じた。
そしてそれは、どうやら篠倉も同じらしかった。篠倉はごほんと咳払いをして妙な空気感のこの場を誤魔化すと、途切れ途切れに話を切り出し始めた。
「あっ……えっーと、そうだトミシ! せっかくだからちょっと寄っていかないか? これが意外と本格的なメイドカフェで結構人気なんだ。案外、新鮮で面白いと思うぞ」
確かに店内には男女問わずに多くの客がいる。メイドカフェってだけで中々珍妙で入りにく感があるし、それを踏まえた上でのこの客入りはかなりのものだろう。
できれば僕も篠倉の誘いを受けてやりたかったのだが、残念ながらこの後にちょっとした用事が入っている。
「や、遠慮しておくよ。実は芙蓉に呼び出されててな。急ぎの用じゃないんだけど、遅れてまたごちゃごちゃ文句言われても具合悪いし。それに、他に見て回りたい場所もあるしな」
今朝、登校の直前になって芙蓉から僕のケータイにあるメールが届いた。そのメールには、『今日の午後三時、生徒会室に来てくれ。君との約束を果たそう』と、たったそれだけしか書かれていなかったのだが、芙蓉はそれでも伝わると思ったのだろう。確かに僕と芙蓉の間で約束といえば、あれしかない。そもそも僕が芙蓉の仕事を手伝うきかっけとなった、彼女の正体についてだった。
「ゴメンな、文化祭まともに付き合ってやれなくて。せめて今日だけでもとは思ったんだけど……」
僕が謝ると、篠倉は「え?」と聞き返して、目を丸くして愕然とした。
「……なんだよ?」
「あ……いや、その……。君がそんなことを気にしていたというのが少し意外でな……。ちょっと驚いた」
篠倉が、へへへとあどけなく笑う。そして、こう続けた。
「以前の君なら、きっとそんなことは考えもしなかったろうさ。とことん他人に興味の無い性格だったからな。……でも今の君は、そうじゃない。ちゃんと相手のことを気遣える人間だ。……そして、その変化がもし私と関係を築いたことでもたらされたものだったのなら――ちょっと傲慢かもしれないけれど、嬉しいなと思ったんだよ」
と、篠倉はそんなことをなんの恥ずかしげも無く言うので、僕は微妙な表情になってしまう。何と返していいのか分からず、僕は逃げるように視線を宙に投げやった。
それに気づいたのか篠倉は、そんな僕の制服の裾をくいっと指で摘まんで引っ張って、「なぁトミシ」と僕の名前を呼んで注意を引き戻すのだった。
「最近、思ったんだけどな。君と私が、あの日保健室で出会わなければ、きっと今こうして話していることもなかったんだろうな。……ううん、それどころか、この文化祭だってまともに開催できていたかどうか怪しい。那須美君や野々宮さんはずっと悪夢にうなされたままで私と友達になることなんて無かっただろうし、君もそうだ。一つ歯車が違えば、
先日の悪夢の続きを、君は現実に味わっていたかもしれない」
悪夢の続き――か。もし篠倉が言う通りになっていたとしたら、きっと僕は今頃学校をサボって家にいるのだろうな。や、冗談じゃなくて。たぶん僕は、学校に行く気力などすでに失っているに違いない。何の意味も無く、何の変化も無い同じような日々を、ただいたずらに過ごすだけでは、僕の胸の中にある虚しさはより一層強くなっていたはずだから。
「だからこそ――な? トミシ」
あの悪夢を思い返していた僕に、篠倉はまた呼びかけた。
「だからこそ、私たちの出会いはとても尊いものだったと思うんだ。いや、私だけじゃない。那須美君に野々宮さんに白日さん。ひょっとしたら煙草屋会長だってそうかもしれないし、もちろん……座頭橋先生も。一つ一つの出会いが――君自身を、そして周りのものを少しずつ変えていった。それを〝絆〟と呼ばずして何と呼ぶ? 君はすでに、自分の一番欲しいものを手にしていたんだよ」
「僕が……、絆を?」
僕が確かめるように聞き返すと、篠倉はそれにニコッと笑って応じた。それがあまりに屈託のない笑顔だったものだから、僕も釣られて自然と笑みがこぼれてしまう。
そしてつい僕は、思ったことをそのまま口にしてしまった。
「理想ってのは現実とかけ離れているように見えて……、案外身近なものなのかもな」
手を伸ばせばすぐに届く距離だけど、まるで先の見えない暗闇に立たされている自分には、それがどこにあるのか分からない。見えない何かで傷つくのを恐れて、その手を引っ込めてしまうのだ。だから、自分の理想を叶えるのは難しい。
だけど、自分の手を引いてくれる人がいれば、前を照らしてくれる人がいれば、理想を手にするのは簡単だ。知らず知らずの内にそれを拾い上げていたなんてことも、珍しくはないのだろう。あとは、それに当人が気づけるかどうかだ。
「そういう意味では……そうだな、お前の言う通りかもしれない。篠倉が懲りずに僕の傍にいてくれたおかげだ」
言うと、篠倉はふっと微笑して、「そんなの当たり前だろ」と僕の胸をトンと拳で小突く。
そして――
「私と君は親友同士なんだからな」
と言葉尻に付け足して、篠倉はパッと僕の元から離れる。
だけれど――篠倉の言った『親友』という言葉だけが僕の耳にしばらく残って、何だかとてもこそばゆい感じがした。
「さて、私はそろそろ仕事に戻るよ。本当はもっとこうしていたいけれど、あまり店を空けすぎると他のみんなに迷惑が掛かるからな」
「あ、ああ……。そうだな、僕も行くとするよ。……また放課後にでも、いつものメンバーで集まろうぜ。文化祭の打ち上げだ」
「そっか、そいつは楽しみだ。期待しておくぞ!」
篠倉は後ろを振り返りながら、ぶんぶんと子供のように手を振って教室内へと戻る。
さっき周りに人がいるとか言ってたくせに、こういうところはあけっぴろげだな。いくら何でもそういうのは、そこそこ仲の良い女子同士でもやらないと思うぞ。
……まぁでも、無視するのもちょっぴり可哀想なので、僕は殊更周りに見えないよう控えめに手を振り返したのだった。
主にライブ系の催しが開かれている体育館――そこを少し覗いてみると、暗い会場内にひときわ目立つ存在。スポットライトに明るく照らされて、ステージ上ではちょうどバンド演奏が行われていた。
ふと、その中に見た顔があることに気づく。ボーカルの彼……、確か菅原先輩だったか。以前、僕と野々宮の二人で、バンド出展のドタキャンの件で教室まで訪ねた先輩だ。
彼によるとメンバーの一人、永山先輩が悪夢にうなされて眠ったままの状態になっていたはずだが……、こうしてご機嫌に演奏しているところを見る限り、どうやら寸前になって快復したらしい。それにも拘わらず、彼らの演奏は実に見事なものだ。会場内のテンションのボルテージは限界まで高まり喚声が凄まじい。きれいに並べてあったパイプ椅子はぐちゃぐちゃに跳ね除けられ、せっかく設営された座席などはもはや関係なしに皆立ち上がって盛り上がっている。体育館内が聴衆の熱気に包まれ、さらには皆が騒ぐ振動で体育館自体が少し揺れているような気さえした。
文化祭特有のテンションというのもあるかもしれないが、ここまで会場を沸かせてくれる演奏が、復帰したばかりのメンバーと土壇場で仕上げたものというのがこれまた凄い。一週間のブランクなんて目じゃないほどに、入念に練習してきたということなのだろう。
群衆の波に呑まれぬように、僕はなるべくステージから遠ざかる。熱狂した生徒らがどんどんステージ付近に集っていくものだから、ぼっーとしていると押し潰されそうになるからだ。
何とか後ろの方に空いているスペースを見つけ、僕は壁にもたれかかってしばらく演奏に耳を傾けた。
「先輩らのバンド、結構良い感じだよな。『CASTLING』っていうんだっけ? 案外、将来有名になるかもな」
ふいに横から声を掛けられた。
何だこいつ馴れ馴れしいやつだな急に話しかけてくるなよビビるだろと思って隣を振り向くと、これまたよく知った顔がそこにあった。
「那須美……。お前もいたのか」
那須美は、たぶんどこかの出店で買ったのであろうジュースを右手に、左手には我々実行委員会の広報部が発行したパンフレットを携えていた。おそらく、パンフレットに描かれた地図を見ながら、各教室の出店を回っていたのだろう。その証拠に、肘にはプラスチックパックや紙コップなどのゴミが詰まった小さなビニール袋をぶら下げている。どこかで買い物した際についてきた物を流用しているらしい。
そんな那須美が、ストローでジュースをずずっーと啜りながら出し抜けに言ってきた。
「お前はこういう人の多い場所は嫌いだと思ってた」
「まぁ普段ならそうなんだけどな。事ここに限っては……、ちょっと特別だろ。せっかく、僕たちで運営した文化祭なんだからな。やっぱりこの目でその仕上がりを確かめたいじゃないか」
「違いないな」
那須美は納得したように頷くと、ジュースの残りを一気に飲み干した。
飲み終わった空きの容器をべコべコ潰してゴミ袋に詰め込んでいる那須美に、僕も聞き返す。
「そういうお前は、こんなところで一人でどうしたんだよ。お前だって、あまり一人で行動するようなタイプじゃないだろ。こういうイベントは誰かしらとグループ作ってはしゃぎ倒しそうなイメージだけどな」
「それはお前らが捉まらなかったからだよ」
那須美は平手を横に振って、違う違うと異議を唱える。
「俺、一応みんなにメールしたんだぜ? 今日は登校したすぐにみんなで集まって文化祭一緒に回ろうぜって。そしたら篠倉さんからは午前中に店番があるらしいから遅れるって返信が来て、野々宮さんは弓道部と生徒会の両方の用事を片付けないといけないから同じじく遅れるってことだった。……んでお前は、そもそも返信が来なかった」
じっと責めるような目つきで僕を睨む那須美。言われてケータイを見てみると、確かにメールが一件届いている。
たぶん、芙蓉の呼び出しの件で頭が一杯になっていたのだろう。その所為で、二件目のメールが来たことにも気づかなかったようだ。
「ま、どのみちこの後には予定があるから、悪いけどお前には付き合えないんだけどな」
「そうかよ。そりゃ残念だ」
僕が言うと、那須美ははっと苦笑して、思ってもないことを口にする。誰も捉まらなかったのと僕に無視されたのとで、すっかりふてくされてしまっているようだ。
「誰か他のやつを誘えばよかっただろ。別にお前は、僕らだけしか友達がいないってわけじゃないんだから」
僕が指摘すると、那須美は痛い所を突かれたと言わんばかりに「うっ……」となる。
そして、口ごもりながら曖昧な説明をした。
「そりゃお前……、なぁ? まぁ何つーか……、そんな気分でもなかったっていうかさ……」
「なんだそりゃ。さっぱり分からん」
「……まぁたぶん、お前と同じだよ。別に思い上がるつもりはねぇけど、この文化祭は俺ら四人がいたからこそ成り立ったようなもんだ。……ってことはつまり、逆に言えば俺らのうち誰か一人でも欠けていれば今のこの盛り上がりはなかったってわけだ」
そう言って那須美は、聴衆を顎で差した。皆、一様に手を振り上げて音楽に乗っている。中にはヘッドバンキングをする者やただひたすらに甲高く叫ぶ者もいて、普段抑圧された自分を思うままに解放していた。
確かに考えてみれば、このうちの何人かは悪夢の影響を受けた可能性が大いにある。今壇上でベースを弾いている永山先輩もその一人で、彼は悪夢にうなされたその日から今日までの間ずっと眠り続けていたはずだ。そんな人たちを救ったのは他でもない僕ら。僕と篠倉、那須美に野々宮がいなければ、今頃文化祭は閑古鳥が鳴いて開催自体危ぶまれていたことだろう。僕らは運営の立場からこの文化祭を切り盛りしてきたわけだが、また別の側面から、自分たちの作り上げた文化祭を自分たちの手で守っていたのだ。
「だからさ、最後はやっぱりその面子かなって思うじゃん。ま、結局集まらなかったわけだけどな、はは」
那須美は笑い話にしようとするが、どこか笑みが渇いていて残念そうな感じが隠しきれていない。仕方がないので、ちょっとばかし慰めてやる。
「放課後、校門前に集合な」
「え? なんで?」
「僕もお前の言ったことには特に異論ないからな。やっぱり何もしないってのも少し寂しいし、さっき篠倉にも伝えたけど、無事文化祭を見届けたらみんなで打ち上げをしようと思うんだけど……、当然お前も来るよな?」
まさか僕からそんな誘いを受けるとは思いもしなかったのだろう。那須美はきょとんと固まって、数秒後にやっとのことで再起動する。
「……あ、当ったり前だぜ! 俺がいなくちゃ始まんねぇだろ!」
那須美は僕の肩をぽんと叩いて、嬉々として答える。
さっきまでの意気消沈っぷりはどこへ消えたのやら。こうも分かりやすい人間などそうはいないだろう。まぁそれが那須美の良い所でもあるのかもしれないが。
ともあれ、那須美は期限を取り戻すと、視線をステージに戻した。
ステージでは、三年の面々が荒々しくビートを刻んでいる。拙いが、溢れんばかりの活力に満ちた若いリズム。聴衆がそれに呼応するように、両手を激しく打ち鳴らす。
高校生活最後の文化祭――檀上から見える景色は、彼らにとってどのようなものだろうか。沸き立つ聴衆に、一つの夢を見出しているかもしれない。進みゆくメロディに、学校生活の終わりを感じているのかもしれない。はたまたその両方か。いずれにせよ、この瞬間が彼らにとって決して色褪せることのない思い出となることは確かだろう。
ボーカルが燃え尽きるように全てを吐き出しきると、最後にアウトロがフェードアウトしてそれを締め括った。一瞬、静まり返る会場。音の残滓が会場内を響き渡り、その心地よい余韻が頭の中をくすぐる。
――誰からともなく、客席から拍手が湧き上がった。それが火種となって拍手の大きさはどんどん増していく。つかの間の静寂は、続く歓声と指笛の甲高い音にあっという間に打ち破られた。
「終わったみたいだな」
僕も同様にステージへ拍手を送りながら呟く。
すると那須美が、なぜか神妙な面持ちで言った。
「そうだな。俺らの……悪夢との戦いが、やっと終わった」
「……や、演奏がってことなんだけど」
指摘すると、那須美は「ああなんだそうなのか」と少し気まずそうに笑う。
「いやさ、お前は知らないかもしれないけど……初日の人気の無さを見てると、この盛況加減は、学校に活気が戻ったんだなって改めて実感するんだよ。そう考えるとほら、俺らいったい何人救ったんだよって話じゃん? そりゃあ、やりっきった気分にもなるって」
長時間その場に立ちっぱなしだったので、体が少し窮屈になっていたのだろう。那須美は「んんー……」と伸びをして、溜まった息をゆっくり吐き出す。足首をぶらぶらとリラックスさせながら、那須美はふいにこんなことを言った。
「成り行きで手伝うことになった生徒会業務だけど……、俺、やってよかったよ」
那須美は服を整えて居住まいを正すと、向かい合って、僕に手を差し出した。
それが何を意味するものか、分からない僕ではない。
だから――
「……そんなの、僕もだよ」
それだけ言って応えると、その手をバシンと叩いてやった。
ところ変わって旧校舎――
芙蓉との待ち合わせ場所である生徒会室に行くためにここを訪れたのだが、やはりここでもどこかのクラス、あるいは部活かもしれないが、数多くの出店が出展していた。
聞けば、今日まで続いていた大雨の所為で、校舎外での出展はその大部分がここへ移動してきたらしい。校舎外の出店は露店という形でいずれもテントを張ってそこを拠点としていたのだが、移動の際に一旦テントを崩してしまったのだとか。おそらく雨水の重さでテントが潰れてしまうのを考慮してのことだろが、濡れたテントのパーツをまた一から組み立て直すのは存外骨が折れるというのもあって、そのまま旧校舎に居座っているところがほとんどのようだ。
クレープ屋、タピオカジュース店、美術部の作品展示等――旧校舎自体が木造建築というのもあって火を扱うものは避けられているようだが、その中に、緑色ベースに茶色がワンポイント入った、和風の飾り付けがされている一風変わった教室があった。
お茶屋さん(by弓道部)――と、何枚かの半紙をちょうど僕の腰ぐらいの高さの長方形の板に張り付けて作られた看板には、黒々とした墨でそう書かれている。ただ、その文字がやけに女子女子した丸文字でその上おまけとばかりにハートマークまでるんるんふわふわ描かれているので、素人意見ではあるが墨書特有の良さが何だか損なわれているような気がした。
それはさておき、この茶屋はどうやら弓道部の出展らしい。弓道部といえば、いつだったか、わざわざ弓道部が練習しているところへ出向いて出展の概要を確認したあのときのことが思い起こされるが、果たして弓道部員らはこの店を上手く回せているのだろうか?
生徒会室へ向かう途中ではあったが、気になって中へ入ってみる。入り口に掛けられた安っぽい暖簾が僕を出迎えた。
――するとそこは、意外にも味のある空間に仕上がっていた。
店内は、向かって左側半分ほどがおそらく柔道部から借りたのであろう畳が敷き詰められた座敷スペースになっており、そこに昭和チックなちゃぶ台と真っ赤な座布団をいくつか並べて席が作られている。中央には誰に挿してもらったのか大きな活花が置いてあって、机や壁には折り紙の鶴やら椿が飾ってある。若干暗めの室内は、部屋の四つ角に設置された四角い和紙の照明で淡く照らされていた。
……とまぁこんな感じで、あくまで文化祭クオリティではあるのだが、上手いこと雰囲気を出せているので店のコンセプトはこちらにも十分伝わってくる。できは正直『それっぽい』止まりではあるが、その『ぽい』が大事なのだ。あまり雰囲気を本物に近づけすぎると、今度は逆に客が引いてしまうからな。「うわっ、何こいつらガチにやってんの……?」みたいなアレだ。
店内に入って辺りを見回していると、折り畳みテーブルに鶯色のクロスが掛けられたカウンターを挟んで、店員に声を掛けられた。
「いらっしゃいませ。お一人様ですよね?」
「そうだけど、そうじゃないだろ……」
その言い方だと、まるで僕が文化祭を一緒に回る友達もいないぼっちみたいに聞こえるんだけど……。まぁ実際にその通りだから何も言えないが。
――反射的に返してしまったが、そう声を掛けてきたのは野々宮扇。弓道着に臙脂のショートエプロンと、いかにもな出で立ちで応対する。
「冗談よ。意外な人が来たものだから少し意地悪したくなったの」
野々宮はくすくす笑いながら、「こっちよ」と奥の席まで誘導する。靴を脱いで畳に上がり、席に着いて初めて分かった。旧校舎の教室は本校舎のそれよりも少し広めのようだ。茶店の内装を施した上でも、十分なスペースが取れている。
「これ、お品書き。おススメは水まんじゅうね。あそこの餅屋さんだとこれが一番おいしいから」
「やっぱりだけど手作りではないんだな……」
「あら失礼ね。もちろん手作りよ。松井のおばちゃんのね」
「いや知らんけど……。その店行ったことないし……、誰だよ松井さん」
これもどうやらお手製らしい冊子のお品書きを受け取って、適当にパラパラ捲って一通り流し見た。実はこの地域には有名なお茶所が多く茶菓子の種類も豊富なので、それに詳しくない人であれば想像している物と名前が一致しないことがよくある。このお品書きも文字だけで写真がついていないので、あまりよく分からなかった。結局、僕は野々宮に勧められた水まんじゅうを注文する。
注文を聞いた野々宮が、カウンターに戻って厨房(カウンターの中に、簀子で仕切られたスペースがあった)にそれを伝える。おそらくクーラーボックスから出してきただけなのだろう、ものの数秒でカウンターに水まんじゅうと湯のみが置かれ、野々宮がそれを盆に乗せて運んできた。
「お待ちどう様」
「言うほど待ってねぇけどな」
たぶん一分も掛かってない。
「……で、何の用があってここに来たのかしら?」
野々宮は給仕を終えると、僕に尋ねてきた。
「用がないと来ちゃいけねぇのかよ」
目の前に出された湯のみを傾ける。入れられたばかりの緑茶は想像よりも熱く、思わず「あちっ……」と声に出してしまった。
「別にそういうわけじゃないけれど……、でもこのお店、旧校舎の奥まった場所にあるし、わざわざ私のいる時間にやって来たのだから、何かあったのかと思うじゃない」
「生徒会室に行く途中でたまたま目に入ったんだよ。弓道部の茶店っていったら色々あったからな。結局、上手くやれてるのか確認がてら立ち寄ったんだ」
「生徒会室? ああ……、白日さんに呼び出されたのね」
特に説明したわけでもないが、いつものことなので野々宮は理解したようだ。それ以上深くは聞いてこなかった。
代わって今度は僕が質問する。
「で、どうなんだよ実際。お前的な評価は?」
「……まぁ可もなく不可も無くといったところかしらね。皆もともと雰囲気だけを楽しめれば良かったみたいだから、手が込んでいるのは内装ぐらいのものだし……。だからこそ、メニューは全部既製品で済ませてるの。お菓子を全部一から手作りするとなると、かなりの手間と時間が掛かるから」
「なるほどな。……まぁ準備期間も決して長かったわけじゃないし、そもそもお前が茶店をするって話を聞いたのも途中からだもんな。それが妥当か」
言いながら僕は、葉っぱの形をした器に乗った水まんじゅうを、添えられた田楽串で一口いただく。熱いお茶で温まった口の中に、ひんやりと涼しげな口当たり。つるりとしたのぞ越しが心地よい。
全て平らげたあと、最後にほどよい温度まで冷めたお茶で締め括ってから、僕はふと思ったことを口にした。
「お前も大変だな、いろいろと振り回されっぱなしで」
「……? どういうこと?」
要領を得なかったのか、小首を傾げる野々宮。
「どうせこの茶店も、ほとんどお前が動いてやっと形になったんだろ? 生徒会の仕事もあるのによくやるよ」
「……ああ、まぁでも仕方ないわよ。それが部長の役割なのだし。それもあと少しの間だから……」
「少しの間って……、どういうことだよ?」
聞くと、野々宮は微笑みながら諦めるような口調で答えた。
「私ね、弓道部の部長、辞めることにしたの」
「……え? 辞める? 部長を? なんでって……聞くまでもないけど……、でもなんでだよ?」
「あなたの想像通りよ。私一人で弓道部を取り仕切るのがそろそろ重荷になってきたの。あとそれとは別に、生徒会業務に本腰を入れたいからっていうのもあるけれどね」
野々宮はさしてたいしたことでもないふうに言ってのける。そして、こうも続けた。
「最初は弓道部自体止めてしまうつもりだったのだけれど……、まだ弓道への未練が残っているし、それにここで止めてしまえば他の部員たちに好き勝手言われそうで癪だからね。そこへいくと、部長だけ辞任するという形をとれば後継の人間にアドバイスという名目で実質的な指示を出せるから、権限を残したまま責任だけを別の者に押し付けることができる。好きなときに言いたいことを言えて、かつ非難の矛先を逸らすことができる理想的な立場に着けるわ」
「理屈は分かるけど何か釈然としないな……」
そういう考え方は何というか……、野々宮よりも僕が好んでしそうな考え方だ。
微妙な表情から僕の言いたいことが野々宮にも伝わったのか、彼女は釈明した。
「さっきも言ったけれど、今は弓道部のことよりも生徒会のことに集中したいの。……ほら、もうあと数ヶ月もしないうちに任期満了で役員が移り変わるでしょ?」
……あ、そうか。言われてみれば確かにその通りだ。
今は六月の中旬。三年の受験の都合もあってこの学校では早めに世代交代されるから、次の生徒会発足は九月ごろ。選挙管理委員会の前準備と候補の募集、選挙演説の日取りや実際の投票を計算に入れると、七月の終わりには現生徒会の引き上げが済んでいることが望ましい。つまり、あと一か月ちょっとの猶予しか残されていないわけだ。
だから野々宮は、残された任期を最後までまっとうしたいということなのだろうか?
尋ねると、野々宮は小さくかぶりを振る。
「いや、むしろ逆ね。もちろん現生徒会も抜かりなく終えるつもりだけれど、私が見据えているのはその先。次の世代の生徒会よ」
「……は? 次の世代?」
野々宮は無言で頷くと、期待を込めた眼差しでこちらを見る。
や、そんなキラキラした視線を僕に向けられましても……。ってか野々宮のキャラにそういうの全然合ってないから怖いし不気味だしちょっとドキッとして困る。
つい誤魔化すように目線を逸らしてしまう僕。それを知ってか知らずか、野々宮はそんな僕に追撃するように隣に座ってきた。女座りによって伸ばされた細長い足が妙に艶めかしい。袴で隠れているはずなのに。自然と鼓動が早くなる。
それからしばらく黙って虚空を見つめていた野々宮が、ふいにぼそっと溢した。
「私ね……、みんなと生徒会の仕事やれて楽しかった」
「みんなってのは……」
「もちろん、篠倉さん那須美くん、それから白日さん、当然……あなたもよ」
聞くまでもないでしょと言わんばかりに、野々宮はふふと苦笑する。
最後に着け添えられた自分の名前が妙にむず痒く、思わず僕は「お……あ、おう……。そっ、そうか……」とキョドってしまって実にキモい。
そんな僕がおかしかったのか、野々宮は更にくすっと笑った。
「そうよ。だから私は……、今度はあなたたちと一緒に、正真正銘の正規のメンバーとして生徒会をやっていきたいの」
「はぁ……? 僕らが生徒会……? そんな無理な話……ってわけでもないのか、よく考えてみれば」
仰け反り気味に大袈裟に驚いてしまったが、しかしよくよく考えてみるとそれほど突飛な発想でもなかった。
なぜなら僕らは、短期間とはいえ現に現生徒会に代わってその業務を完遂したのだ。そういった運営側の経験が無い者もいる中、別段余裕が無かったわけでもないし、不測の事態にも十分な対応ができた。ちょうど人数も揃っているわけだし、これだけの条件が揃えば現生徒会役員である野々宮が僕らを次の役員へと推すのは自然なことだろう。矛盾は無い。
「……ただ、想像はあまりできないけど」
考えていると、思考が途中から声に出ていたらしい。野々宮が言い返してきた。
「想像も何も、正式な役職につくということ以外はほとんど変わりないわ。……そうね、経験と適正から考えて白日さんが会長、私が副会長で、篠倉さんと那須美君が書記、あなたは会計といったところかしら」
「どうして僕が会計なんだよ? 別に嫌じゃないけど」
「だってあなたが一番お金にうるさそうだもの。……いえ、お金にケチ……汚い。そう、お金に汚そうだもの」
「なんで言い直したんだよ」
別に間違っちゃいないけどな。以前に各クラスの文化祭の企画書を確認していたときは、真っ先に予算に目が行っていたし。
……ってかだいたい、野々宮の言ったことには一つ大きな問題がある。
「お前がどうしてもそうしたいって言うんなら……僕も天邪鬼に反発したりしないけどさ、特に篠倉なんかは喜んで賛成するだろうし。……でも、芙蓉は別だろ」
あいつは気まぐれで掴みどころのないやつだから、次の生徒会まで引き受けるかどうかまでは分からない。むしろこちらから誘えば、それこそ天邪鬼に『そのつもりだったけどやっぱりやーめた』となるまである。
「そうかしら? 彼女、案外真面目な性格よ。煙草屋会長のいない間は、誰に言われたわけでもなく彼女が進んでその代わりを務めていたし、指示もまめだったでしょ。出店外組の旧校舎移動も、彼女が教師陣に話をつけてそれで決定したらしいわ」
はーん、あいつがね……。それを聞くと確かにそんなふうに思えなくもないな。
普段は飄々としているけれど、こと生徒会行事に関しては真面目に取り組んでいた印象はある。僕らという生徒会の助っ人を探したり、弓道部の企画書の件やバンドグループのドタキャンの件など業務に何か支障をきたしそうなものがあれば即座に対応したりと、わりと副会長らしい活躍をしている。仕事も自ら進んですることが多かったし、それが生徒会にやりがいを感じていたからだとすれば、芙蓉が次の生徒会役員に立候補することもない話ではない。
「ま、これからちょうど芙蓉に会いに行くところだしそれも聞いといてやるよ。何にせよ話はそれからだ」
壁に掛けられた時計を見やり、僕は席を立ち上がった。
時刻は午後二時四六分――芙蓉との約束の時間まであと一五分もないので、もうそろそろここを出た方がいいだろう。
「あ、そうだ野々宮。お前放課後空いてるか?」
「別に予定は無いけれど……、それがどうか……あっ」
空いた皿と湯呑を片付けていると、野々宮は突然ピタッと止まって何かに気づいたような素振りを見せた。しかし野々宮は咳払いをしてそれを誤魔化すと、いそいそとまたすぐに手を動かし始める。
「……こほん。それで、私の予定を聞いてどうしようというのかしら?」
野々宮はこちらを向きもしないで、片手間に尋ねてくる。それが返って余裕がないように見えるというか、何だか答えを急かしているように思えた。
「いや何、別にそうたいしたことじゃないんだ」
「……へ?」
僕が断ると、野々宮は珍しく気の抜けたような声を漏らした。
「篠倉との話の流れで……、放課後にみんなで文化祭の打ち上げをすることになったんだよ。篠倉は当然参加だとして、那須美も行くってことだった。んで、お前は来れんのかなって思ってさ」
「……そ、そう。そうなんだ……。みんなで……、ね。……と、当然よね! 私たちみんなが協力して成し遂げた文化祭なんだから……あはは……、はぁー……」
なぜだか重いものが肩にずーんとのしかかったように顔を伏せる野々宮。口調も急にたどたどしくなって、見るからに気落ちしている。いったいどうしたというのだろうか?
「……あの、野々宮? 何か僕まずいことを……」
「別に何でもないわよ! 打ち上げもちゃんと行かせてもらうから心配しないで!」
野々宮の顔を覗きこむ僕を、彼女は手で押しやって突っぱねる。
どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。野々宮は満面を朱に染めて、ぷいっと僕から顔を逸らしてしまった。
決まりが悪くなって、僕はぼりぼりと頭を掻く。これからここを出ようとしていたところなのに、何だか後味の悪い去り際になってしまった。
このまま行ってしまうのもどうかと思って考え倦んでいると、野々宮がつんとぞんざいな態度で手を差し出してきた。
「……お代」
「え? ああ……、そうだったな。ほら」
財布からちょうどの額を取り出して、伝票と一緒に野々宮に差し出す。野々宮は僕と目を合わせようともせずに、黙ってそれを受け取った。
「………………」
「えっーと……、もしかして足りなかったか?」
決してそんなはずはないのだが、野々宮が料金を受け取っても突っ立ったままそこから動こうとしないので、まだ何かあるのかと僕もこの場を離れることができない。
幾秒か経ち、こちらが口を開こうとした矢先、野々宮が小声で一言――
「………………じゃあ、また後でね。荻村君」
と、ぽつりと呟いて小さく手を振ると、野々宮はすぐにカウンターの奥へそそくさと戻っていってしまった。
何だかよく分からんけど……、とりあえず怒ってはいないらしい。じゃなきゃまた後でなんて言ってくれないだろうから。
僕はほっと胸を撫で下ろして一息つくと、すぐに時計を確認し、茶店を後にする。
ここから生徒会室までは目と鼻の先だ。今から行けば、ちょうど約束の時間に間に合うだろう。
緑茶の渋くてちょっぴり甘い香りに後を引かれつつ、僕は生徒会室に向かった。
六
「やあ富士。待ちくたびれたぞ」
と、生徒会室に入るなり、向かい正面の会長の席に座った白日芙蓉にそんな言葉を掛けられた。
「別に遅刻はしてないだろ。約束の時間ちょうどじゃねぇか」
「何、さすがの生徒会副会長様も文化祭当日になるとすることがなくて暇でね、少し早めにここに来てお前を待ってんだよ」
言いながら芙蓉は立ち上がると、僕の前までとことこやって来る。そして、「とりあえずここに掛けろ」と手前の長卓の椅子を引いた。
立ち話もなんだし言われた通りそこに腰を掛けると、芙蓉もその正面の席に座った。
「そうだ、お茶でも入れようか?」
再び立ち上がろうとする芙蓉を、僕は手で制して断った。
「や、僕は遠慮しておくよ」
「……そうか、なら僕も止めておこう」
芙蓉は椅子に座り直すと、壁に掛けられたカレンダーに目をやる。
そして、感慨深そうに頷いた。
「今日は六月の一七日。お前と最初に出会ったのが五月の中頃だったか? するとあれから一か月ほどが経ったわけだ。意外に短いな、お前とはもう少しばかり長い付き合いだと思っていたよ」
「そのたった一か月に山ほどの出来事が詰まってるからな。そう感じるのも無理はないかもな」
芙蓉のことだけじゃない。僕が篠倉と出会ってから、僕が夢世界の存在を知ってからの毎日は、一日一日がとても重くて価値のあるものだった。これほど長い二か月間は、今までの僕の人生の中でも間違いなく経験したことがない。
人間、楽しいときは時間を短く感じて、辛いときは時間を長く感じるものだというが、案外それは苦楽の問題じゃないのかもしれない。過ぎゆく日々に何も感じず意味を見いださなければ、そこに思い出はなく記憶には残らないだろう。たいして覚えてもいない普段通りの代わり映えのしない日常なら、そりゃ時間が早く過ぎていったようにも感じるはずだ。逆に自分の印象に強く残るような出来事さえあれば、その分だけ記憶にも多く残る。思い出の量が前者よりも多いのだから、過ぎ去った日々も長く感じるはずだ。
数字にしてたった二か月――これから先の学校生活の方が遥かに長いが、これは僕の高校生という時期を象徴する思い出になるはずだ。楽しかったことも、苦しかったことも、全てが凝縮された二か月間だった。
――これまでのことを回想していると、そこに芙蓉が「おいおい、ちょっと待て」と口を挟んできた。
「感傷に浸るのも構わないけれど、区切りを付けるにはまだ早いんじゃないか? あと一つ、最後に片付けなければいけないことが残っているだろう」
片付けなければいけないこと――確かに当初の懸念事項である文化祭運営はひとまず落着し、かねてからの命題であった悪夢騒動の主犯、座頭橋先生とも決着をつけた。
大仰な言い方をすれば、僕の使命はこれで全て果たしたように思える。しかし実際には、僕の目の前にはまだやりのこしたことが残されているらしかった。
――白日芙蓉との、けじめ。
「……生徒会の仕事を手伝えば、お前の正体について質問に答えてくれる。そういえばそんな約束だったな」
「正確には、何でも好きな質問に答えてやる、だがな。……ま、とにかくお前はよくやってくれたよ。突拍子もない頼み事だったにも拘わらず、お前は見事に私の期待通りの働きをしてくれた。改めて礼を言おう」
そこで芙蓉は、意外にもペコリと軽く頭を下げた。彼女から礼の言葉を聞くだけでも珍しいのに、そんな素直な態度をとられると逆に調子が狂ってくる。
「別に……、それはいいんだけどさ。もともとそういう条件でこっちにも対価があるわけだし。それにお前だって端々で僕らの助けをしてくれてたじゃねぇか。昏睡状態の生徒たちが今日こうして無事文化祭に出席できてるのも、お前が昨日何かしたからなんだろ? ほら、あのとき座頭橋先生に言ってただろ。明日の朝には、全員がいつも通りの朝を迎えられるようにするって。まぁ実際にお前が何をどうしたのかよく分からんけど」
「……そうだな。ではそれも含めて、全ての種明かしといこうか」
芙蓉は静かに瞑目する。まずはどれから説明したものかと考えているのだろうか。瞬時にこの教室いっぱいに静寂が広がり、僕の視界には芙蓉の姿のみ映る。まるで僕と彼女が向き合ったその空間だけが生徒会室から切り離されたように、僕らの意識は互いに相手へと集中していた。
「……では、順を追って」
沈黙を破り、芙蓉が口を開いた。
「考えてみたがお前の疑問視している点はそう多くないはずだ。大まかにまとめてしまえば、根源的には一つと言ってもいいだろう」
芙蓉はおもむろに開眼すると、人差し指を立てて示した。
「僕の正体は何か――畢竟これに尽きる」
「……ま、それには違いないな」
何でも幾らでも好きな質問に答えてもらえるとの約束ではあったが、あのときの僕が気になっていたこと、聞きたかったことは、本来そのたった一つだけなのだ。
芙蓉との初対面――僕が初めて彼女に抱いた感想はただひたすらに『不気味』。芙蓉の得体の知れなさ底の知れなさが、気味悪かった。どうしてこうも、彼女は自分のことについて知り得ているのか、核心を突くようなことを言うのか。その理由を明らかにしなければ、いつまでもその気味の悪さは後に残るような気がしたのだ。
だからこそ、がらじゃない生徒会の手伝いまでやってのけた。
「誤魔化さず率直に言おう。私の正体はな、お前らの『夢』だ」
「……えっ、は?」
芙蓉の言っている意味が分からない……わけではないが、あまりに信じがたいというかイメージしていたものとスケールが違い過ぎたので、僕は思わず聞き返してしまった。
「正確には、夢のバックアップと言った方が正しいかな。要は身を守るための保険だ」
説明を付け加えられたところで全く意味不明だ。こっちから質問したのにも拘わらず、こいついきなり何わけの分からんこと言ってんのと思っているまである。
疑問は尽きないが、しかしそこに僕が口を挟んだところで余計にややこしくするだけだろう。とりあえず最後まで黙って話を聞いてみることにする。
「始まりは今から二か月前――この学校の生徒たちに大きく影響を与えることになる出来事が起きた。……それが何か分かるか?」
今から二か月前と言えば……四月。ちょうど新年度を迎えたばかりで、周囲の環境ががらりと一変するころだ。一口に影響を与える出来事といっても、むしろそうじゃないことの方が少ないくらいで……。
「思いつかないか? まさかそんなはずはないだろう。お前自身、その時期が分水嶺となったから今ここでこうして僕と会話しているんじゃないか」
「……僕に影響を与えた出来事って言えば、あの日保健室で篠倉と邂逅したことだけど……、いやでもやっぱり違うか? それって僕に限った話だもんな」
「や、でも惜しいよ。さらに、そのきっかけとなったことを考えてみるんだ」
きっかけ、か。あの日確か僕は――
「……あ」
「思い出せたか?」
「あの日確か僕は、授業中に居眠りをしていて……それで悪夢を見たんだった。それで体がだるくて気乗りしなかったから……、保健室で次の授業をサボることにしたんだった」
「そうそれだ。〝悪夢〟なんだよ富士」
軽快にパチンと指を鳴らして、「それがキーワードだ」と芙蓉は言う。そして、こう続けた。
「四月当初――この学校にある人物が教育実習生という名目でやって来た。その人物はこの学校の生徒の夢を無差別に荒して回り、その人物の元ある夢を破壊して強制的に悪夢を見せた。それが君も知っての通り――」
「……座頭橋先生か」
「ご名答。ついで教えてやると、あの時期に悪夢にうなされていたのはお前だけじゃないんだ。気づかれなかっただけで実は他にもいた。それに座頭橋瑠璃がこの学校に来る以前のものも含めると、彼女による悪夢の被害は結構な規模になる。お前が想像していたよりも遥かにな」
言われてみれば確かにそうだ。僕は最近になって悪夢が何者かの手によって引き起こされたものだと気づき、その被害は僕らだけでなくこの学校の生徒らにも広がっているのだとそのとき初めて知った。しかし考えてみれば、それは僕らが認知していなかっただけの話で、四月五月の早い段階で僕らと同様に悪夢にうなされていた者が他にもいたかもしれないし、おそらく座頭橋先生は城野高校の教育実習生として就く以前からもその所業を繰り返し行っていただろう。そう考えると、被害者は城野高校内に留まらず、先生の関わった様々な場所で存在していることになる。
……今更だが、本当に末恐ろしい話だ。その責任を先生に取らせるどころか、逆に彼女へ手を差し伸べた僕が言うのも何だけど。
「でもそれが、お前の出自といったい何の関係があるんだよ?」
「バカ、大ありだよ」
芙蓉は呆れるように僕の疑問を一蹴すると、ようやく話の本筋に戻る。
「彼女が作り出した悪夢によってあらゆる人の夢がどんどん破壊され、夢世界は大きなダメージを負った。このままでは近いうちに夢世界は崩壊し、人々の精神に多大な影響を及ぼすことになる。そうならない為に夢世界は、現実世界に夢の複製を保存したわけだ。たとえ座頭橋瑠璃によって夢を破壊されたとしても、欠けた部分を複製からコピーすることで修復する――バックアップを作り出した。それこそが……、この僕なんだよ。悪夢に侵されて寝たきりの生徒たちが突然快復したのは、そのバックアップから夢を復元したからだ」
………………なるほど、理屈はおおよそ分かった。分かったのだが……、そんなことを容易く受け入れられるほど僕は聡くない。夢世界が現実世界に干渉しただけでなく、こんな捻くれた可愛げのない女の子を生み出してしまうことなんて、そんな荒唐無稽な話が有り得てしまっていいのだろうか? 超明晰の力や夢魔なんかはまだ夢で起きている出来事だからと納得することはできたが、今芙蓉が説明したのはあくまで現実世界でのこと。夢とは違い、万物には道理と法則がありそれを無視することは決して許されない。
「お前が言う通りだとすれば……、夢が現実に働きかけて影響を及ぼしたってことだろ? やっぱり素直に納得はできないな」
「そう言われてもな……。あくまでそれは現象だから説明のしようがないし。ほら、リンゴが気から落ちるのは引力の所為だと分かっても、引力によってなぜリンゴが気から落ちるのかは分からないだろ? 突き詰めるとなんでも哲学的で抽象的な説明に頼らざるを得なくなる。これはそういう話なのさ」
それに――と、芙蓉は続けた。
「それに現実世界でも、目覚めているときでも夢の影響を受けることはあるんだぞ? 例えば――白昼夢とかな」
「白昼夢? 白昼って……、あっ? お前の苗字ってもしかして――」
「おっ、察しがいいな。まさにその通り。白日は、白昼夢からとった苗字だ」
白昼夢――日中に見る夢のことで、主に幻など非現実的な体験を指す。白昼は白日と言い換えることができ、読みが変わって白日だ。夢が形となって現実に現れた彼女は、まさに白昼夢そのもの。名は体を表すとはよく言うが、彼女の場合はそれが逆で、体が名を表しているのだ。
「ちなみに、下の名前のにもちゃんと意味があるんだが……分かるか?」
「下の名前というと……、『芙蓉』ってのにもか? 芙蓉って……確か花の名前だっけ? 名前ぐらいしか聞いたことないからよく知らんけど」
「その通りだ。そしてその花の美しさから転じて、古くから芙蓉は美しい女性の例えとしても用いられる」
「それだとお前がまるで美人みたいに聞こえ――って痛い!」
机越しに脛を蹴られ、思わず仰け反ってしまい椅子ごと倒れそうになる僕。芙蓉ったら顔色一つ変えず何の前触れもなしに手もとい足を出してきやがった。……さすがに悪ふざけがすぎたかな?
僕が居住まいを正して聞く体勢に戻ると、芙蓉はふんと鼻を鳴らしてからまた話し始めた。
「僕が言いたいのは、つまり芙蓉という言葉は美しい物を表現するための美称としても扱われるということだ。例えば『芙蓉峰』――これはある山の別名だが、その二つとない気高き美しさに準えてそう呼ばれるようになったらしい」
……ん? 二つとない……気高くて美しい山? なんかそんな山を知っているような気がしなくもない。
「それってたぶん日本の山だよな?」
「そうだよ。日本のシンボルと言っても過言ではない。標高3776メートル。その優雅な景観はかつての歌人たちも多く歌に残したほどだ。……田子の浦ゆ、打ち出でて見れば、白妙の――」
富士の高嶺に雪は振りつつ――山部赤人。小学生でも知っているやつは知っている、百人一首の有名な詩だ。
富士。なるほど、つまり芙蓉峰とは、どうやら富士山のことらしい。 ……ん? いや、ちょっと待てよ……? 僕の名前も富士でトミシなんだけど……、これはどういうことなのだろうか? 偶然か?
「どうやら理解し始めたようだな」
僕の背後から、くくっと不敵な笑い声が聞こえてきた。
振り向くと、芙蓉がいつの間にか僕の背後に立っている。そして彼女はいつかのように――僕の肩にそっと手を添えると、耳元で囁いたのだ。
「……そう。私の芙蓉という名前は、トミシ――お前の対として、お前のドッペルとしての僕を意味するものなんだよ」
「僕の……対? ドッペル……? お前いったい何を言って――」
「僕が夢世界のバックアップだということは今話したな?」
意味が分からず狼狽える僕の言葉を遮って、芙蓉は説明を続ける。
「そもそも私がなぜ人の形をしているのか? これは、現実世界にただ形として物として保存するだけでは、何かの拍子でそれが破壊されてしまうかもしれないからだ。ただの物体では考える力も無ければ自己防衛することすらできないからな。しかし人間を媒体にすれば、それらの事項は全て解決される。それで僕は、現実世界に人間として姿を成しているのだ」
芙蓉は僕の肩から手を離すと、隣の席に腰掛ける。そして背もたれに肘を突き体を僕の方に向けると、その無駄に長くて細いすらりとした足を組んだ。
どう見ても、彼女が僕らのような普通の人間ではないだなんて信じられない。その容姿や仕草の何一つとっても、芙蓉の言を聞いた今でさえ特異な点を見つけるなどできず、彼彼女はとても人間らしい。
芙蓉の話を聞く限り、その人間らしさも外敵から身を守るカムフラージュなのかもしれないが。
「……僕の話が信じられないか? それはそうさ。さっきも言った通り、僕はお前のドッペルだ。僕の人間らしさを否定することは、とりもなおさずお前自身を否定することになる」
人差し指を僕の胸に突きつけて、そう指摘する芙蓉。
彼女が先ほどから繰り返しているドッペルとは――複製あるいはコピー、写しのことだ。
つまり彼女の言う通りならば、白日芙蓉は荻村富士をコピーした模倣品だとそういうことになる――が、それも知っている言葉の意味をそれぞれ繋げただけで、理解とはほど遠い。
芙蓉が口にしたことをそのまま直訳しているだけで、結局それが何を意味するのか結論づかないまとまらない。
前情報と新事実で頭の中がこんがらがって、僕の頭はぽかーんだ。
「まぁそう言わずに考えてもみてくれ。……現実世界に人間を媒体としてバックアップをとるにしても、何も無いところから一つの個を生み出すのは難しいだろ? 例えば駆け出しの漫画家なんかでも、最初から全くのオリジナルのストーリーやキャラを作り出すのはナンセンスだ。例えそれが何かの模倣品だとしても、最初は誰かの真似事から入ることが一番イメージを掴みやすい。画家のデッサンとかも同じだ。それと一緒で僕の場合も、現実世界に僕をかたどるベースが必要だった。それがお前なんだ」
「だからなんでそこで僕が出てくるんだよ」
「そりゃもちろん、お前が座頭橋瑠璃に目を付けられていたからだよ」
「はぁ?」
何がもちろんなのかさっぱり分からない。
そんな僕の様子を受けて、芙蓉がさらに言葉を噛み砕く。
「彼女は当初から自分と似た境遇のお前に興味を抱いていた。だからこそお前を目にかけていたし色々とちょっかいを出していたわけだが、言うなれば、僕はそれをデコイにしていたんだ。座頭橋瑠璃の気に入っている荻村富士に性格や容姿を似せてキャラを被せることで、逆に彼女の目に目立たなくなるという寸法だ。木を隠すには森の中ということだな。僕とお前で性別が異なっているのはその辺りの調整だろう。あまり似すぎていても具合が悪いからな」
「……僕の影に隠れていたってことか? でも目立たないってだけなら、先生が全く興味の抱かないようなどっかそこらの平凡な人間でもよかったんじゃないか?」
「ところがそうもいかないんだよ。座頭橋瑠璃は極めて不安定な人間だからな。お前のように気に入ったやつをターゲットにすることもあれば、有象無象から無作為に選んで手を出すこともある。バックアップがそんなデタラメな抽選で呆気なく壊されてしまってはかなわないだろ? さっきも言った通り、標的にならないためには彼女の目をデコイで逸らすのが最善の塩梅なんだよ。それに、お前の性格は何かと都合が良い」
「性格?」
「ああ。お前は賢く自己理解に優れ、さらに他人に対してひどく臆病だからな。自分の身を他人から守るのに、これほど都合の良い性格はない」
賢くて、臆病か。後者はともかくとして自分の分身にそういった評価をされると何だか変な気分だ。ダイナミック自画自賛って感じ。
――そう、目の前にいるのは他でもない僕の分身なんだ。そりゃ彼女が僕のことを何でもお見通しでもおかしくはない。だって芙蓉が考えることは、そのまま僕が考えることでもあるのだから。彼女の見透かしたような話し方は、そこからくるものだったわけだ。
またそれと同時に、彼女は皆の夢そのものでもある。夢世界で起きていることの全貌を把握していたって、何ら不思議ではないのだ。夢と意識には深い関わりがある――だとすれば、皆の記憶を少しいじって生徒会に潜り込むことも可能だろう。彼女が生まれた時期と、生徒会設立の時期にズレがあるのは、おそらくそういうことだ。
「……それでもって生徒会に入ったのは、会長の動きを近くで監視するためか。あいつなら元凶じゃない分接近してもさほど問題ないってことか……? その元凶の座頭橋先生が直接生徒会に介入してきたことまでは、さすがのお前も読み切れなかったわけだ」
「まさしくその通りだ。しかしそれもお前を生徒会に引き込んでいたおかげで、うまく注意を逸らすことができた。もちろん、それでも彼女との接触は最低限避けるようにしていたけれど」
「確か先生本人も文化祭の前準備のときにそんなことを言ってたな。近寄りがたいとか何とか」
芙蓉の名前を思い出すのにも時間を少し掛けていたし、彼女はあまり先生の印象には残っていない様子だった。芙蓉の狙いは当たっていたわけだ。
「それにしても、お前の正体がまさか……僕自身だったなんてな。一応話の筋は通ってるし否定はできないけれど……、なんつーか複雑な気分だ」
言いながら僕は、芙蓉の顔を改めてよく見てみる。言われてみると芙蓉の表情や雰囲気は、やはり僕と似通っている。二重瞼のたれ目と彼女の脱力感からくる眠そうな顔つきは、まさしく僕のそれだ。一見寝癖に見える襟足のくせ毛まで共通している。
「……言ってみれば妹ができたようなもんか」
僕がぼそっと呟くと、芙蓉は手を顎にやって「んー……」としばらく考えてから、真顔で返した。
「正直、キモいぞ」
その鋭すぎる物言いにう打ちのめされそうになる僕。しかし何とか僕は気を持ち直して、弁明する。
「いや思ったんだけどさ。ドッペルって言い方だと何か、お前が僕のクローンみたいじゃん? 確かに僕とお前は限りなく似ているかもしれないけれど、まるっきり一緒ってわけじゃないだろ」
「……? それはどう違うんだ?」
「大違いだよ」
不得要領とばかりに首を捻る芙蓉に、僕は言う。
「さっきああは言ったけど、普通なら生徒会に入るなんてリスクリターンの少ないことは多分できないはずだ。だって立場的に目立ちすぎるからな。僕というデコイがあるからとはいえ、徹底するならそもそも委員会にすら入らないはずだ。もっと言うと、この学校に近づかないのが一番簡単で安全だ」
ぽかーんと口を開け、呆けた表情で目をぱちくりさせる芙蓉。よほど意外だったようで、どうやら僕の言ったようなことは考えもしなかったらしい。僅かな間、芙蓉はまるで頭脳がフリーズしたかのように固まっていた。
ややあって、芙蓉ははっ我に返ってからなぜだか少し慌てて釈明した。
「いや、だからそれはだな。座頭橋瑠璃を止められる可能性のあるお前たちとコンタクトをとる必要があったからで、自然にその流れや状況を作るためには同じくこの学校の生徒として振る舞うのが一番手っ取り早かっただけだ。生徒会に入ったのも、元よりお前たちを引き込むつもりだったからだ。コミュニケーションの場を楽に用意できるし、生徒会業務としての名目で指示を出せば、悪夢を見ている者や見せている者に対しての行動を誘導できる。監視以外の目的もまた大きい」
「そうか? 僕には、また別の理由に思えるけどな」
「はぁ? どういうことだ?」
おもむろに腕を組み、訝しげな視線を僕に送る芙蓉。
よくよく考えてみると、芙蓉は飄々とした態度をとって人をからかうことはっても、邪険な態度をとることはそうそうないことなのでちょっと珍しい。見透かしたふうにされるのが気に喰わないのだろうか? 相手に話の主導権を握られるのはあまり得意じゃないようだ。
不躾な表情を崩さぬ芙蓉に、僕は一つ咳払いをしてから切り出した。
「お前が生徒会に入ったのはたぶん――自分の存在価値を探してたんだ」
芙蓉と僕は二アリーイコールだ。芙蓉に僕の想いや考えが分かるというのなら、その逆もまた同じことが言える。僕には、白日芙蓉の心持ちが分かる。
僕が彼女の立場なら、きっとこんな感情を抱くはずだ。
「夢世界のバックアップとして生まれたお前は、その使命を終えたとき自分がどうなるのか怖かったんだよ。目的を果たしたとき、具体的には座頭橋先生との決着がついたとき、それと同時に自分の生きる意味を失うから。存在価値が無くなるから。だからお前は、自分に『生徒会副会長』っていう別の役目を与えたんだ」
白日芙蓉は、ひどく曖昧な存在だ。現実世界に存在するにも拘わらず、その実体は夢世界のデータによって成り立っている。夢と現実、両方の性質を持っているがゆえに、彼女は純粋ではないし、そのどちらでもなく、そこに存在しているのかどうかも怪しい存在だ。僕に問われて自分の正体を明かした芙蓉だが、ある意味では自分自身が一番その答えを求めていたのかもしれない。
だから芙蓉は――生徒会副会長として、城野高の生徒として、ただの現象としてではなく、人間として生きることを選んだ。そうすることで彼女は、自分の存在価値を見出し証明しようとしていたのだ。コミュニティに属し、その中での役割を遂行し、人の生き方を模倣することで――彼女は現実世界との繋がりを強めていった。近い未来自分の本当の目的が果たされたとき、二つの世界から振るい落とされてしまわないように。曖昧な存在では、誰に気づかれることもなくいつ消えてもおかしくはないから。
「――結局お前も僕と一緒で、『孤独』を感じてたんだと思う。自分がどこにいるかも分からず、考えを共有できる人間もいない。ただ与えられた使命のために、使い捨ての自分がたった一人で奮闘するのが虚しく思えたんだ。だからお前はあえて僕らと関係を持ち、そして絆を深めようとした」
だから白日芙蓉は――彼女と唯一似た存在の、荻村富士の元までやってきたのだ。自分のルーツであり、自分と同じ意識を持った、この僕に会いに来た。
芙蓉も僕と同じで、独りでは闘えなかったから。
「そんなお前を、軽々しくドッペルとかクローンとかただの複製みたいに呼べるか? そうじゃないだろ。僕とお前はかなり似ているけれど、やっぱり少し違う所があって、それぞれ個性がある。だから兄妹なんだ、僕らは。そう言った方が人間らしくて良い」
「……兄妹、か。……ぷっ、くく……」
あははははは――と、芙蓉は甲高く哄笑した。
「ふふっ……、なるほどな。そんなふうには一度も考えたことがなかった。確かに言い得て妙だ。夢から生まれた僕にそれがあるはずもなし、お前だって両親には恵まれていなかったからな。お互いに、『家族』というものを欲していたわけだ……」
ふぅと一呼吸置いて、芙蓉は笑みを落ち着かせる。そして、椅子に正しく座り直した。
ふいに芙蓉は、天井を仰いだ。背もたれにしな垂れ掛かっているせいで、椅子が斜めを向いている。沈みこむように椅子からずり落ちる彼女を、いったい何をしているのかと横から顔を覗いてみれば、彼女は生徒会室じゅうに視線を巡らせていたのだった。
ここで過ごした僕らの日々を、その目でまた思い出しているのだろうか。
「――ガチャーン?」
不安定な姿勢のままで保てるはずがなく、芙蓉は椅子ごと頭から後ろに倒れた。床に頭をぶつけ、こっちがぞっとするような鈍い音がしたので心配になったが、当の本人は頭を擦りながら何食わぬ顔でいる。
そして芙蓉は、彼女を起こそうと立ち上がっていた僕と目が合うと、また小さく微笑んだ。
「役目を終えた僕にまた役割を与えてくれるとはな……。恐れ入ったよ、さすがは僕のお兄ちゃんだ」
「……いや、その呼び方も十分きめぇから。普通に今まで通りでいいって」
「ははっ、そうか? だったらお前の言う通りにしよう、富士」
言うと芙蓉は、よっと腹筋の要領で上半身を起こし、パイプ椅子を手でどかしてから立ち上がる。乱れた制服をパンパンと払いながら、もう片方の手で投げるようにしてパイプ椅子を元ある位置へと横着に戻した。
「あんまり雑に扱うなよ。また来期、お前が使うかもしれないものなんだから」
「来期? いや僕は次の生徒会には立候補するつもりはないぞ。たしかに生徒会での活動は悪くなかったが、続ける理由が特に無いしな」
素気無く否定する芙蓉に、僕は「や、そうじゃないんだよ」と制する。
「野々宮が次期生徒会にみんなで立候補しようって言ってるんだよ」
「だったらお前らで勝手にやっとけばいいじゃないか」
「いやだからみんなってのは僕ら四人だけのことじゃなくて……、野々宮は会長をお前にやってほしいんだと」
「会長を……僕に?」
芙蓉はピクリと眉を上げて、聞き返しながら少し驚いたような表情を見せた。
「ああ。そんで副会長は野々宮、書記二人が篠倉と那須美、会計が僕だって。僕が会計なのは金勘定にうるさそうだからってことらしい。……ひどいだろ?」
いやほんとあいつの言葉には、ときどき本気で僕をめげさせようとしているんじゃないかって思えてくるくらいに悪意がある。その上的確でこっちが納得してしまうほどだから、全く何も言い返せないのだ。困った。
自分で言って気落ちしている僕がおかしかったのか、芙蓉が「そうだな」とやや呆れたようにふっと笑った。
「また僕と生徒会がやりたいだなんて……、彼女もとんだ酔狂人だ」
「別に酔狂ってこともないだろうぜ。野々宮はお前のこと結構高く買ってるみたいだし」
言ってやると、芙蓉は急に黙って鼻の頭をぽりぽりと掻く。もしや照れているのかと思って顔を覗こうとすると、彼女はそっぽを向いて顔を伏せた。
「やればいいじゃん。せっかく誘われてるんだからさ。生徒会での活動は悪くなかったんだろ?」
「……まぁそうだが。しかし僕が生徒会長か……」
「今回の文化祭でよく働いた分お前なら人望もあると思うし、前のより全然マシだろ。そこに野々宮や篠倉のサポートが付いてくるんだから無敵だ。那須美は知らんけど」
後押ししてやると、自分のことはさておきと、芙蓉は僕のことを聞いてきた。
「……お前はどうするんだよ? 僕との約束と違って今度は正式な役員だ。仕事はもっと多いし任期は長くなるし、途中で放り出すこともできないし、当然見返りも無い。正直、肩身はかなり狭いと思うぞ」
芙蓉の真っ当な疑問に、僕はうーんと首を捻る。
僕としては正直、絶対めんどくさいだろうしいつもなら野々宮の誘いに対して速攻でノーと返していたところなのだけれど、これが意外とやってみてもいいという気持ちもある。
芙蓉、野々宮、篠倉、那須美、そして僕。この全員が揃うのであれば、めんどくさいことには違いないが、代わり映えのしない日常にまた一つ変化をもたらしてくれるかもしれない。そう思うと、ちょっとそれも悪くないような気がしてくるのだ。
まあだから結局、つまりどういうことなのかといえば――
「「お前がやるなら僕もやる」」
と、僕ら二人は全く同時に全く同じことを口にした。それに驚いた僕らは、お互い相手の言ったこと理解するのに時間が掛かり、一瞬だけ硬直してしまう。
少し間を置いてから、芙蓉が堪えきれず吹き出すように笑って一言。
「……考えることは一緒だな」
芙蓉がつかつかと僕の目の前まで歩いて来た。僕らの距離は鼻の頭が触れ合ってしまいそうなほどだ。照れて顔を逸らそうとする僕の頬を、芙蓉は両手で挟んで逃げられないようにしてから、そっと告げる。
「僕はとっくにこの世界での役目を終えて……、今は君の家族で妹だ。家族だから、やっぱり傍にいないといけないよな?」
「……そう、かもな」
芙蓉は納得したように瞑目し頷くと、僕からぱっと離れる。芙蓉の言葉から察するに、たぶん彼女は次期生徒会にも立候補するだろう。であれば僕も、せっかく妹が奮起しているというのだから、それを応援してやらねばなるまい。
「さて、僕らもずいぶん話し込んだな。あれから結構経ったように思うが、今何時だ?」
篠倉が時計を見上げると同時に――教室のスピーカーにザッーとノイズが流れた。そして次の瞬間、文化祭閉会式の予鈴が校舎に響く。時刻は午後四時五〇分――三日間に渡る学生の祭典も、いよいよこれで終わりを迎える。
「おっと、もうそんな時間か。僕は閉会式での挨拶を任されているからな、もう行かないとダメだ。お前も遅れないよう定刻に出席するんだぞ、いいな?」
「あっ、ちょっと待ってくれ。最後に一つ」
早々に生徒会室から立ち去ろうとする芙蓉を、僕は引き止めた。
「今日の放課後にみんなで文化祭の打ち上げをすることにしたんだ。せっかくだし、お前も来てくれよ」
「なんだ、そのことか。それならさっき野々宮さんからメールで連絡が回ってきたよ。歩放課後すぐに校門前で待ち合わせだとさ」
足を止めて振り向くと、芙蓉は自身のケータイを示しながら答えた。
校門前で待ち合わせ……、企画しておいてなんだが僕はそこまで細かくは伝えていなかったし決めてすらいなかった。こういった約束事にはきっちりしている野々宮だ、きっと僕が後のことを何も考えていないのを見越して気を利かせてくれたのだろう。
「僕がお前らを生徒会に巻き込んだんだ。その労いをしてやるのは当然の義務だよ」
大仰に自分の胸をバンと叩く芙蓉に、僕は言う。
「そうかい。そりゃ殊勝なこった」
「当たり前だ。……何てったって僕は、次期生徒会長様だからな」
芙蓉は最後にそんな捨て台詞を残すと、「じゃな」と手を上げて挨拶してから踵を返した。
閉会式まであと五分ちょっと。ここから近い体育館で行われるとはいえ、芙蓉の立場上のんびりしていられるはずもなく彼女は速足気味でここを去る。
そういう責任感とか、何だかんだ次期生徒会にやる気になっているところとか、それはやっぱり僕にはない芙蓉だけのものだ。彼女だけにしかない、立派な特長で個性だ。
僕よりも、芙蓉の方が優れている部分は多くある。じゃなきゃあの野々宮に、生徒会長に抜擢されたりなんてしないだろう。芙蓉のみが持つ『アイデンティティー』――きっとそれは、彼女が現実世界で生きるにあたって強い味方になるだろう。それは兄である僕が、絶対に保証する。
七
――閉会式が閉式し、クラスでのショートホームルームも終了。終わりを知らせる終わりの式が無事終わり、これにて僕らの文化祭は閉幕と相成った。一年で最も大きなイベントがこの瞬間確かに終了したのだと、クラスのみんなが夕日交じりに微妙な寂寥感を醸し出す中、僕はそそくさと職員室に向かった。
うちのクラスは他と比べて早くにショートホームルームが終わったのだろう。廊下にはまだそれほど人の姿が見られないし、他のクラスの教室は未だ扉が閉ざされ教師が話をしている途中だった。この分だと校門前にみんなが集合するまで時間が掛かるだろうから、今のうちに、最期にもう一つだけ済ませておこう。
職員室の前までやってくると――僕はまず、人の多さに驚いた。そして意外なことに、その人というのが教師ではなく生徒。この時間、本来なら自分のクラスのショートホームルームに参加しているはずの生徒らが、なぜか職員室に集中しているのだ。それもあらゆる学年の、人数にしてざっと五〇人はくだらないほどの生徒らが――決して広くはない職員室の中に飽和状態だ。
そしてその生徒たちの中心には、なんとあの座頭橋先生。彼女はほとんど祀り上げられるように取り囲まれ、やれ花束だのやれ寄せ書きだの定番の贈り物を手渡されている。
行く道阻まれて中心地まで近づけない僕は、隅の方でつま先立ちして背伸びをしながらその様子を傍観する。……どうやら、僕と同じ考えの者は少なくなかったようだ。
――今日は、教育実習生の研修最期の日だ。つまり座頭橋先生はいまこの時点を以てして先生でなくなった、実習生としての任期を満了したのだ。
なるほど、だから本来であれば未だ教室で自分の席に座っているはずの生徒らが大人数で職員室を占拠しているのにも拘わらず、何のお咎めも無しなのだろう。特別慕われていた彼女のために、こうして最後の別れの時間を取ることを許したのだ。
先生の元に寄り集う生徒らが、思い思い彼女に感謝の言葉を述べる。
――「先生今までありがとう!」「先生がいてくれてホント楽しかった!」「私の悩みを聞いてくれたのは先生だけでした!」「また学校以外の場所でも会いましょう!」「俺、先生に言われた通り受験頑張るよ!」……etc。そこかしこで、先生へのメッセージが飛び交っていた。
それは先生にとっても予想外のことだったのだろうか。普通の人ならそこで涙を流して生徒らへ思いの丈をぶつけ、教師を目指す意思はより一層確かなものとなるのだろうが、座頭橋先生といえばただただ驚き戸惑うばかり。目の前で起きていることがよほど信じられないのか、それともただ理解できないのか、おそらくそのどちらかなのかあるいは両方だ。群衆の熱気や感涙のムードにすっかり呑まれてしまった先生は、「ぁぅ……あっ……ううっ……」と言葉を詰まらせて碌な反応ができずにいる。
そんな座頭橋先生を見兼ねてなのか、ある一人の年輩男性教師が生徒らの中に割って入り、「みんなして詰め寄っちゃ先生も話にくいだろう」と助け舟を出す。しかしそれがある意味キラーパスともなって、窘められ場が静まったことで、今度は逆に先生が何か話さないといけない空気になってしまった。
皆からの注目を一身に浴び、緊張から先生の体はぶるぶると震えだす。頭の中が白で埋め尽くされそうになりながらも、それでも何とか先生は当たり障りのないセリフを記憶の底から引っ張り出してきて、たどたどしくも口にした。先生の声はか細い上にもごもごとはっきりしないから、僕の位置からでは上手く聞き取れない。しかしそれがかえって先生を懸命に、いかにも別れを惜しんでいるふうに見せたのだろう。生徒らの感謝の言葉はしだいに彼女への激励へと代わっていった。
その激励のだいたいは、先生が教育実習生ではなくて本当の教師になることを応援するものだった。
「私も受験頑張りますから、先生も夢に向かって突っ走しって!」――先生とは関係なしに受験は頑張れ。
「必ずこの学校に帰って来てください。待ってますから!」――その頃にはお前はとっくに卒業している。
「教員試験の勉強、頑張ってください!」――身も蓋も無い。
というか、教育実習たってたんに単位を取得しているだけにすぎないし、それを経験したからといってみんながみんな教師を目指しているというわけでもない。……もちろんそりゃあ僕だって、僕らと過ごした日々があったからこそ私は教師になれましたって方が嬉しいに決まってるし、できればそうなってほしいと願っているけれど。でも先生の素性を知っている僕には、彼女がその期待に応えてくれることなど無いように思えた。
そうしているうちに、先生の曖昧模糊な挨拶が終わったらしい。先生が最後に「皆さんありがとうございました」と締め括ると、生徒らや教師陣は手向けに大きな拍手を送った。
先生とのお別れ会が一旦の幕引きとなり区切りがついたここらで、先ほどの年輩教師が職員室からの退室を促す。あくまで今はショートホームルームの時間であって、文化祭を終えて得た感動をクラスメイトたちと共有することも大事だからと、各自自分のクラスのことを優先させる。生徒らはしぶしぶそれに従い、「先生また後でね!」とか「メアド教えてください! 連絡しますから!」とか言って、また後で改めてお別れの挨拶に来ることを約束しながらその場から各々立ち去って行った。
僕を遮る壁が消えたことで、先生が僕の視線に気がついた。すると先生は年輩教師に何やら一言断ると、僕の方まで歩いて来る。そしてすれ違い様に僕の肩をぽんと叩いて、言外に着いて来いと示した。
成すがままに職員室を退室すると、先生は「こっちよ」と隣の特別教室に僕を誘導した。
特別教室は三日前の様子とは打って変わってすっきりしている。文化祭に使われる備品を全てそれが必要な場所へと移動させたからだろう。しかしここ数日間物置として使用されていたがために、椅子とテーブルは畳まれて隅の方へと除けられている。だから僕らは、腰を据えて話すことはせずに、そのまま自然と立ち話になるのだった。
「文化祭、ちゃんと楽しめた?」
先生の第一声が、それだった。
「……ええ。出席したのは今日一日だけでしたけど、去年より断然充実してました」
「そ、なら良かった」
先生は素っ気なく言うと、またすぐに口を閉ざしてしまった。このまま放っておくと何となくずっと黙っていそうな雰囲気だったので、こちらから話題を振る。
「あれだけの人数が先生にお別れのサプライズとは……、先生ってやっぱり生徒たちに慕われていたんですね。……あのとき芙蓉が言った通りだ」
「……ああ、白日さんね。確かにそんなことも言っていたかしら。……あのときは全く意味が分わからなかったけれど、今こうして初めて理解できたわ」
カツカツとヒールを鳴らして、先生は特別教室のさびれた黒板に歩み寄った。ほこりの被った表面を、先生は名残惜しそうにそっと撫でる。
「……もう私がこうして教卓の前に立つこともなくなるわけだ」
意外にも未練がましく呟く先生に、僕は尋ねた。
「教師を目指すつもりはないんですか?」
「……どうだろうね。私の場合、教師になろうと思った理由が理由だから……。あんなに応援してくれて悪いけれど、やっぱり胸張って教師にはなれないよ」
振り向いて、寂しく言い放つ先生。教師になることを望んではいるが、今までしてきたことを負い目に感じているようだ。
「そう……ですか。分かってはいましたけど……、やっぱり残念です。せっかくこっちはやる気になったっていうのに」
「やる気……?」
ポケットから二つ折りにした一枚の紙を取り出す僕。先生は、それを不思議そうに見つめる。
「何それ?」
「進路調査票ですよ。……前回渡したときは適当に周辺の国立大学書いてやっつけただけですからね。また新しいの貰ってきて真面目に考えたんですよ」
すっと差し出すと、先生はそれを黙って受け取って紙面に書かれた進路希望に目を通す。
先生は無言のままだったが、でも少し目が見開いたというか、ちょっと驚いたような顔をした。
「N教育大学の国語教育専修……第一希望。私と同じだね……」
先生が調査票と僕とを見比べて、そう呟いた。
「何……? 君、ひょっとして教師になりたいの?」
「ええ、そうですよ」
戸惑い混じりに確かめる先生に、僕は首肯した。
「学費はどうするのさ? 以前君は、両親のことがあって進学を決め兼ねてるみたいな感じのことを言ってたけど」
「奨学金を借りて……在学中はバイトして補って、それでも足りない分は父親に頭下げてどうにかします。……父親だけじゃなく母親ともちゃんと話をして、この件はかたをつけるもりです」
「決意は固いってこと? いったいどういう風の吹き回しなのさ……」
先生が眉を下げて頗る怪訝そうな顔をしたので、僕はその動機を明かす。
「無自覚だったのかもしれませんが、先生は僕ら生徒に信頼されています。それはさっき集まった生徒たちを見れば分かると思いますが。……だから、僕もそうなりたいんですよ。あれだけ多くの人間と関わりをもって、お互い信頼関係を結んで絆を築き上げる職業なんて、そうそうありません。もちろん、他人の人生を左右する分責任の重い職業でもありますが、だからこそ僕にはそれが尊いものに思えて、えらく理想的なんです」
「……それで、私に触発されていよいよその気になったっていうの?」
「そういうことになりますかね。……いろいろありましたけれど、結局僕の中で一番先生らしかったのは、あなたでした」
「……そう、なの」
先生はたったの一言返事をすると、調査票を奇麗に畳み直して大事にスーツの胸ポケットにしまう。そしてそのまましばらく胸に手を当てながら、先生は「これが最後の仕事だね」と静かに笑った。
「教師って大変だよ? 君みたいな意地の悪い生徒相手にしなくちゃなんないし」
「あなたも大概でしょ。……ってか、先生まだ半人前だし。今はただの大学生じゃん。結論づけるのはまだ早いって」
「相変わらずの減らず口だね。君こそ分かったようなことを言うにはまだ若すぎるよ」
先生はふふっと微笑むと、ふいに視線を窓の外に向けた。何げなく近寄って窓を開け放つと、そこから校舎を一望する。
瞬間――先生の表情が、微妙に柔らかくなったような気がした。いや正確には、先生の後ろに立っている僕には彼女の顔が見えない。しかし、肩の力が抜け、先生の体全体の緊張が解けたような気がしたのだ。
「……でもまぁ、その通りなのかもね」
先生が窓辺から見下ろした景色がどんなものだったのかは、僕には分からない。
だけれど、その所為で先生の胸中で〝未練〟が膨らんでいるのが、僕には一目瞭然だった。
「考え直してみるのも……、ありだよね?」
「はい。是非そうしてみてください」
……いや、僕が後押しする必要も、本当はないのかもしれない。
理由がどうあれ、彼女は一度教師になることを夢見たのだ。人は、たとえ夢から目覚めたとしても、眠りさえすればまた繰り返し夢を見る。一度夢見た自分の理想は、簡単には諦めがつかないものだ。
僕が余計なことを言わなくとも彼女は、今度は正規の教師として、いずれまたこの学校で教鞭をとることになったのかもしれない。だけれど僕は、座頭橋瑠璃の一番の味方となることを約束した。彼女が路に迷ったときは、僕が導いてやらなければならない。僕の先生として、彼女がそうしてくれたように――
「……そろそろ行かなきゃ。この後にまだ職員会議が残っているからね。そこでも挨拶しないといけないし」
先生は腕時計を確認すると、振り向いて僕の目を真っすぐに見つめ返した。
「ねぇ、最後に一つ聞いてもいい?」
「いいですよ、何でしょう?」
ぐっと居住まいを正して、僕は質問を促す。
「君が教師としての路を選んだ理由は分かったけれど、わざわざこの大学を選んだ理由は何なんだろう?」
「……? 別に特に無いですよ。ただ自分の力に見合ってて、家から一番近い教育大がそこだったって話です」
「……そ、ならいいんだ」
先生はぽつりと溢し頷くと、視線を教室の出口に移した。別れの挨拶もこれで終わりということらしい、先生は歩き出す。それが少し名残惜しく感じられたが、ここで引き止めてしまっては逆に先生に悪い気がして、僕は言葉を呑みこんだ。
すれ違いざま――背後から、先生に肩をとんとんと叩かれた。たぶん、振り向き際に人差し指を頬に突き立てるあれだろう。ほんとにこの人は、最後の最後まで懲りずにちょっかいを出してくる。まぁでも最後くらいは付き合ってやろうと、僕は黙って釣られてみた。
しかし――僕の頬が感じた感触は、もっと柔らかいものだった。
先生の顔が、想像よりもずっと近い。横目で先生の顎がゆっくりと引かれていくのが見える。背伸びをしていたのだろう、両足のヒールがコツンと床を鳴らした。
温かく湿っぽい梅雨の風が、僕らを煽る。
「私もう先生じゃないんだし……、いいよね?」
口角を上げ、眉を垂らし、いらずらっぽく無邪気に、先生は満面の笑みを湛えた。
僕は先生の笑窪を初めて見た――彼女が笑うところを見たのは決して少ないわけでは無いが、しかし彼女の、今まで隠れていた幸福が一気に爆ぜるような笑顔を見たのは、これが初めてのことだった。
「受験頑張れよ、後輩君」
それだけ残して、彼女は僕に背を向ける。風に吹かれて揺れる異様に長い前髪が、振袖のように翻った。
僕は、はっとした――彼女が隠した地肌には、傷はもう無い。それが何を意味するものなのかは、至極明白だった。先生との決着はついた――だからといって、決別するわけじゃないけれど。
先生が立ち去ったあと、無意識に彼女の気配をどこかに求めて、ほどなく自然と足が窓辺まで動いた。そして僕は、先ほど先生が見ていたのと同じ景色を見下ろす。
校内を行き交う生徒、そこらじゅうで弾ける笑い声、畳まれたテントや剥がされたポスターなどの――文化祭の残滓。灯りの落ちた教室、紅い光を纏う校舎の壁、伸びきった無数の細長い影、なんとこれから練習を始めるらしい野球部の準備運動。その全てが――僕に得も言われぬノスタルジーを誘う。今間違いなく、彼女は卒業した。
東の空は、瑠璃色だった。
× × ×
――ガタンゴトン、ガタンゴトン。規則的な音を立てて、電車は揺れる。
打ち上げの帰り道、すっかり疲れ果ててしまった僕は電車の座席で船を漕いでいた。
うつらうつらと瞬く視界。電車の振動に合わせて、僕の意識は静かに波立つ……。
そのとき、誰かが言った。
「――どこに行く気だ」
声のした方を向くと、そこには輪郭の曖昧な男がいた。男は僕の向かい側の席に立って、こちらを見下ろしている。僕はおぼろげな感覚で、それをただ座ってぼっーと眺めていた。
僕はまだ電車の中だった。トンネルを通っているのだろうか、窓の外は真っ暗で何も見えない。車内も薄暗く、蛍光灯の頼りない光だけが僕を照らす。男の顔は、真っ黒に塗り潰されて見えない。
「――逃げられるとでも思っているのか?」
男の声は若く、しかし妙に重たかった。
「――どこへ行こうとお前は、今までと何も変わらない。ずっと独りのままだ」
見回してみると、確かに車内には僕一人だけだった。他には誰もいない。僕に声を掛けるのは、真っ暗な車窓に映った僕自身だった。
「――孤独からは逃れられない。いつでもお前の後ろを付きまとう」
顔の見えない僕が、水面から這い出るように、僕に向かってその手を伸ばした。向かいの車窓とこちらの座席には距離があって届きはしないと思ったが、何といつのまにか車両の横幅が縮んでいるのだ。腹の辺りまで出てきた男が、ついに僕の腕を掴んだ。ざらりとした冷たい感触が肌に走る。
「――あの部屋に戻ろう」
男の背景が、窓の向こうが、フラッシュが焚かれたように鮮明になった。男が僕を連れ込もうとしているのは、あの忘れもしない白い部屋。何も無い、ただ広いだけの虚空。僕が見た悪夢だ。
「――ずっと逃げ続けるのも疲れたろう。だから、お休み」
吸い寄せられるように簡単に引っ張られる僕の体。男は再び車窓の中へと沈んでいき、掴まれた僕の腕が今まさに虚空に呑まれようとしている。
「……悪いけど、そっちはもうこりごりだ」
僕は――空いている右手を、白に混じる黒にぶつけた。
その瞬間、車窓には大きな穴が空き、さながらテレビの電源を切ったときのように、表面から映っていたものがパっと消える。ひび割れた車窓から一斉に風が吹き込んだ。
「とっくに僕は、目覚めてる」
「次は――○○駅。○○駅でございます。お忘れ物のないように――」
車内アナウンスの声で、僕は目が覚めた。
どうやら僕は、夢を見ていたらしい。周囲にはまばらではあるが普通に人がいるし、車窓にはまばらな星空に混じって見慣れた景色が流れている。さきほどのように感覚も曖昧ではないし、目に映るものに誤魔化しはいっさい無い。
ふと――自分で考えていて気がついた。そう言えば、今の夢は超明晰の力が作用しなかった。普段なら僕が特別意識をしなければ、超明晰の力が作用して夢世界へと誘われるのだが、今回はそうじゃなかった。理想と現実のギャップによって生まれる現象が、今回は現れなかった。ということは、僕の意識でその二つがピタリと一致したということだ――僕の願いは、確かに叶えられたということなのか。
僕と親友たちを繋ぐきっかけとなったものが消えたのは、やはり少し寂しい気もするが、しかし前に進むには必要なことだ。夢を叶えられるやつってのは、現実に生きているやつだけだから。
さて、あと少しで僕の下りる駅に着く。その前に少し電話をしておくかな……、父さんに。また休日にでも、受験のことについて話し合いをするために。
電車がゆっくりと速度を落とし、駅のホームが近づいてくる。プラットホームに人は少なく、派手な看板を掲げた売店だけが一際目立っていた。僕は鞄を持ち上げ立ち上がると、慣性で少し体が傾く。やがて電車は完全停車し、自動扉がプシューと空気を鳴らして開いた。
あても無く彷徨っていた僕は、行先を見つけて途中下車をする。見つけた夢へと進むため、新たな切符を手に入れるために。
夢を背負った夢負い人が、夢から目覚めて夢を追う。僕の経験した不思議な出来事はこれにて終わりを迎え、新たな僕が始まる。
夢世界は、夢のまた夢――